綾辻&倉橋編
その日は特別な会議も接待もなく、開成会会長である海藤は早々に帰宅し、事務所に残った幹部の1人である倉
橋克己(くらはし かつみ)は、用があって1階の事務所まで下りて来た。
「あっ、倉橋幹部」
「このリストの資料を明日の昼までに用意してくれ」
「内線もらったら受け取りに行きましたよ」
「このくらい容易いことだ」
幾ら自分の下の人間とはいえ、倉橋は組員達を自分の都合で動かすつもりは無かった。彼らはあくまでも海藤の部下
だという認識だからだ。
雑談をするということも無く、倉橋はそのまま自分の部屋に行こうとしたが、その時組員の1人が珍しく倉橋を呼び止め
た。
「倉橋幹部っ、綾辻幹部のことなんですが」
「・・・・・綾辻の?」
(そう言えば・・・・・)
今しがた通ってきた綾辻の部屋の前はしんと静まり返っていた。どうせまたサボるために事務所に来ているのではないかと
思っていたが、その姿はここにはなかった。
「どうした?」
「あの・・・・・仕事のことじゃないんですけど・・・・・」
「前置きはいい」
その組員は倉橋の静かで冷たい眼差しに一瞬口をつぐんだが、言い始めたことを途中で撤回することは許さないという
雰囲気に、ようやくオズオズと話し始めた。
「あ、あの、綾辻幹部・・・・・本命が出来たのかなって」
「本命?」
「以前よりも飲みに誘ってくれる回数が減りましたし、行ったとしても女がいない場所を選んで・・・・・」
「あっ、俺も不思議に思ってた」
別の組員が言葉を継ぐ。
「綾辻幹部、あの見掛けだから女にも凄く人気があって、前なんか3、4人お持ち帰りしていたくらいで」
「・・・・・3、4人?」
「女が私を選ぶんだから、私が選んだから可哀想じゃない〜・・・・・なんて」
綾辻の物言いを見事に真似して説明してくれる組員の言葉を聞きながら、倉橋は次第に自分の心がモヤモヤとした
霧に包まれていくのを感じていた。
開成会の幹部、倉橋は、自分の性格や生い立ちを考えて、自分は一生誰からも愛されず、そして、愛することもない
だろうと思っていた。
しかし、そんな自分の心の中に強引に入り込み、居座った人間がいて・・・・・倉橋は何時しかその相手に心を寄せる
ようになり、身体も許してしまった。
その相手が、同じ開成会の幹部、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)。モデルのように華やかな容姿をしているのに、言葉
は女言葉で、強くて、人望があって・・・・・優しくて。
これほどの男がなぜ自分を選んでくれたのかは分からないが、今の倉橋の心の中では海藤とは別の場所で一番大きな
存在になっていて、同性という垣根はとっくに無くなっていた。
素直でないと自覚している倉橋は、2人きりでいる時も、第三者がいる時も、必要以上に綾辻に厳しく接する。
それは、甘えそうになる自分を戒めるためと、こんな自分と付き合っていることが他の者に知られてしまえば、綾辻自身の
価値が下がってしまうと思っているからだった。
とても、可愛くて素直な恋人とは言えない自分。綾辻が何時自分に呆れ、去っていくのか想像すると不安で、一方で
当たり前かも知れないという諦めもあって・・・・・そんなことを繰り返している時に聞いた組員達の話は、分かっていたつも
りだが・・・・・ショックだった。
(一度に、何人も・・・・・)
そう言えば、綾辻はかなりセックスが上手いと思う。男である自分をあんなにも感じさせるくらいだ、女ならば・・・・・。
「・・・・・で、どんないい女の誘いでも最近は綺麗にかわしてばっかりで、本命が出来たって女達の間じゃ評判なんです
よ。もしかしたら結婚もありうるかもって」
「・・・・・」
「それか、あっちのいい女だよね?」
「あっち?」
「綾辻幹部、前から言ってたんですよ。私のペニスを締め付けて離さないくらい締まりがいい相手だったら、顔の美醜な
んて関係ないわ〜って、な?」
男ばかりの世界では、女にもてることもステイタスで、下ネタを話すことも多いのだろうが・・・・・。
「お、おいっ」
「・・・・・あ、え、いや、そのっ」
