大国、バリハンの皇太子、シエン。
《青の王子》と呼ばれる彼は冷静沈着で頭脳明晰、今世の賢人とまで評される皇太子だった。
しかし、高名を轟かせていたシエンも、恋をすればただの男になった。愛した相手は己が暮らす世界とはまったく別の世界の住
人で、長い間伝えられてきた伝説の《強星》と呼ばれる少年だった。
庇護欲をそそると感じられた少年は、その実おおらかで強い心の持ち主で、シエンが恋に堕ちていくのと同じように、少年もシエ
ンに好意を抱いてくれ、ようやく自身だけのもの、正妃に迎えることが出来た。
正妃になっても、少年・・・・・蒼はそれまでと変わらず、好奇心が旺盛で、とても元気で、何時でも周りに光を降り注いでくれて
いる。
そんな蒼の存在はシエンにとっても自慢だったが、多少、自分以外のものに分け与える愛情の深さに嫉妬を感じることもあった。
しかし、そんな感情も今までのシエンからすれば持ったことのない感情で、どこか新鮮に感じるのも確かだ。
様々な感情を自分に気づかせてくれる蒼を、シエンは心から大切だと思っていた。
午後の執務を終えたシエンは、昼食以降顔を見ない蒼を捜していた。
一つの所にいない蒼を探すのはかなり至難の業だが、その性格を考えれば行きそうな場所はわかる。
「パーっと動きたい〜っ」
今朝、大きく伸びをしながらそう言っていた蒼の言葉を覚えていたシエンは、その足を宮殿の敷地内にある兵士の訓練場へと
向けた。
「王子っ」
シエンの姿に、入口にいた兵士がピシリと背を伸ばす。
「ソウはいるだろうか?」
「はいっ、今はバウエル将軍と手合わせをなさっています!」
「・・・・・やはり」
想像通りの返答にシエンは苦笑した。
多分、どこの国を調べても、妃と呼ばれる立場のものが将軍と剣の手合わせをしている国はないだろう。元々、自国でも剣に似
た武器を使う訓練をしていたらしい蒼は、バウエルが惚れ込むほどの腕の主だ。
きっと、シエンの正妃でなければ軍の重要な位置に引き上げるかもしれないほどに期待しているだろうし、シエンもこうして訓練
場の中で蒼が剣をふるうことを許してはいるが、けして危ない真似をさせたいわけではないのである程度の所で止めるつもりでい
た。
「・・・・・」
(あいも変わらず、伸びやかな太刀筋だ)
体格のせいか、一太刀が重くはないが、素直で素早い蒼は剣の名手であるバウエルに負けてはいない。もちろん、バウエルも
多少加減はしているだろうが、その顔はとても楽しそうだ。
「あ・・・・・っ!」
そんな中、蒼が剣を弾かれた。その拍子に尻もちをついた蒼は、キッと真っ直ぐな眼差しをバウエルに向けている。
額に滲む汗を光らせ、悔しいと表情全体で表現している様子にシエンが笑みを誘われていると、バウエルが蒼の手を掴んで引き
起こした。
「お怪我はありませんか?」
「ない・・・・・」
「ソウ様?」
「・・・・・なかなか勝てない・・・・・くやしー・・・・・っ」
心の底から悔しがっているのがわかる声に、バウエルが嬉しそうに頬を緩めている。これほど気概のある教え子はいないと思っ
ているのが良くわかるが、国随一の剣豪と呼ばれるバウエルに簡単に勝つことは出来ないはずだ。
皇太子妃としての蒼にそこまでを望んではいないシエンは、まだ自分の存在に気づいていない2人に声を掛けた。
「ソウ」
「・・・・・シエンッ?」
びっくりしたように大きな目を見張った後、嬉しそうに笑って駆け寄ってくる蒼。
シエンは手を広げてその身体を抱きとめる。
「なかなか良い手合わせのようでした」
「でもっ、バウエル強いよ!」
「将軍の称号を持っている人物ですから、ソウでも簡単には勝てませんよ。ですが、ソウならきっと、何時か膝を折らせることが出
来るかもしれませんね」
「・・・・・うん、その時までがんばる!」
常に前向きな蒼は、簡単に諦めるということをしない。
それが見ている方側にも伝わり、シエンとバウエルは、嫌、周りにいた兵士たちも、皆清々しい気持ちになっていた。
また、別の日。
「ソウはどこにいるだろうか?」
大臣たちとの会議を終えたシエンが私室に戻ると、そこには蒼の姿はなかった。
何時ものように訓練場へと足を運んでみたがそこにも蒼はおらず、シエンはいろんな場所を捜しながら通り掛かった召使いに問う
てみた。
姿を見なくなってそれほど時間がたったわけではなく、今の蒼はある程度会話も出来るので、王宮の敷地内にいる限りそれほど
心配しなくてもいいというのはわかっていた。
それでも、どうしても自身の目の届かない場所にいると思うと気になって仕方がない。
「ソウ様でしたら、少し前に東の中庭の方へ行かれるのをお見掛けしましたが」
「中庭?」
(何をしにそんな所に?)
