甘い罠に堕ちる君








 ドアを開けられた江坂は、何を言うことも無く無言で車に乗り込んだ。
元々、無駄なことが嫌いな江坂はどんなに自分に尽くしてくれる部下に対してもその態度は変わらない。
ただし、それは部下に対してだけでなく、組織の上層部の人間に対してもそうなので、返ってそれが万人に平等だとい
う評価にもなっていた。



 江坂凌二(えさか りょうじ)は、日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の理事の1人だ。
36歳にしてのその地位はかなりのスピード出世で、多分この先江坂の地位はもっと上に上がることは確実だろう。
仕事上での冷酷無比な江坂は、私生活でもかなり無味乾燥な日々を味気なく思うこともなく過ごしてきたが、そんな
江坂のモノクロの世界に、最近鮮やかな色をつけた存在があった。
それは、大学1年生の青年、小早川静(こばやかわ しずか)だ。
 美しいものを好む江坂の目に止まったほどに、静の容姿はまるで人形のように整っていた。
長い間欲しいと思い、数年に渡って掛けた罠に見事に嵌まって手に入れた静は、容姿の完璧さとは裏腹にまだ子供
のように純粋無垢な性格だった。
外から見ているだけでは分からなかったそんな静の内面も愛しく思う江坂にとって、今や静の存在は手放すことの出来
ないほど大切で愛しい存在となっている。
 今だ、はっきりとした江坂の背景(ヤクザということ)を知らない静を怖がらせないように、絶対に離れていこうなどとは思
わないように、江坂は自分の腕の中に静を閉じ込めようとするが。
しかし・・・・・それが出来ないほどに、江坂は静を愛している自分を自覚するしかなかった。



 昼食をとりながらの会合が先方の都合で流れてしまい、江坂の予定は夕方までスッポリと空いてしまった。
以前ならばその時間を有益な仕事に回していたが、今の江坂には何よりも大事なものがある。
 「今、どこだ?」
少しでも時間が空けば、それは静の為に使いたい。
主語は無くても江坂の言葉の意味をくみとった部下は直ぐに答えた。
 「銀座にいらしているようです」
 「銀座?」
思い掛けない返答に、江坂の端正な眉が顰められた。
 「何の用だ?」
 「・・・・・これは、静さんに口止めをされていたのですが」
常に自分の傍にいる側近の橋口がそう切り出した。
聞いていなかったことに江坂のまとう空気はたちまち凍りつくように冷たくなり、無言のまま先を促す。
 「江坂理事が、その、甘い物は食べれるのかと」
 「・・・・・甘い物?」
不思議そうに聞き返した江坂の雰囲気は、先程よりは少しは柔らかくなっている。
それが後を続けていいのだという証だと分かる橋口は続けた。
 「今日、何の日かご存知ですか?」
 「今日・・・・・14日か」
 「バレンタインデーです」
 「・・・・・ああ」
 厳つい顔の橋口がバレンタインデーと言うのもおかしいが、江坂はくすりとも笑わない。
 「それで、静さんは理事にチョコレートを渡されたいとかで、私もそれは喜ばれるでしょうとお答えしました。インターネッ
トで銀座に美味しい店があるらしいと調べられたようです」
 そのイベントを、江坂も知らないことは無かった。
しかし、そんなくだらないものは自分には全く関係ないと思っていたし、まさか男である静がチョコレートをくれるつもりにな
るとは思ってもいなかった。
橋口の言葉を噛み締めるように聞いていた江坂は、やがて運転手に向かって静かに言った。
 「・・・・・銀座に」
多くを言わないまま、江坂はシートに身体を埋める。
軽く閉じた瞼は、それ以上の会話を断ち切るものだった。



 平日の午後の道はそれほど混んでおらず、車は割合とスムーズに目的の店に着いた。
静に付けていた護衛からは、静はまだその店にいるという連絡は受けていて、店の中が覗ける場所に車を止めさせた江
坂は愛しい姿をじっと捜した。
 「・・・・・」
(静・・・・・)
 さすがに今日はバレンタイン当日で、店の中には平日だというのに人影は多い。
その女達の中に、江坂の愛しい恋人がいた。
他に男の姿は無く、きっと恥ずかしくてたまらないだろうに、感情の表現が苦手な静は表面上は変わらない。
しかし、その美貌は女以上に整っているので店の中でもかなり目を惹いており、そんな静の周りだけぽっかりと空間が
開いていた。



