江坂&静の場合








 カレンダーを見る眼差しはとても真剣で、多分他の者が見ればどんな大事な仕事のことを考えているのだろうと思うほど
だが、実際に男が考えているのはただ一つ。
 どうすれば、恋人を喜ばせることが出来るか。
ただそれだけを考えながら、江坂凌二(えさか りょうじ)は、トントンと机の上を指で叩いていた。

 日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の理事である江坂凌二(えさか りょうじ)にとって、仕事は生き甲斐では
あるものの、命を懸けるほどのものではなかった。
自分の考えどおり、それこそ、能力に応じた結果がついてくることを当然と考え、江坂は悠然とこの厳しい世界を生きてき
た。
 そんな江坂に転機が訪れたのは、1人の少年と出会ったことだ。
人形のように美しい少年に興味を抱き、時間を掛けて手に入れた江坂にとって、今では彼・・・・・小早川静(こばやかわ
しずか)はかけがえのない存在となっていた。

 歳の離れた愛しい恋人のために何でもしてやりたいと思っている江坂の気持ちとは裏腹に、裕福な家庭で育ったはず
の静には欲というものがなかった。
静の喜ぶことをしてやりたいと思うのに、側にいてくれるだけで嬉しいと、可愛らしいことを言って江坂を困らせる。
 先月も、せっかく静がバレンタインデーに手作りのクッキーを作ってくれたというのに、大人気ない誤解をして不快な思い
をさせてしまった。
 静本人はもう忘れているだろうが江坂はそれを苦い教訓として、来るべき3月14日、静に最高の返礼をしようと考えて
いた。




 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「何かありましたか」
 難しい表情をしている江坂に、橘英彦(たちばな ひでひこ)が声を掛けた。江坂の秘書的役割をしている橘は有能な
男で、江坂も頼りに思っている数少ない人物だ。
 普段はこちらから切り出すまで余計なことは言わないのだが、今回自分はかなり煮詰まっているのかもしれないと、江
坂は眼鏡を外して苦く笑んだ。
 「組には関係ないことだ」
 「ええ、分かります。あなたが仕事で判断を迷うことはありませんから。小早川君に何か?」
 「・・・・・」
 自分がこんな表情をしているのは静絡みだと、一番身近にいる橘はお見通しらしい。
 「最近、私は悩むことが多い」
 「・・・・・」
 「思い通りにならないことが多くて戸惑うしな」
 「それを楽しまれているようにも見えますが」
江坂は顔を上げて橘を見た。凡庸な容姿の男は穏やかに笑んでいるが、その笑みに深い意味が含まれていることは江
坂もよく分かっている。
 「・・・・・面白いか?」
 「いいえ、良かったと思っていますよ」
 何がと、聞かなくても分かっていた。
江坂は眉間の皺を解かないまま、下がっていいぞと言う。
 「私が自分で考えないといけないことだ」
 「・・・・・それがよろしいでしょうね」
一礼して部屋を出て行く橘の背中をチラッと見送った江坂は、再び自分の思考へと戻った。




 「お帰りなさい」
 玄関先で江坂を出迎えた静は、困ったような江坂の視線に首を傾げた。
 「先に休んでいて良かったんですよ」
 「だって・・・・・朝と夜は顔が見たいから・・・・・」
 「・・・・・そんな風に言ってくれると、もう駄目だとは言えませんね」
 「・・・・・」
(だって、そうしないと顔が見れないし・・・・・)
2月の末から、江坂は土日も関係なく忙しいらしく、毎日日付が変わる頃に帰宅している。
ヤクザの世界も、普通の企業のようにこの時期は人事など、様々な雑事があるようで、組織の中でも若い江坂はかなり
の仕事を任されて動いているらしい。
 そんなに働いても大丈夫なのかと言っても、

 「静さんの顔を見ると疲れもとびます」

と、笑いながら抱きしめてくれるだけで。
それ以上追及して言うことも出来ず、せめてお帰りという言葉は伝えたいと起きて待っていることしか出来なかった。
(寂しいとか、言っている場合じゃないよ)
自分の気持より江坂の身体のことが心配で、静はどうしてもその顔を見なければ安心しなかった。

 「まだ忙しいんですか?」
 「ええ、3月いっぱいはどうしても。うちの組織も普通の会社と変わらないんですよ」
 静は綺麗な手付きで食事を続ける江坂を見つめる。
夜食とはいえ、食事の量も少し少ないような気がするが、本人は気が付いているのだろうか。
 「無理、しないでくださいね」
 「大丈夫ですよ」
 柔らかく笑んだ江坂に、静も笑い掛ける。ちゃんと笑っているだろうかと心配になりながらも、そうすれば江坂が安心する
ことも知っていた。