王妃である母の手伝いで草花の手入れをしていることも知っているが、東の庭と言えば花ではなく樹木が多いはずだ。
涼みにでも行っているのだろうか・・・・・そんなことを思いながら足を向けたシエンは、庭の奥、少し開けた草地に求める姿を見付
けた。
「・・・・・」
涼むというシエンの想像は当たっていた。しかし、そこにいるのは蒼だけではなく、もう一人・・・・・いや、一頭。
「トンスケ、お前もいたのか」
ブフッと僅かに鼻を鳴らし、少しだけ顔をこちらに向けたのは、レクと呼ばれる動物だ。
本来なら食用として一般に飼われているのだが、野生のこのレクを見付けた時、蒼は殺さないでくれと懇願した。
まだ蒼の腕に抱けるほど小さかったレクを可愛い動物に思ったらしく、王宮の庭で飼いたいとまで言いだした時はさすがに驚い
たが、今では召使いたちの癒しの存在にもなっているのは確かだ。
小さかったトンスケは何時の間にか蒼の身長ほどに大きくなり、その体重は多分4倍ほどはある。
今も草の上に腹ばいになったトンスケの腹を枕に眠っている蒼を、少しも重たいとは思っていないようだ。
「いったい、何時からここで眠っていたのか・・・・・」
大きな木の陰になっているので直接陽は当たっていないようだが、ほんのりと頬を赤く染めている。暑くはないのだろうかと、シ
エンは直ぐ傍へと腰を下し、そっと前髪をかき上げた。
「ん・・・・・」
「ソウ?」
僅かな刺激に、蒼がむずかるように寝返りを打つ。
しかし、まだ目は覚めないようだ。
「・・・・・気持ち良さそうだな」
こんな草の上で惰眠を貪っている皇太子妃というのはなかなかいないだろう。
はしたない、と、いえる行為かもしれないが、シエンはあるがままの蒼の行動を諌めようとは思わない。
反対に、これほど気持ち良く眠っている様子を見れば、そんなに気持ちが良いのだろうかと自分も試したくなった。
「トンスケ、少し重いかもしれないが我慢してくれ」
グフ
まるで、許してやると言ったような鳴き声に苦笑しながら、トンスケの腹を枕に蒼の隣に身を横たえる。
柔らかくて温かく、びくともしないトンスケの腹の寝心地の良さに感心していると、隣の気配を感じたのかこちらを向いていた蒼の
瞼がゆっくりと開かれる。
「・・・・・シ、エン?」
「まだ眠っていてもいいですよ」
「・・・・・ん・・・・・」
陽はまだ高く、草は温かくて、この後の政務はない。
シエンも久し振りにゆっくりとしようと思いながら蒼を抱き寄せると、甘えるような吐息を吐きながら寄りそってくる。
可愛くて、愛おしい。
ゆっくりと目を閉じたシエンは、蒼の寝息に誘われるように自身も深い眠りに落ちた。
数日後。
父王の執務室から出たシエンはそのまま自身の執務室へと戻ろうとして、ふと耳に聞き慣れた声が聞こえたような気がして立
ち止った。
(ソウは部屋にいるはずだが・・・・・)
声が聞こえる方へと足を進めると、そこには声の主である蒼と、向かいにはベルネが立っていた。
蒼の従者となったカヤンではなく、ベルネがそこにいるということに引っ掛かったシエンは、姿を隠したままで2人の会話を聞くこと
にした。
「だからっ、べんきょーはしたってば!」
「そう言って、カヤンから逃げてきたんだろ」
「に、逃げてなんか・・・・・」
声が少し動揺している。どうやら、カヤンが指南している皇太子妃としての勉強を抜け出したようだ。
普段、蒼はシエンが見ても頑張り過ぎなほど一生懸命にこの国に馴染もうとしてくれているし、それに伴った勉強もしっかりしてい
る。
ただ、時々許容量以上に物事が詰め込まれるとこんなふうに抜け出すこともあるが、それはシエンからすれば当然の息抜きだ
と思えた。
「じゃあ、今過ぐカヤンのもとに一緒に行こう」
「えっ?」
「・・・・・嫌なのか?」
「う〜っ、ベルネ、イジワルだ!」
こんなふうに言っているベルネも、本当は蒼の努力を認めているはずだ。ただ、自分やカヤンを含め、蒼の周りには彼に甘い人
間が揃っているので、誰か1人でも厳しいことを言う悪者が必要だと思っているのだろう。
それは、シエンのためということはもちろん、蒼自身のため・・・・・。割り切った人間関係を築いてきたベルネにしては随分と甘い
態度だが、それだけ蒼の存在は特別、といったところか。
「ソウ」
「・・・・・もどる」
「そうか」
蒼は諦めたのか、そう言った。
