吾妻&基紀編
「捕まえた」
「あ」
綺麗な人は、指先まで綺麗なんだなと思いながら、永江基紀(ながえ もとき)はまるで他人事のように自分の腕を掴
んでいる手を見つめた。
そんな基紀の意識をこちらへと向けるように、冷淡にも聞こえる声が言葉を紡ぐ。
「何時まで逃げる気なんだ」
「に、逃げるとか、俺、はぁ」
大学の構内、今講義の時間なので廊下には人影が無い。こういう時にどうしてと思うものの、考えれば誰もいなくて良
かったとも思えた。
「・・・・・」
「最近、忙しくって・・・・・」
「・・・・・」
「別に、吾妻(あがつま)を避けたりしていたわけじゃないって」
そう言いながらも、基紀の視線は微妙に空に向けられている。
(う、嘘じゃ、ないもんな)
ずっと、目の前の人物を追いかけていたせいか単位が危うくなり、どの講義も一つも落とせないという状況は事実だった。
ただ・・・・・それで、会う時間が無いというのは言い訳になるかもしれない。会いたいと思えばどんなに忙しくても時間を
作る・・・・・それが今までの基紀のはずだった。
「あ、吾妻?」
「・・・・・」
「怒ってる?」
自分を追い掛けてまできたというのに、ずっと黙り込んでいる吾妻が何を考えているのか分からなくて、基紀はどうしよう
かと内心オロオロとしてしまっていた。
(・・・・・嘘ばっかり)
まるで小動物のように忙しなく視線を動かしている基紀を見下ろしながら、吾妻は次第に面白くないという気持が大き
くなってきた。
自分のことを好きだと言いだしたのは基紀の方で、自分はそんな基紀に押されて、押されて、押されて・・・・・少しだけ立
ち止まっただけなのに、声を掛けようとした段階で、今度は基紀の方が逃げ出している。
「俺と、セックスしてみる?そうすれば、お前が俺に本気かどうか、俺がお前をどう思っているのか、どっちも分かるような
気がするんだけど」
自分の言葉はそんなに変なものではなかったはずだ。いや、今時合コンで知り合って、その日のうちにホテルに行く気軽
な関係も多いと言うのに、自分と基紀はそれまでどれ程の時間を費やしただろうか。
(恋愛に夢見ているのか、単に、俺をそういう対象に見ていなかったのか・・・・・)
これまで関係を結んできた相手達がことごとく言っていたように、自分の容姿だけを見ているだけで良かったのか?
そんな、子供のような気持ちだったら、自分があれ程拒絶していた時点で近付くのを諦めて欲しかった。今更、こんな風
に自分の気持ちが揺れてしまってから、逃げることは・・・・・。
(許さない)
「永江」
「な、何?」
「俺の顔、好きだろう?」
「え?」
いきなり会話の種類が変わってしまったせいか、基紀が驚いたように目を丸くして視線を向けてきた。子犬のようなその
目を真っ直ぐに見つめながら違うのかと問えば、少し間を空けて好きと応えてくる。
(やっぱり、俺の顔か)
分かっていたはずなのに、基紀が他の人間と同じように自分の容姿だけに惹かれているのは面白くなかったし、それと同
時に欲を持たない基紀に苛立って、それならと吾妻は提案した。
「俺の顔、好きだろう?」
「え?」
いきなりの吾妻の質問は思い掛けないもので、基紀は驚いて視線を向けてしまった。
(た、確かに、最初は顔、だけど・・・・・)
綺麗なものや可愛いものが好きな基紀は、大学に入って直ぐに人形のように美しい友人をゲットした。
もちろん、その彼も最初は容姿から入ったが、仲良くなっていくうちに天然でのほほんとした雰囲気が居心地良くて、今
ではそのギャップさえいいなと思っているくらいだった。
吾妻を初めて見た時も、綺麗な彼と友達になりたいという欲求があったのだが、そこにもう一つの感情が加わっていた。
それは、自分を特別に思って欲しいということで・・・・・それが、一目惚れに近い感情だと思いついた時、基紀は後先考
えずに交際を申し込んでいた。
ただ、イチャイチャしたいなと、優しい笑顔を向けてもらいたいなと思っていたものの、それ以上の関係は全くといっていい
ほど考えていなかった。
だから、なのか、いきなり、吾妻がセックスしてみようと言った時、答えることも出来ずに逃げ出して、今も・・・・・逃げてい
るのだが・・・・・。
「どうなんだ?」
「す、好き、だけど」
「じゃあ、問題ない」
「え?」
「俺達、今この瞬間から恋人同士だ」
「え・・・・・えぇぇぇぇぇっ?!」
基紀は驚いて吾妻を見つめる。彼が不特定多数と関係を持ちながら、誰1人として特別な相手を作らないという話を
聞いていたし、付き合ってくれと言っていた自分自身が、それは叶わないことだと頭の中で考えていたからだ。
「お前の方が付き合ってくれって言ったんだろ」
「そ、それは、そう、だけど・・・・・俺、男だよ?」
「見れば分かる」
「吾妻、男と付き合ったことって・・・・・」
「ない。もちろん、セックスもな」
「そ、それなら、無理じゃない?俺と付き合うの」
「無理かどうか、付き合ってみないと分からないだろう」
淡々と言う吾妻が自分のことをどう思っているのかなんて、基紀には全く分からない。とても、好き好きオーラは出ていな
いのだが、吾妻の言う恋人同士というのはいったいどういう関係なのだろうか?
(映画、とか、お昼ご飯とか、遊園地、とか・・・・・一緒に行くってこと?)
基紀の顔を見ていれば、彼の考えがよく分かる。
多分、吾妻の言う恋人同士の付き合いというものを、単に友達同士・・・・・それも、もっとも仲の良い親友同士の延長
のように考えているのだろうが、もちろん吾妻はそれだけのつもりではなかった。
キスして、セックスして、普通の男女の恋人がするようなことは全部やる。その上で、自分の中のモヤモヤとした気持ちに
はっきりとした理由がつくと思うのだ。
(それに、多分俺は・・・・・)
「あ、吾妻、俺・・・・・」
「・・・・・」
眉を下げて口を開いた基紀は、もしかしたら嫌だと言うつもりなのか。
それは許さないと、吾妻はいきなり基紀の腕を引き寄せ、そのまま、甘くも色っぽくも無いキスをブチュッとぶつかるようにす
る。
まるで、犯されでもしたかのように、開いた手で唇を押さえて怯えた目で自分を見つめる基紀に、吾妻は睨むような眼差
しを向けながら言った。
「これ、既成事実」
「あ・・・・・」
「逃げるなよ、永江」
これから自分達がどういう関係を築くのかは分からなかったが、それでも逃げる基紀を追いかけて苛立つようなことは無く
なるだろう。
そう考えた吾妻は、無表情な顔に僅かな笑みを浮かべた。
end