「・・・・・」
 「・・・・・」
 そろそろ日も暮れかかった時刻。
大東組系日向組の本宅の応接間では、現組長である日向雅行(ひゅうが まさゆき)と前組長である雅治(まさはる)が睨み
合うようにして向かい合って座っていた。
 「雅行、俺の言うことが聞けないっていうのか?」
 厳つい顔をした雅治が恫喝するように言えば、雅行は負けじと睨み返す。
 「今の組の頭は俺だ。あんたの指図は受けない」
 「なにをっ?」
 「今更そんなことを言うんなら、自分が組長の時にすれば良かったんだ。とにかく、俺は今の話は無かったことにするからな」
そう言い放ち、立ち上がろうとした雅行の腕を掴んだ雅治は、逃げる気なのかと雅行を脅す。
ヤクザの組長をしてはいるが、真っ直ぐな気質の雅行はその言葉を面白くない意味として捕らえ、再び目の前の雅治を睨みつ
けた。
 「一回、殺されたいか、親父」
 「お前みたいな腑抜けに俺がやられるか。だいたい、親に手を出そうなんざ、あの世に行っても地獄行きと決まってる」
 「ふんっ、地獄なんて今更だな。出来ればあんたも引きずり落としてやるか?」

 傍から聞けば、どれほど恐ろしい会話が続いているのだと思われるかもしれないが、これは日向親子の間ではそれほど大き
な意味は持ってなかった。
お互いが厳つい容姿をしているので変に誤解されがちだが、これも親子喧嘩の一つだ。
 それに、毎回途中で必ず止める者が現れる。それは、この2人・・・・・いや、日向組の組員は誰も逆らえない、最強のジョー
カーだった。

 バタンッ

 「「・・・・・」」
 言い合いをしていた2人は、いきなり開いた襖の音に振り向く。
そこには、予想した人物が、腰に手を当てて仁王立ちをしていた。
 「いったい、何の言い合いをしてるんだよ!事務所まで響く声でやり合ってたら、それこそ恥ずかしくって命令も出来なくなる
だろっ?今回は何っ?また父さんが我が儘言ったのっ?」
 「か、楓(かえで)」
 「それとも、兄さんが融通がきかなくて折れないのっ?」
 「・・・・・楓」
 「とにかくっ、不毛な言い合いはこれでお終い!いいねっ?」
 「・・・・・分かった」
 「分かったよ」
 老舗のヤクザの組である日向組。その現組長も前組長も、その存在だけには勝つことが出来ない。
2人の素直な態度に満足した楓は、にっこりと鮮やかな笑みを浮かべて、今度はトーンを変えて口を開いた。
 「ところで、言い合いの理由って何?」




 日向楓。その名が示す通り、楓は日向組の次男として生を受けた。
長男である雅行が父親譲りの強面で、身体もがっしりと大きく成長したのに反し、楓は美しいと評判の母の容姿にそっくりだっ
た。
 切れ長の目に、通った鼻筋、丸みを少し残した頬に、小さめの赤い唇。
肌の色は真珠のようで、身体付きも華奢ながらしなやかだ。
頭の上から足の爪先までが全て完璧な楓は、自分のその魅力を十分利用し、今通っている大学では信奉者も多くて、自分の
勉強のために利用している。

 楓は父や兄に似なかった容姿を内心悔しく思っていたが、それでも美しいと言われる自分の容姿の利用方法ももちろん考え
ていて、自分のためだけではなく、組のために大東組本部の力のある者達をも虜にしていった。
それほど大きくない日向組が、本部から多大な恩恵を受けているのは楓のおかげだ。
 そして、楓はそれをけして卑下などしていない。兄のような腕力は無いものの、自分はこの顔が闘う武器だと信じている。

 そんな楓には、最愛の恋人がいた。
日向組若頭、伊崎恭祐(いさき きょうすけ)。大学院にまで行った優秀な頭脳を持つ伊崎はその容姿までも完璧で、誰が見
てもヤクザなどとは思わないほどの紳士でもあった。
 幼い楓に心を奪われた伊崎はそのまま日向組に飛び込んできて、一番間近で成長を見守り、結果、高校生の楓に押し倒さ
れる形で恋人同士となった。