その見掛けやストイックな雰囲気のせいか、倉橋の前では皆意識してそんな話を避けていたのかもしれないが、今はつ
い口に出てしまったのだろう。
ここまで聞いた倉橋は、先程までの不安や落ち込みから一転、フツフツとした怒りを感じてしまった。
(私のことを・・・・・セックスの道具と思っているんじゃないだろうな)
「あ、あの・・・・・倉橋幹部?」
「・・・・・面白い話を聞かせてもらった」
「い、いえ、その・・・・・」
冷え冷えとした倉橋のオーラに組員達が青褪めた時、
「あっら〜、珍しいわね、克己、皆とおしゃべり?」
場にそぐわない能天気な声を出す相手を、倉橋はゆっくりと振り返った。
最近、自分が色んな店に連れ出しているせいか、それまで食にもほとんど興味を見せなかった倉橋も、好き嫌いがはっ
きりと分かるようになっていた。
普通の男から比べればもちろん食は細いものの、食べてくれる倉橋を見るのは楽しく、綾辻は自分が食べて確認して
から色んな店に連れて行くことにしていて、今回も仕事を抜け出して美味しいと評判のイタリア料理の店に行っていた。
ワインも少しだけ飲んだが、ザルである綾辻にとっては水と同じようなもので、それでも思った以上に美味しかった料理を
倉橋に食べさせたところを想像しながら戻ってきたのだが・・・・・。
「・・・・・どうしたの?」
敏い綾辻は、直ぐに事務所の中の空気に気付いた。
「あ、仕事抜け出したの怒ってる?」
真面目な倉橋はそれだけでも十分怒る理由だろう。
「ね、克己、今夜・・・・・」
「・・・・・一番多く相手にしたのは何人だ?」
「え?」
「セックス。3、4人は当たり前なんだろう?」
「・・・・・」
倉橋の口から真昼間、それも組員達がいる中でセックスという言葉が理由も無く出てくるはずがない。
綾辻はチラッと倉橋の後ろに視線を向け・・・・・何人もの組員達が焦ったように謝っているジェスチャーをしているのを見て
あ〜あと空を仰ぎたくなった。
(克己に何話してんのよ〜)
切っ掛けは分からないが、どうやら自分の過去の遊びの一端を、倉橋に知られてしまったらしい。
倉橋以外だったら、特に知られたとしても構わなかったし、どの女も自分に恨みを持っていることはないはずだ。
(さて・・・・・どうしようかしら・・・・・)
「まあ、最高は5人、かしら」
正直に答えると、おおっと組員達の羨望の声が上がる。ただし、目の前の綺麗な顔は、ますます硬くなってしまった。
「でも、みんな満足してくれたと思うわよ」
「1人が5人に均等な愛情を分け与えられるとは思えない」
「まあね〜、1人だったらここまで出来るけど」
「・・・・・っ!」
いきなり手を伸ばした綾辻は、そのまま倉橋の身体を抱き寄せ、唇を奪う。
とっさのことに歯を食いしばることも出来なかった倉橋の口腔内を存分に犯し、生々しい唾液が絡まる音が、静まり返っ
た事務所の中に響いた。
バシッ!
クチュッと音をたてながら唇を離した瞬間、熱い衝撃が綾辻の頬を襲い、そのまま荒々しく扉が閉められた。
「あっ、綾辻幹部!どうするんですか!」
「いくらからかうっていっても度が過ぎてますよ!」
「ふふ、どうしようかしら。まあ、ゆっくり謝ってくるわ」
愛情の分痛かった頬を撫でながら、綾辻は組員達が不気味だと思うほどに上機嫌に事務所を出て行った。
(ゆ〜っくり、言い訳させてもらおうかな)
あのまま事務所の中にいては、倉橋に関係する際どい話も出かねない。2人きりでゆっくりと話すには、あの場から倉
橋を立ち去るように仕向けなければならず、どうせなら組員達にもそれとなく見せ付けるためにキスしたのだ。
今頃、純粋で潔癖なあの男は、自分に対してかなり憤慨しているだろうが、もちろん宥める自信があるからこその行動
だ。
「今は1人を満足させるだけで精一杯なんだから」
過去は過去と言い切ってしまうのは、ズルイ男のいいわけかもしれないが、そんな男の手を取ってしまった倉橋には諦め
てもらわなければならない。
(私も、手放すつもりはないけど)
綾辻はエレベーターのボタンを押す。
その頬には自信に満ちた、狡猾な男の微笑が浮かんでいた。
end