倉橋克己(くらはし かつみ)は、少し離れた場所で他の組員達と笑いながら話している男に視線を向けた。
もちろん、あからさまに目を向けることは出来ずに、書類から目を上げる仕草でごまかすようになのだが・・・・・敏いはずの男はこち
らを向こうともしなかった。
(男のくせに・・・・・)
 「倉橋幹部?」
 「あ、ああ、分かったか?」
 声を掛けられた倉橋は、ここが事務所の中だということを思い出す。自分の部屋ではないところでぼんやりと考え事をするわけに
もいかず、倉橋は今資料として持ってきた書類を目の前の組員に渡した。
 「報告を忘れないように」
 「はい」
 「・・・・・」
 用が終わった倉橋は、何時までもここにいることは出来なかった。そうでなくても、他の人間に仕事をサボるなと口煩く言っている
のだ、自分がサボるわけにはいかない。
 倉橋はそのまま一言二言組員に言い残して、部屋から出ようとドアを開ける。そのドアが閉まる瞬間も、一度もこちらを見ようと
しない男の横顔が目の端に映った。






 関東最大の暴力団『大東(だいとう)組』の傘下、『開成(かいせい)会』の幹部である倉橋は、今1人の男と冷戦状態にあっ
た。
 いや、もしかしたらそう思っているのは倉橋だけかもしれないが、何時もはこちらが眉を顰めても纏わり付いてくるのに、ここ数日は
一度も倉橋の部屋にやってくることはなく、言葉も必要最小限の会話しかしない。
 男が機嫌が悪いということはないだろう。倉橋以外の組員と話す時は何時もと変わらない調子で、会長である海藤貴士(かい
どう たかし)にさえも軽口をたたいていた。
そんな彼が、無視をしているのは自分に対してだけだ。
 「・・・・・馬鹿が」
廊下を歩きながら、倉橋はポツリと呟いた。



 「えーっ?どうしてえっ?」
 「理由など必要ないでしょう?私がしなくてもいいと言っているんですから」
 倉橋は詰め寄る男、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)にそう言い切った。しかし、綾辻も納得できないのか、そのまま歩き始めよう
とした倉橋の腕を掴んでくる。
 「・・・・・っ」
柔らかな物腰と女言葉に騙されているが、男は段を持っていればかなりの腕の持ち主でもあった。
 「年に一度のことなのよっ?それに、今年は特別だし!」
 「特別って・・・・・」
 「私達が恋人同士になって初めて迎える誕生日じゃない!」
 「・・・・・恥ずかしいことを言わないで下さい。あなたがそうだから・・・・・嫌なんです」
 目の前の男、綾辻と自分は、身体を重ね、想いを伝え合った仲だ。多分、世間的に見ても恋人同士といっていい関係なのだ
ろうが、倉橋はそう思われることが恥ずかしくてたまらなかった。
男同士ということもある。
三十をとうに超えた、大人だからということもある。
ただ、倉橋は綾辻が平然と『好きだ』と口に出来るほどに、自分達の関係を素直に見れなかった。
 「・・・・・私のことが恥ずかしいの?」
 「そんな風には言っていません。ただ、誕生日なんて、この歳で祝うこともないと言っているだけです」
 男に不満などあるはずがない。私生活では多少いい加減だと思うものの、彼の海藤や組員への態度は真摯だし、自分に対し
ても誠意ある想いを向けてくれていると思う。
ただ、それほどにいい男である綾辻が自分のような人間と何かあると周りに知られては、彼にとってはマイナスになるのではないかと
心配で仕方がなかった。
 それまで、まるで遊びのように自分を追い掛けてきていた綾辻と一緒にいることは、周りに対して隠すこともないので構わなかった
が、きちんとした恋人という関係になってしまうと・・・・・どうしても後ろめたい。
(気持ちなんか・・・・・伝えない方が良かったかもしれない・・・・・)
 じゃれてくる相手をあしらっている、そんな関係の方が気楽だったように思えた。
 「分かったわ」
 「・・・・・え?」
考え込んでいた倉橋は、少し硬い口調になった綾辻を慌てて見つめた。
 「誕生日は祝わない、それでいいのね?」
 「え、ええ」
 綾辻はもう一度というようにじっと視線を向けてくるが、倉橋は何も言うことが出来ない。そんな倉橋に対して大きな溜め息をつ
いた綾辻は、そのままバイバイと背中を向けて手を振って立ち去った。



 それが、倉橋の誕生日の2日前で、今はもう5月30日だ。
約束通り、倉橋の誕生日には綾辻は声を掛けてこなかったが、それからもずっと、まるで倉橋を責めるかのように話しかけてくれな
い。それを寂しいと思う自分の方が勝手だと分かっているが、倉橋は何時の間にか綾辻の背中を見つめている自分に気がついて
いた。
 誕生日くらいと思っていたはずなのに、自分を見ない視線を探すのが寂しい。
倉橋は日が経つごとに溜め息をつく回数が多くなり、やがて、このままではダメだと思うようになった。
 そこで、倉橋が考えたのが、もう直ぐ来る綾辻の誕生日だ。
こじれた関係を修復するのに、それはちょうどいい切っ掛けのような気がして、倉橋は綾辻と自分の誕生日が近いことを良かった
と思った。

