昼食にはまだ少し早い時間、サランは調理場へと向かっていた。
「サラン、遠駆けに行こう!」
間近に迫った洸聖と悠羽の婚儀。ここのところ式の準備でずっと王宮の中にいることになってしまった悠羽はとうとう緊張の糸が切
れてしまったのか、今朝挨拶に部屋を訪れたサランに向かってそう言った。
既に洸聖は早朝から王に呼ばれていたので部屋にはおらず、悠羽の暴走を止める者はいない。もちろん、サランは悠羽の言葉に
直ぐに頷いた。
朝の内に衣装の打ち合わせに来る仕立て屋に会えば、その後の時間が空くらしい。
昼も外で食べようと久しぶりの遠駆けに弾んだように笑う悠羽の為に、サランは外で食べることの出来る簡単な昼食を作って貰う
為に調理場に向かっていたのだ。
「・・・・・少し、勉強をした方がいいかもしれないな」
悠羽からは器用だと言われるものの、サランは唯一料理が苦手だった。作ることは出来るのだが・・・・・元々食に対してもあまり
興味の無いサランは、味付けに全く自信が無いのだ。
しかし、こんな風に不意に悠羽が欲した時、誰かに頼むのではなく自分で用意出来たら・・・・・そうすれば誰にも気兼ねをしない
なと思いながら歩いていると、ちょうど調理場の入口で洸莱と出くわしてしまった。
「洸莱様・・・・・」
「サラン?どうしたんだ?」
光華国の末王子、第四王子の洸莱。
まだ16歳ながら思慮深く、落ち着いた物腰のこの王子は、サランに対して好きだという思いを伝えてくれた。
彼らしい、言葉が少ないながらも真っ直ぐな言葉はサランの胸にも届いたが、身分の違いや自分の身体のこともあり、到底受け
入れられぬと断った。
それでも、洸莱のサランに対する態度は変わらない。いや、自分が多少見る目が変わってしまったのか、その態度は他の誰に対す
るものよりも優しく感じていた。
「悠羽様と遠駆けに出掛けることになったので、何か持ち運べる昼食をお願いしようと思いまして・・・・・」
「サラン、料理は出来ないのか?」
「・・・・・はい、恥ずかしいのですが」
目を伏せるサランに、洸莱はきっぱりと言い切る。
「そんなことは無い。何もかも完璧に見えるサランが一つでも苦手なことがあるなんて可愛い」
「かわ・・・・・」
「料理番に頼むことは無い。簡単なものでよいのならば私が作ろう」
「え?」
思い掛けない洸莱の言葉に、サランは珍しく驚いた声を上げてしまった。
突然入ってきた洸莱とサランの姿に驚いたような料理番に、洸莱は少し場所を貸して欲しいと言った。
もちろん王族である洸莱の願いを却下など出来ないのは分かっているが、洸莱は出来るだけ邪魔にならないように隅の一角を陣
取った。
「悠羽殿は好き嫌いは無いな」
「はい。苦手なものもちゃんとお食べになられます」
「そうか。いいことだな」
相槌を打つと、サランは小さく微笑んだ。
どんなに自身の容姿を褒められても表情一つ変えないサランだが、悠羽のことを言うと途端に表情が柔らかく変化する。その変化
は僅かなものだが、普段無表情といってもいいサランなだけに劇的にといってもいいくらいだと洸莱は思っていた。
「油に気をつけて」
そう言うと、洸莱は肉を焼き始める。外で食べるというからには調味料など持って行けるはずも無いので、味付けは何時もより濃
くして焼いたパンに挟んでいった。
肉だけでなく、刻んだ野菜や、果物など、手際よく作っていく洸莱の手元をじっと見詰めていたサランが小さく呟いた。
「洸莱様は器用ですね」
「簡単なものしか作れないけど」
「それでも、こんな大国の王子でいらっしゃるのに・・・・・」
「・・・・・王子、か」
目の色が両方違うという理由で、呪われた存在として離宮で育てられた洸莱。
それは父である洸英の意思ではなく、当時はまだ若い王の洸英を押さえつけていた大臣達の意向であったらしい。
その洸莱が王宮にと呼び戻されたのは10歳の時であったが、その時には既に洸莱は自分のことは自分で全て出来るようになって
いた。
離宮には料理番などおらず、中年の女の世話係が2人いただけだ。
料理や掃除など、自然と出来るようになって、それは洸莱にとってはごく当たり前のことだったのだが・・・・・。
(それが、こんな時に役立つとは・・・・・)
洸莱も男だ。
好きな相手には良く見られたいと思うし、相手が年上ならば特に頼られたいとも思う。
料理という本当にささやかな事でサランの興味が自分へと向けられるのならば、あの離宮にいた日々も無駄ではなかったのだなと、
洸莱は苦笑を零すしかなかった。
若々しいが、しっかりとした男の手。
その手が器用に動き、色鮮やかで食欲をそそりそうな料理を次々と作り出していくのがとても不思議で、サランは自然と身を乗り
出すようにして洸莱の手元を見詰めていた。
「サランは、辛いのが好きだよな」
「え?」
不意に、洸莱は手を止めてサランを見詰めた。
「何時も出された物はちゃんと食べているけど、父上や兄上達が好む酒の摘みの辛い料理は食べるのが早い。でも、悠羽殿が
2つも3つも食べる食後の甘い菓子にはほとんど手を出さない」
「・・・・・本当に?」
「気づかなかった?」
「・・・・・はい」
洸莱に言われるまで、自分に食の好みがあるとは思わなかった。毎日きちんと食べられるのはそれだけでも幸せなことで、本来は
王族の人間と共に食事をすることは恐れ多いことなのだ。
悠羽がそれを望み、周りもそれを許しているのでサランも悠羽達と同じ食事を食しているが、そんな時でも自分は事務的に物を
口に入れている・・・・・そう思っていた。
「私からすれば、気付かなかったという方が驚くが」
「洸莱様」
「見ていれば直ぐに分かる」
「・・・・・」
(そんな時も、私を・・・・・見ていた?)