 静が自分のことを心配してくれているのは分かっていたが、それでもこればかりはどうしようもない。
いや、むしろこうして泊りにならず毎日帰れること自体、江坂が有能だからこそ出来ることだった。
 「・・・・・」
(休み、か)
 もうしばらくこんな日々が続いてしまうだろうと思った江坂は、ゆったりと湯船に浸かりながら、ふと以前静の言った言葉
を思い出す。

 「一緒にいられることが一番嬉しいから」

江坂にとってはその言葉こそ嬉しいものだったが、それをもっと具体的に静に示すことが出来ないだろうか。
それこそ、静に対するバレンタインの返礼になるような気がする。
 「・・・・・」
そうと決まれば自分が一体何をしたらいいのか、江坂は今後の自分のスケジュールを頭の中で素早く考えた。




 そして・・・・・3月14日当日。
 「・・・・・」
 「・・・・・・」
 「ん・・・・・」
目覚めの良い静は、少し身じろいで目を覚ました。
(・・・・・え?)
 「江坂・・・・・さん?」
 いつもは目覚めた時にいないはずの江坂が、隣で静かに眠っている。
眼鏡を外し、少し髪が乱れた姿でも十分端正な彼の顔をしばらく見つめていた静は、ハッとして枕元の時計に目をやっ
た。
 「く、9時っ?」
 完全に寝坊だと、静は焦って江坂の身体を揺する。
 「江坂さんっ、もう9時だよっ、ねっ、起きてっ」
昨夜は何時ものように日付が変わって帰ってきた江坂を出迎え、風呂からあがるのを待って一緒にベッドに入った。
疲れている江坂と抱き合うことは考えず、それでも寄り添うように眠って・・・・・本当なら日曜日でも8時過ぎには目を覚
まして、出掛ける江坂の用意を手伝わなくてはならないはずだった。
(俺の方が寝坊しちゃうなんて〜っ)
 疲れている江坂が起きることが出来ないのは分かるが、自分は大学も春休みの今、暇だといっていい身体だ。それな
のに何をしているのだろう。
 「江坂さんっ、起きてってば!」
 「・・・・・」
 「うわっ」
 不意に伸びてきた手が静の腕を掴み、再びベッドへと押し倒す。
その時になって、静は江坂が目を開いていることに気付いた。
 「あ、あのっ、時間っ」
 「いいんですよ」
 「え?だ、だって、今月は休みが無いって・・・・・」
 「休みを取りました。・・・・・今日は何日か分かりますか?」
 「え・・・・・3月・・・・・1、4日?」
 「バレンタインのお返し、私じゃ駄目でしょうか?」
 「え・・・・・」
思い掛けない江坂の言葉に、静は思わず目を見張ってしまった。




 思った以上に静が驚いている様子を見て、江坂は目を細めて笑いながら頬に手を伸ばす。
 「今日は一日中、一緒にいますよ」
物を買うことは出来る。静の欲しがっているものは数少ないが、それでも自分に用意出来ないものは無いはずだった。
 しかし、静が望んでいるのは物ではないということも分かっていた。
バレンタインに手作りのクッキーを江坂に贈ってくれたように、静は人の想いというものを大切にする。
 だからこそ、多少気恥ずかしいが自分との時間を贈れば、喜んでくれないだろうかと思えた。たった1日くらい、仕事を放
棄したとしても静と共にいたい。全く金は掛からないが、それこそ一番の愛の証にならないだろうか。
 「2人でもっと寝坊をして・・・・・そうだな、昼からはクッキーでも作りますか?」
 「・・・・・江坂さん、作れないでしょう?」
 「静さんが教えてくれたら出来ますよ」
 「俺が・・・・・」
 「今日はずっと一緒にいて、最近話せなかったこともたくさん聞かせて下さい。静さんのことで私が知らないことがあった
ら寂しいですから」
 甘えるように言えば、静は苦笑しながらも江坂の頭を抱きしめてくれた。
 「何だか・・・・・贅沢なプレゼント・・・・・」
 「・・・・・」
こんなことくらいで、そんな最高級の言葉をくれる静の存在こそ、江坂にとっては贅沢なプレゼントだ。
言葉でそう言うのは無粋な気がして、江坂は溢れる思いをキスに込めて静に贈った。





                                                                  end






江坂&静編。
平凡な1日が一番のプレゼント。