すると、それまで蒼を連れ戻すようなことを言っていたベルネが意外なことを聞く。
「どこに行くつもりだった?」
「バウエルしょーぐんの、とこ」
机にずっと向かっているより、身体を動かすことが好きな蒼のことだ。
「剣の手合わせか」
「うん」
ベルネも同じことを思ったらしく呆れたような声音でそう言い、蒼も素直に認めた。
少しくらいならいいだろうとシエンが口を出すのは簡単だが、今、ここで自分が出るには少し違うように思える。
「・・・・・」
「・・・・・」
そのまましばらく2人も口を噤んでいたが、やがて呆れたようなベルネの声が聞こえた。
「中庭で、少しだけなら俺が相手をしよう」
「えっ?」
(ベルネ?)
まさかベルネがそんなことを言いだすとは思わなかったシエンは驚いたが、それは蒼も同じことだった。
「どーして?どーして相手してくれるんだっ?」
「少しでも剣を握れば気分も変わるだろう。訓練場に行けば短い時間に戻ることは出来ないだろうし、それならば俺が少しぐら
い相手をしてお前の頭の中をすっきりさせてやろう」
主君の妃に向かって言う言葉遣いではないし、その内容も少々乱暴だが、蒼はまったく気にすることなく嬉しげに声を弾ませて
いる。
「ありがと!すっごくうれしー!」
「・・・・・別に、たいしたことではない」
素直に喜びを表現する蒼に対し、ベルネは簡単には感情を表に出さない。それが長年シエン付きの兵士として訓練を受けて
来たからだということをシエンはわかっているし、蒼自身もそれは気にしていないはずだ。
(それでも・・・・・面白いものではないな)
蒼もベルネも、自分を裏切るとは思わないのに、これほどに気の置けない会話を2人がしているということがシエンにとっては複
雑な気分だ。
だが、そんなふうに思っていること自体2人に対して申し訳なく、シエンは声を掛けないままその場を立ち去ることにした。
その日の夕方。
「シエンッ、今日、ベルネと剣をあわせた!」
「ベルネと、ですか?」
「すっごく強かった!でも、ぜったいシエンのほーが強いよなっ?」
夕方にあった出来事を隠すことなく話し、それでもシエンの方が凄いと言ってくれる。目をキラキラと輝かせ、真っ直ぐな眼差しを
向けてくれる蒼に、シエンは少しでも疑念を感じたことを申し訳なく感じた。
そして、ある日は。
「シエン、シエンッ、見て!」
突然執務室に飛び込んできた蒼。その声に顔を上げたシエンは、入室したのが蒼だけでないことに気付いた。蒼の腕の中に
は養い子、リュシオンがいたのだ。
「リュシオンがどうかしたのですか?」
シエンの元婚約者の召使いの子供。血は繋がっていないものの、蒼は我が子のようにリュシオンを可愛がっていた。
少しでも時間が空くと、乳母に世話をされているリュシオンに会いに行っていることは知っていたが、いったい何があったというの
だろうか。
「りゅーちゃん、ソーッて俺の名前呼んだんだよ!」
「え・・・・・?」
さすがに思い掛けないことにシエンは驚いた。自身の子は持っていないが、兄弟の子供ならば育って行く様子をこの目で見て
きた。それから考えても、まだまだリュシオンが言葉を話せるはずはないと思ったのだ。
「ソウ、それは本当ですか?」
「うん!聞いてて」
蒼が抱き抱えているリュシオンの顔を覗きこんだシエンだが、こちらの望み通りに赤ん坊が動くわけがない。
しばらく黙って2人でリュシオンを見つめていたが、自分を構ってくれていると思ったのか嬉しそうな笑い声を上げるだけだった。
それはそれで可愛いが、やはり蒼が言うようにその名を口にする様子はない。
「おかしーなー」
眉間に皺を寄せて考え込む蒼に、シエンは笑いながら言った。
「リュシオンには話すことはまだ少し早いだけですよ。そのうち・・・・・」
「お〜ぅ」
「あ!」
シエンが最後まで言う前に、突然声を発したリュシオン。それを聞いた蒼は喜色満面に叫んだ。
「なっ、聞こえただろっ?」
「・・・・・今の、ですか?」
「うん!」
自信たっぷりの蒼には申し訳ないが、シエンの耳にはどうしても泣き声だとしか聞こえない。もちろん、はっきりと「ソウ」と発音
出来るはずがないとしても、それでも・・・・・。
「りゅーちゃん、すっごい!テンサイかも!」
蒼はリュシオンを両手でしっかりと抱くと嬉しそうにあやして、リュシオンも声を上げて笑う。
(・・・・・親の欲目というものだろうか?)
