クリスマス前の恋人同士の一コマです。
沢渡&和沙の場合
ガチャンッ!
「あっ」
ガラスの割れる音にパッと顔を上げると、流しで呆然と立っている甥が目に入った。
「和沙(かずさ)、大丈夫か?」
「う、うん、ごめんなさい」
「それはいいから、怪我をしないように片付けなさい」
「はい」
素直に頷く和沙は割れてしまったグラスの後片付けを始めたが、
「・・・・・痛っ」
どうやらその破片で指を傷付けてしまったらしく、小さな声を上げて手を押さえている。
それを見た笹本はカウンターの下から薬箱を取り出すと、まだ泡だらけの和沙の手を水道で洗い流してタオルで拭い、手際よく絆
創膏をはってやった。
「・・・・・ごめんなさい、叔父さん」
「いいよ」
今日、店にやってきた時からなにやら思い悩んでいた様子の和沙。いったい何を悩んでいるんだと、笹本は和沙に向き直った。
小さな喫茶店、『彩香』のマスターである笹本和宏(ささもと かずひろ)には、大学生の甥・・・・・和沙がいた。
男勝りで明るかった姉には似ていない、大人しくて引っ込み思案の和沙のことを気に掛けていた笹本は、彼が高校生になってか
ら自身が営む喫茶店でバイトをさせることにした。
そこで、和沙は1人の男と知り合った。
上等な部類の男ではあったが、同性同士の恋愛には笹本は最初心配をしていた。
それでも、男が笹本に対しても言葉を付くし、和沙がその男との恋愛でどんどん良い方に変化していったのを間近で見、男が奥
手の和沙に合わせるようにゆっくりとした付き合いをしてくれていることも知って、何時しか2人を応援するようになった。
男・・・・・沢渡俊也(さわたり としや)は外資系企業に勤めるサラリーマンで、和沙とは違い恋愛経験も豊富だ。
和沙がそんな相手に対して気後れしていることには気付いていたが、長い付き合いの中でそれもかなり解消されたと笹本は思っ
ていた。
「どうした?沢渡君と何かあったのか?」
途端に、大袈裟に震える肩を見たら、その言葉が図星だったと分かる。
「喧嘩でもした?」
「ち、違うよっ」
「和沙?」
「僕が、悪くて・・・・・」
「・・・・・ほら、泣かなくていいから話しなさい」
ジンワリと涙で滲んだ目元にティッシュを押しあててやると、和沙はようやくポツポツとその理由を話してくれた。
「・・・・・なるほど。それは沢渡君が悪いな」
「えっ?」
「人のメールに勝手に返答したんだろう?」
昨日、デートをしている最中に、和沙の携帯にメールが入ったらしい。
それは大学の知り合いからで、それとなく交際を申し込んでくるような内容だったようだ。どう返答していいのか困った和沙が固まっ
ていると、それを沢渡が覗き込み、勝手に無理だからという返答をしたらしいのだ。
「いくら恋人同士でもそれがマナーだろう?嫌な相手からのメールにどう返答するのかはお前が決めなければならなかったことだ。
それを勝手に・・・・・お前は悩むよりも怒っていいんだぞ」
「で、でも、俊也さんは僕のためにそうしてくれて・・・・・っ」
「それなら、何を落ち込んでいるんだ?」
「・・・・・」
俯く和沙に、笹本は言葉を続けた。
「メールの相手に対してだったら、お前が落ち込むことは無いぞ。大事な話をそんなもので済まそうとしているなんて、俺はあまり
好きじゃない」
「僕・・・・・僕、どうしてそんなことをするんですかって・・・・・怒って・・・・・」
それも、笹本からしたら当然の反応のように思えるが、それまでろくな喧嘩をしてきたことのない和沙にとっては随分衝撃的な出
来事だったのかもしれない。
「どう、しよ・・・・・」
「・・・・・」
「俊也さ、に、嫌われたら・・・・・」
そんなことがあるわけがない。
和沙の気持ち以上に愛が深い沢渡は、その時は嫉妬のあまり和沙を気遣うことが出来なかったのだろう。
上手く立ち回ればよかったものをと呆れるが、今となってはそれを言ったところでどうしようもない。
「和沙」
既に目が赤くなってしまっている可愛い甥の頭を撫でてやると、笹本は穏やかに話しかけた。
「今の話では、お前が悪いことなんて少しも無いと思うが、そんなに気になるなら自分から沢渡君に会いにいって、ちゃんと謝っ
たらどうだ?」
「ぼ、僕から?」
「明日はクリスマスイブだろ?本当は何か約束をしていたんじゃないか?」
あの抜かりのない男がイベントに無計画だとは思わずに訊ねると、和沙はコクンと頷く。美味しいと評判のイタリア料理を食べに
行くらしい。
「じゃあ、明日は逃げずに会いにいくんだ」
「・・・・・」
「プレゼントを渡して、ごめんなさいって言えば、直ぐに仲直りできるよ」
元々、喧嘩とは言えない言い合いなんだしと思うと、和沙もこのまま逃げ続けているつもりではないことを告げてくれた。
以前の和沙なら、相手に嫌われたと思えばずっとその場から動けなかっただろうに・・・・・やはり、沢渡と付き合ってからいい方向
に変化したと思う。
「よし」
笹本が頭を撫でてやると、和沙が擽ったそうに首を竦める。
それでも、こんなに可愛い甥があの男のものだと思うとなんともやりきれないなと思ってしまった。