(どうしよう・・・・・やっぱり男は俺だけだし・・・・・)
 表情にはほとんど出ていなかったが、静はどうしようかと内心焦っていた。
恋人になった江坂にチョコを贈る・・・・・いいことを思い付いたと勇んで店まで来たものの、店の中はもちろん女ばかりで
男は静1人だ。
(みんな、邪魔だって思ってるんだろうなあ)
 本当は、見るだけでも目の保養になる静の美貌に見惚れているのだが、妙に鈍感な静は全くそのことに気付いてい
ない。
 「何か、ご入用ですか?」
 もう20分近く、店の隅でじっと立っている静に、気を利かせた店員が話し掛けてきた。
込み合うショーウインドーに近付くことも出来ない静は、その言葉にホッとして僅かながら頬に笑みを浮かべる。
僅かな変化だが、人形のような顔に生気が宿ったように鮮やかに見えて、店員も一瞬見惚れたようにその顔を凝視して
いた。



 江坂がじっと店を見つめ始めて30分近く経った頃、ようやく愛しい姿が店から出てきた。
 「・・・・・」
ずっと静を見てきた江坂には、静が本当に嬉しそうにしているのが良く分かる。
手にした小さな紙袋を何回も目の前にかざして見つめ、その度ににっこりと笑っている静の様子は傍から見ても可愛ら
しい。
 「・・・・・これからの予定は?」
 「午後7時に会食の予定が入っております」
 「キャンセルしろ」
 「・・・・・はい」
 江坂の言葉は絶対なので、なぜとか出来ませんとかは言うことは出来ない。
 「夕食はどうされますか?」
 「・・・・・外に連れて行く」
 「では、赤坂の創作和食を予約しておきましょう。以前行かれた後、美味しかったと喜んでおられたようですし」
 「・・・・・」
全てを命令しなくても、先回りして準備をする。
そうでなくては江坂の側近は務まらなかった。



 マンションに戻った静は、玄関先にある靴を見て思わず顔が綻んだ。
(帰ってきてる)
今日は遅くなるというようなことを言っていたので、今日中にはチョコは渡せないと思っていたのだ。
急いでリビングに向かった静は、丁度コーヒーを入れようとキッチンに立っていた江坂に穏やかな笑顔で出迎えられた。
 「お帰りなさい」
 「ただいま・・・・・です」
 江坂はカップを置き、そのまま静の傍に歩み寄ってその身体を抱きしめる。
 「外は寒くありませんでしたか?」
 「大丈夫です。あの、今日は遅くなるって・・・・・」
 「キャンセルになったんですよ。だから静さんと食事に行こうと思いまして」
 「あ、ありがとうございます」
何時も自分に気を遣ってくれる江坂の気持ちが嬉しくて、静は口元に笑みを浮かべた。
 「あ・・・・・」
(チョコ・・・・・今なら渡せるかも)
改まって渡すよりも、今の高まった気持ちのまま渡した方がいいかもしれないと思った静は、少し身体をもぞもぞさせて
江坂の腕の拘束から逃れると、おずおずと手にした小さな袋を差し出した。
 「あ、あの、江坂さん、これ・・・・・」
 「これは?」
 「バ、バレンタインの・・・・・」
チョコなんですと小さな声で言うと、江坂の大きな手が、そっと静の頬を柔らかく包んだ。
 「私に、くれるんですか?」
 「だ、だって、俺は、あの、江坂さんと・・・・・あの・・・・・」
 「恋人同士、だから?」
躊躇った後・・・・・それでも頷いた静に、江坂は耳元で熱く囁いた。
 「嬉しいですよ、静さん。あなたが私を恋人と認めてくれているなんて」
 「そ、そんな、俺の方こそ、江坂さんには全然つり合わないのに・・・・・」
 「そんなことありませんよ。あなたこそ私には勿体無い人です」



 自分の言葉に鮮やかに頬を染める静を見て、江坂は本当にこの愛しい子が自分のものになったのだと実感する。
手に入れた手段がどうであれ、今自分達は相愛の仲なのだ。
(可愛い、静・・・・・)
 「さあ、食事に行きましょうか。静さんが喜んでくれる所だったらいいのですが」
 「・・・・・え、江坂さんが連れて行ってくれるところ、全部美味しくて、素敵な店ばかりですよ」
 「そうですか?」
 「でも、俺、2人一緒なら・・・・・家で食べるご飯も、好きです」
可愛いことを言ってくれる唇を思わず塞ぎたくなるが、それは今夜ベットの上で思う存分可愛がる時にしようと思う。
特別な日である今夜は、静も何時もよりも大胆に江坂を受け入れてくれるかも知れない。
(何時も最後は我を忘れているが・・・・・)
 何度抱いても抱き足りないこの身体は、今夜はきっと限りなく甘いのだろう。
くだらないイベントだと思っていたバレンタインも、愛しい人間がいればたちまち特別な日に変わっている。
江坂は毒されたなと自嘲しながらも、そう思えるようにしてくれた静を優しく抱きしめていた。




                                                              end





江坂&静編です。
相変わらず江坂の用意周到さは変わりませんが、静がそれで幸せなら全然いいです。
今夜はきっと甘い夜を過ごすんでしょうね。