こんなにも気にかけ、傍で育てていれば、本当の親のような気持ちになるのも当然かもしれない。
何時か、リュシオンがシオンの名前を呼んだ時、自分はどんな反応を示すだろうか。その時のことを考えるだけで胸が温かくな
るような気がした。
廊下を歩いていたシエンは、いい匂いが鼻をくすぐって立ち止った。
「・・・・・また、ソウでしょうか」
同行していたベルネが呆れたように言っているが、その目はどちらかと言えば楽しみを含んでいることを見なくても感じる。
シエン自身、この匂いが何を指しているかを考えるだけで嬉しくて、
「少し、寄り道をして行こうか」
「・・・・・はい」
そう言ったシエンに、ベルネは案外素直に頷いた。
足を向けた先は王宮の厨房だ。
王族を含めた兵士、召使いたち全員分の食事を作るこの場所では、調理長を頂点として数十人の召使いたちが働いている。
元々、腕の良い者たちの作る料理は美味しいものだったが、少し前からその味にさらに素晴らしい工夫が施されるようになっ
ていた。
「これっ、湯どーしして!」
「はい!」
「これは、塩でモミモミしてくれる?」
「わかりました!」
元気の良い声が指図することに、男たちが張り切った返答をするのが聞こえる。
「・・・・・モミモミ、とは、なんでしょうか」
「さあ、なんだろうか。だが、大切な言葉ではないか?」
(料理に関して、ソウが妥協するということはあり得ない)
皇太子妃になった蒼には得意なものがあった。それは、料理を作るということだ。前々からやっていたことらしく、この国の材料や
調味料を使い、とても美味しいものを小さな手で作り出している。
そんな蒼の腕前は料理長も認めていて、厨房に自由に出入りを許されているくらいで、他の調理人たちも蒼の技術を学ぼうと
熱心に協力してくれるらしい。
「今日はソウの手料理か」
「・・・・・」
「ベルネもどうだ?」
「私は」
「ソウは大勢での食事が好きらしい」
王族、召使いは関係なく、好きな相手と賑やかに食事をすることが好きな蒼に影響され、シエンも、そして国王夫妻である父
母も、最近は自身の側近なども誘っている。
何度も蒼の手料理を食べているベルネはその味を知っているので断るはずもない・・・・・そう思ったシエンの予想通り、ベルネ
はまるで渋々というようなふうを装って頷いた。
「お言葉に甘えさせていただきます」
「では、厨房に行くのは止めることにしよう」
蒼がどんな料理を作ってくれるのか、夕食の時間まで楽しみに待つことにしよう。
シエンは足を向けた方角を変えると、再び執務に戻ることにした。
蒼と出会い、シエンは自分の感情が何倍にも豊かになったのを感じる。
喜びや楽しさだけでなく、誰かに嫉妬したり、心配したり、狂おしいほどの想いを抱え込んだり。
しかし、それらは不要なものではない。大国の皇太子という立場から得たものよりも遥かに、シエンを人間らしく成長させてく
れる感情で、それらを自分に経験させてくれた蒼を、本当に得難い存在だと思う。
たわいもないことで笑い合い、温かな身体を抱きしめて、甘い唇に口付けをする。そんな日々が、ずっと続けばいい。
(何時までも、こんなふうにソウのことを見つめ続けられるように・・・・・)
しっかりと、この国を守っていかなければ。
シエンは何度も誓ったそれを再度心に言い聞かせ、処理をしなければならない問題へと立ち向かうことにした。
end
シエン&蒼。
2人の日常の風景を、シエンの視点で。