 しかし、そこで、倉橋はまた困ってしまった。
綾辻に渡す誕生日プレゼントが何がいいのか全く思いつかないのだ。趣味も、考え方も違うし、自分よりも遥かにお洒落な綾辻
は、身に付けるものも厳選しているように見えた。
下手なものを贈って、更に仲がこじれるのは嫌だ。
ただ、他の組員、それも、綾辻と親密な相手に聞くのも気兼ねしてしまう。
もちろん、海藤に聞けるはずがない。
 どうしたらいいのか・・・・・ここ数日ずっと考えていた倉橋は、誕生日は明後日に迫った今日、とうとうある人物に相談しようと電
話を掛けた。



 『珍しいですね、あなたから連絡をしてくれるなんて』
 「・・・・・突然、申し訳ありません」
 いきなり電話を掛けた倉橋が謝罪すると、相手はいいえと笑うように言った。
口調だけを聞けばとても人当たりがいいのだが・・・・・この相手がそんな甘い人間ではないことを倉橋はよく知っている。それでも、
この相手が綾辻の心境を一番知っているように思ったのだ。

 『誕生日プレゼント、ですか』
 余計な話をしてはかえって怪しまれてしまうと、倉橋は早速用件を切り出した。
 「ええ、何時も世話になっていますので、その礼を兼ねて」
 『お世話・・・・・ねえ』
 「はい、世話になっているお礼です」
相手がどう思おうと、そうきっぱり言い切ってしまおう。電話を掛ける前からそう考えていた倉橋は、相手の含むような物言いも一
切無視してそう言った。
 『そうですね・・・・・ワインなんかいかがですか?最近凝っているらしいですよ』
 「ワイン、ですか?」
 『先日飲んだ時も、ずっとワインでしたよ』
 「・・・・・」
(そうか、そんなものでもいいのか)
 酒を飲まない倉橋には思いつかないプレゼントだった。
電話を掛けて良かったと、それだけでも思ったが、倉橋はふと眉を顰めた。
 「でも、ワインは飲んだら残らないと思うんですが」
 『ああ、そういう考え方もありますね。・・・・・では、ワインともう一つ、残るものを渡して差し上げたらどうですか?』
 「それは構いませんが、いったい・・・・・」
 『ちょうど、今夜出掛けようと思ったんですよ。良かったら一緒に行かれますか?』
 いったい、どこに行くのだろうかと、考えたのは一瞬だった。
いくらこの相手でも、変な場所に自分を連れて行かないだろう。いや、万が一二の足を踏むような場所でも、倉橋も大人だ、自
分の意志で帰ることは出来る。
 「では、ご一緒してもよろしいですか?」
 『時間は後でメールで知らせます。楽しみにしていますよ、倉橋さん』
 「・・・・・よろしくお願いします、小田切(おだぎり)さん」



 午後8時。
小田切は約束通りに開成会の事務所近くまでタクシーで迎えに来てくれた。倉橋は一礼して後部座席に乗り込むと、隣に座る
小田切に訊ねる。
 「どこに行くんですか?」
 「行ってのお楽しみです」
 「・・・・・」
 同じ大東組系列の、羽生会(はにゅうかい)に所属している小田切。相当に一筋縄ではいかない男だが、自分に対してはそれ
程敵意を向けてきたこともない。
倉橋はとにかく、小田切の言う通りについていくしかなかった。

 車は30分ほど走って、銀座のある店の前に着いた。
 「ここは・・・・・」
既に半分シャッターが下りている店はもう閉店しているのではないかと思ったが、大丈夫ですと笑う小田切の後を戸惑いながら付
いていく。
 「私だ」
 小田切が携帯を取り出して一言言うと、それから間もなく店から男が出てきた。40歳くらいだろうか、きっちりとスーツを着こなし
た、立派な紳士のように見える。
 「待っていたよ、裕」
 「連れがいる、構わないだろう」
 「ああ、もちろん。いらっしゃい」
 「・・・・・お邪魔します」
 丁寧に頭を下げる倉橋を目を細めて見つめた男は、小田切の背を抱くようにして店の中へと入る。倉橋もその後に続いて、店
の看板を見て予想をつけた通りの店内に、どうしてというような視線を小田切に向けた。
 「宝石店で、何を買うんですか?」
 「私はオーダーで首輪・・・・・チョーカーを頼んでいまして。プレゼントなら、アクセサリーが常套でしょう?」
 「・・・・・あ、ピアスですか?」
 そういえば、綾辻は何時もピアスを身に着けている。少し高いものになればかなり洒落た物もあるかもしれない。倉橋は小田切
がこの店に連れて来てくれたわけを悟ったような気がした。
しかし、小田切の思惑は違ったらしい。
 「ピアスなんて、誰もがあげることが出来るじゃないですか」
 「え、でも・・・・・」
 「特別な相手しかあげることが出来ないもの、そして、彼がきっと欲しがっているものが、ここにはたくさんあるでしょう?」
 「・・・・・小田切さん」
 「リング。倉橋さん、彼に首輪を付けたいとは思わないんですか?」