華やかな大国の王族の食事。自分など、その末端に腰を掛けているだけの飾り物にもならない存在のはずだった。
そんな自分をじっと見ていたという洸莱の言葉に、サランは知らずに顔が熱くなるのを感じてしまう。
「この、赤い野菜を目印に置いておこう。悠羽殿が食べてしまうと、きっと辛いと喚くと思う」
「・・・・・気をつけます」
「そうして欲しい」
「はい」
「・・・・・」
「・・・・・」
それだけ言うと、洸莱はまた黙ったまま手を動かし始めた。
周りでは料理番が賑やかに会話をしているが、サランと洸莱のいるこの空間だけはとても静かに時が流れている。その時間は、サ
ランにとっては嫌なものではなかった。
「出来た」
「あ」
手早く作ったつもりだが、サランも食べるかと思うとつい力が入ってしまい、思いがけず大量の料理になってしまった。
(せっかくの食材を無駄に使ってしまったな)
洸莱は料理番達に申し訳ないと思うが、謝ったら更に向こうが恐縮してしまうことが過去の出来事で分かっているので、作り過ぎ
た物は自分の昼食にすることにした。
ちょうど昼の用意も今から始めるようなので、自分の分は作らないでいいと伝えればいいだろう。
「サラン」
洸莱は器用に木と布で作ってある入れ物にパンを詰めると、じっと自分の手元を見詰めていたサランに差し出した。
サランは何度かその包みと洸莱の顔を交互に見詰めていたが、やがて頭を下げてそっと受け取ってくれる。綺麗な細い指先が、そ
の瞬間洸莱の指に少しだけ触れた。
「ありがとうございます、洸莱様。お手を煩わせてしまいました」
「勝手にやったことだから。気にしないで遠駆けを楽しんできてくれ」
「・・・・・はい」
サランはもう一度頭を下げ、そのまま調理場から出て行く。
その後ろ姿さえ綺麗だなと思いながら、洸莱は残ったパンを簡単に包んで料理番に言った。
「私の昼食は作らなくていいから」
「洸莱様?」
「邪魔をした」
短く言って、頭を下げる料理番達に背を向けた洸莱はそのまま中庭へと足を向ける。
本当は喉を潤すものを貰いに行っただけなのだが、思いがけず久し振りに料理の腕を振るってしまった。いや、これは料理とも言え
ないものかもしれないが、告白以来どこか自分を避けていたサランと話が出来たことは嬉しかった。
「・・・・・これをどこで食べるか・・・・・」
「洸莱!」
手に持った包みを見下ろした時、洸莱は不意に名前を呼ばれて振り向いた。
「兄上」
そこにいたのは二番目の兄洸竣だった。
何時ものように華やかな笑みを浮かべたまま洸莱に近付いてきた洸竣は、その手に持っている物をおやと首を傾げて見詰め、その
まま腰を折って匂いを嗅いだ。
「パンか」
「はい」
本来ならば王子がするには行儀が悪いことなのだが、この兄がするとそれも優雅な行動の一つとなる。生まれながらの王子とはこう
なのだろうと人事のように思っていた洸莱は、突然手にした包みを取られてしまった。
「兄上?」
この歳にしては身長のある洸莱だが、洸竣と比べればまだ目線を上げなければならないほどには低い。
見上げてくる洸莱にふっと笑い掛けた洸竣は、そのまま片目を瞑って背を向けた。
「久し振りの洸莱の手料理だ。兄上には悪いが私が頂こう。よいな?」
「・・・・・はい」
「今度は、私が何かご馳走しよう」
相変わらず自由人だが、自分のことも初めから受け入れてくれた洸竣。こんなことで喜んでくれるのならば容易い事だと、洸莱は
少しだけ笑った。
洸竣に昼食を取られてしまったが、再び調理場に行くのも悪い気がする。
かといって、兄達のように王宮の外には滅多に出ないので、今からどうしようかと考えていた洸莱は、目の前にサランが立っているこ
とに気付いた。
「サラン?」
とうに悠羽の元へと行っていると思っていたサランがまだこんな近くにいることに戸惑った洸莱は、自分でも気付かないうちに歳相応
の無防備な顔になっていた。
そんな洸莱の表情を見て僅かに目を細めたサランが言う。
「洸莱様も、ご一緒しませんか、遠駆け」
「・・・・・私も?」
「作っていただいた昼食、2人で食べるのには多過ぎるので」
「・・・・・いいのか?」
「よろしければ」
「・・・・・では、仲間に入れてもらおう」
洸莱がそう答えると、心なしかサランもホッとした様な表情になった気がする。
そんなサランの手から先程自分が渡した昼食の入った包みを取った洸莱は、歳に似合わない深い笑みを浮かべてみせるとサラン
を振り返った。
「行こうか、サラン」
end