和沙が帰ってからしばらくして、そろそろ閉店の準備をしようかと思っているとドアの鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
言葉と共に顔を上げた笹本は、そこにいた人物を見て思わず目を細める。
「そろそろ閉店なんですが」
「そんな意地悪を言わないで下さいよ」
珍しく、言い返してくる言葉も弱々しい。しかし、和沙の話を聞いたばかりの笹本は、沢渡に優しくするつもりはなかった。
そもそも、和沙よりもずっと大人の男なら、嫉妬心も上手に隠してくれないと困る。
(それだけ経験を積んでいるだろうに)
「・・・・・」
沢渡はカウンターに腰を下ろすと、そのまま鬱陶しい溜め息をついた。
明らかに何かを知らせているのだろうが、笹本は気付かなかった振りをして何時も注文されるコーヒーを入れて目の前に置く。
そして、さっさと閉店の準備をしていると、ようやく察してもらうのを諦めたらしい沢渡が口を開いた。
「和沙、今日来ましたか?」
「ああ、来たよ」
「それで・・・・・」
「泣いた」
「・・・・・っ」
沢渡の雰囲気が一瞬で張り詰めたのが分かる。まさかそこまで和沙が追い詰められていたとは思ってもいなかったのかもしれな
いが、図太い沢渡と繊細な和沙では受ける衝撃の大きさはまるで違うのだ。
(そこの所をちゃんと分かっていてもらわないと)
テーブルを拭いていた笹本が視線を向けると、こちらを見ていた沢渡と目が合う。さすがに沈痛な顔をしている男に、笹本は馬
鹿だなと言った。
「いい加減、あの子の性格は把握してくれていると思っていたけど」
「それは・・・・・していたつもりなんですけど」
「予想以上だった?」
「・・・・・俺が、ちょっと頭に血が上って」
「・・・・・」
「和沙が優しいというのは知っていたつもりなのに、振る相手の気持ちをずっと考えているのが許せなくて、気がついたら勝手に
返信していたんですよ」
そう言って、沢渡は昨日の出来事を笹本に話した。
それは和沙から聞いた話とほぼ一緒だったが、それに付け足されたのは、沢渡の真っ直ぐな心情だった。
「お前なら、後から何とでも言い含められただろう?」
笹本のその言葉に、沢渡は苦笑を零す。
「後からじゃ遅いと思って」
「・・・・・あれだけ武勇伝があるお前がなあ」
「和沙は違います」
きっぱりと言い切る言葉に迷いはなかった。
「・・・・・」
「前にも言ったでしょ?必死で恋愛してるって。和沙の気持ちも体も俺のものにしましたけど、それでも全然足りないんですよ」
「おい」
なんだか、余計な一言を聞かされた。
(和沙とお前がもうそういう仲なんて考えたくないんだって)
和沙と沢渡を応援しているものの、それとこれとは全然話が違う。
笹本はムッと顰めてしまう顔を隠しもせずに、もう一度馬鹿と言ってやった。
それからも、沢渡はしつこいくらい和沙への気持ちを吐露し、昨日の自分の行動を悔いていた。
それを聞くと、どうやら和沙はまだ沢渡に何のリアクションもしていないらしい。納得して帰ったと思ったが、まだ1人でグズグズ考え
ているのかと思うと、幼い頃の和沙とオーバーラップして苦笑が漏れた。
(怖がらなくってもいいのに)
どうせなら、今目の前にいる情けない沢渡の姿を見せてやればよかったかもしれないと思っていると、
「・・・・・っ」
いきなり携帯電話の呼び出し音が鳴った。どうやら沢渡の携帯らしい。
「和沙かもしれないな」
「!」
笹本の言葉に、沢渡が反射的に電話に出る。
「和沙っ?」
人の会話を聞く趣味はない笹本は、その間に本格的に閉店の準備を始めた。
表に出て札を返し、簡単に掃除をする。
再び中に戻った時、沢渡の表情はあれほど落ち込んでいたとは思えないほどに・・・・・ニヤケていた。
「ああ、もちろん泊まってくれたら嬉しい」
「・・・・・」
(泊まり・・・・・)
叔父として、またまた複雑なところだ。
「明日、迎えに行くから・・・・・うん、また」
やがて、電話を切った沢渡は、苦々しい表情の笹本に向かって頭を下げた。
「心配をお掛けしました」
「・・・・・心配なんてしていない」
「明日、和沙を泊めますけど、ちゃんと翌日には帰しますから」
「そうしてくれ」
口ではそう言うが、明後日はクリスマス本番だ。
また上手く言って和沙を引きとめるのではないかという心配はあるが、今ここでそれを言っても大丈夫だと流されるだけだろう。
「・・・・・頼むぞ」
様々な意味を含めてそう言えば、任せてくださいという返事が戻ってくる。
(まだ、任せたくないんだけどな)
可愛い和沙が完全に腕の中から羽ばたくのはもう少し先にして欲しいと思ったが、笹本は無言のまま弾んだ足取りの沢渡を見
送った。
「・・・・・クリスマスかあ」
なんだか、1人でいるのが急に寂しくなる。
明日は強引に保護者として和沙に付いて行ってやろうかと思いながら、笹本は店の照明を落とした。
end
このカップルの第三者視点は和沙の叔父さん。
犬も食わない痴話喧嘩(?)です。