6月1日 ------------------------ 。

 その日は平日で、倉橋は何時もと変わりのない業務をこなしていた。
しかし、時間が経つにつれ、だんだん落ち着きがなくなってしまい・・・・・、
 「・・・・・っ」
 珍しく、給湯室でコーヒーを入れていた手を滑らせてしまい、熱いそれが手の甲に掛かってしまった。
 「何してるのっ」
床に零したコーヒーを拭き取らなければいけないと呆然と床を見下ろしていた倉橋は、いきなり狭い部屋の中に入ってきた人物に
手を取られ、水道の水を手に掛けられた。
 「あ、綾辻さん?」
 「火傷はとにかく冷やすの!こんなに綺麗な手に痕が残っちゃったらどうするのよっ」
 少し怒った口調で、手首を握り締める手の力も強かったが、触れる指先は胸が詰まるほどに優しい。自分だけでなく、綾辻の
スーツの袖口も水で濡れてしまうのを見て、倉橋は慌てて大丈夫ですからと言った。
 「あなたが濡れますっ」
 「いいの」
 「でも・・・・・」
 「大人しくしていて」
倉橋はそれ以上口を挟めず、ただ流れる水を見ているしか出来なかった。



 「この薬、魔法の塗り薬なのよ。少しの火傷だったら痕も全然残らないから」
 いったん、自分の部屋に戻ったらしい綾辻は、小さな塗り薬を持ってきた。ソファに座らせられた倉橋は手を取られ、少し赤くなっ
てしまった手の甲に、ゆっくりと薬を塗られるのを見る。
 「・・・・・っ」
(な、ど、どうしたんだ・・・・・)
 その手の感触に、なぜか自分の鼓動が跳ね上がってしまった倉橋は、ごまかすように視線を逸らし・・・・・自分のデスクの上に置
いた紙袋に目を留めた。
(あれ・・・・・)
 朝から切っ掛けが掴めなくて、なかなか手渡すことが出来なかったそれを、今渡さなければならないと思った。
 「・・・・・」
 「克己?」
倉橋は治療をしてくれる綾辻の手を止めると、そのまま歩いて紙袋を手にする。
一瞬、それを手にして逡巡したが、思い切って振り向くと、じっと自分を見ている綾辻に向って差し出した。
 「何?」
 「・・・・・今の、治療のお礼、です」
 自分は誕生日を祝うなと言っておいて、こちらが勝手にプレゼントまで用意したとは言えなかった。
渡す口実を考えていた倉橋にとって、今の出来事がちょうどいい理由だと思ったのだが・・・・・綾辻は渡された紙袋の中に視線を
落として、少しだけ声を低くした。
 「今のがわざとじゃないんなら、都合よくこんなのを用意していたのか?」
 「・・・・・っ」
 変わってしまった口調に、綾辻が怒っているのかと思った倉橋は、唇を噛み締めて俯くしかない。
 「克己」
 「・・・・・」
 「克己、顔を上げろ」
 「・・・・・怒って、ますか?」
自分が怯えていると思ったのだろうか、綾辻はふっと苦笑を零して・・・・・そのまま抱きしめてきた。
 「・・・・・バ〜カ、私が克己を怒るわけないでしょう?怒るとしたら、私と別れたいって言う時くらいよ」
 「で、でも、ずっと目も合わせなくて・・・・・」
 「拗ねてただけ。でも、こんな嬉しいサプライズがあったんなら、ずっと克己と話せなかった寂しさも帳消しね」
 「・・・・・っ」
 倉橋が寂しいと思っていたように、綾辻もそう思っていたのだと思うと、意気地のない自分の態度が悔やまれた。たとえ周りから
関係を疑われたとしても、綾辻の好意を受け入れた方が良かったのかもしれないと後悔する。
それでも、こんな風に自分のプレゼントを素直に喜んでくれる綾辻を見ることが出来て、自分の後悔も少しは報われるような気が
した。
 「ワインと・・・・・この小さな包みは何かしら」
 「あ、そ、それは・・・・・」
 口で説明するのは恥ずかしいので、現物を見てもらうのが一番早い。
そう思った倉橋が顔を上げると、驚くほど近くに綾辻の綺麗な笑顔があった。
 「やっぱり、説明は後。今は、一番欲しいものを先ずはもらっちゃおう」
 誕生日なんだしと言いながら重なってくる唇。一瞬、その胸を押し返そうとした倉橋だったが・・・・・次第に濃厚になってくるキス
に、自然と目を閉じて応えていた。





 綾辻が欲しいものを色々と考えて用意した倉橋だが、綾辻が一番欲しがっていたものは、案外自分にとって容易に与えること
が出来るものだったのかもしれない。




                                                                      end






今年は綾辻さんのお誕生日編です。恋人同士になって初めてのイベントですね。
オマケに、綾辻さん視点の話も別にアップ予定。