 もちろん、伊崎はそれを後悔はしていない。楓を他の人間に取られたりしたら・・・・・そう考えるだけで、全身が嫉妬の炎に焼
かれてしまうほどに楓に執着していることを自覚しているからだ。
 楓の兄であり、日向組の組長である雅行は2人の関係を知って黙認という形を取ってくれたが、今しばらくは他の者には秘
密にしておくようにと言われ、楓と伊崎の関係は今はまだ日向組最大のシークレットだった。




 そんな、父と兄、恋人に熱愛されている楓は、この家の中では一番発言力が大きい。
今も父と兄の喧嘩を押し止め、その理由を話せと詰め寄った。そもそも、親子なのに自分だけが理由を知らないというのは面白
くない。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 楓の言葉に、2人は顔を見合わせた。苦々しい表情の兄とは違い、父は妻似の楓に詰め寄られると弱いらしく、直ぐに楓に
身体の向きを変えて言った。
 「楓、お前からも勧めてくれないか?雅行にいい縁談の話があるんだ」
 「・・・・・縁談?」
 突然のことに楓は目を丸くして兄を振り返る。
 「兄さん、本当?」
 「・・・・・」
 「大東組の理事の遠縁の娘さんだそうだ。こっちの事情も知っているし、ヤクザの世界のことも承知しているらしい。歳は24、
容姿は知らないが、可愛らしいと聞いたぞ」
 「・・・・・」
 「大体、こいつには女を捕まえる甲斐性なんてないだろ。俺が見付けてやって、この日向組を立派に支えてくれる娘さんを嫁
に迎えれば、俺も本当の意味で安心して隠居出来る。楓も、早く優しい姉さんが欲しいだろう?」
欲しいだろうと言われて、楓は直ぐに頷くことは出来なかった。
 確かに兄も30近く、そろそろ結婚しても良い歳だとは思う。思うが・・・・・。
(兄さんに、俺以上に大事な相手が出来るってこと?)
自他共に認めるブラコンの雅行同様、楓も相当なブラコンだ。大好きな兄の結婚相手は容姿も性格も素晴らしい相手でなくて
は認められず、それもこんなにも早くとは考えられない。
 「駄目!」
 「楓?」
 突然叫んだ楓を驚いたように見上げて来る父に、楓は立ち上がって上から見下ろした。
 「兄さんはまだ結婚したら駄目なんだよ!」
 「おい、いったい何を・・・・・」
 「駄目ったら、駄目!」
理路整然とした理由なんて言えるはずが無い。ただ、楓は嫌なだけだ。
 「こんな話しするなんて、父さんの馬鹿!!」
終いには父に当たることしか出来ず、楓は茫然とする2人を置いて応接間を飛び出した。




 部屋の外に控えていた伊崎は全ての話の流れを聞いていた。
雅治が後継ぎの雅行に早く身を固めて欲しいと思うのは分かるし、日向組の一員としてもそれを望んでいる。
さらに、度を超えたブラコンである雅行の関心が楓から自分の伴侶に向けばとも思っていたのだが・・・・・どうやら、雅行の牙城
はかなり強固なようだし、この時点で楓に知られたというのも拙いだろう。
(全く・・・・・)
 中では、楓が雅治に対してかなり強い口調で文句を言っている。
 「こんな話しするなんて、父さんの馬鹿!!」
駄目押しのようなその言葉に、きっと雅治は数日落ち込むだろうなと思っていると、いきなり襖が開いて楓が飛び出してきた。
 「!」
 そこにいた伊崎の姿に一瞬楓は泣きそうに顔を歪めたが、直ぐに唇を引き結んで歩き始める。
もちろん、こんな状態の楓を1人にしておくことはとても出来ず、伊崎はその後を追った。

 楓は自室に向かった。ドアには鍵が掛かっておらず、伊崎は失礼しますと断ってから中に入る。
 「・・・・・」
ベッドに座り、俯いている楓は自分の方を見てくれなかった。
 「楓さん」
 「・・・・・」
 「楓さん、先程は・・・・・」
 「・・・・・知ってた?」
 「え?」
 「兄さんの縁談のこと。恭祐は知ってたのか?」
 多分、ここは否定すべきなのだろう。楓がそれを望んでいることは十分分かっていたが、伊崎は若頭としての自分の立場を合
わせて考え、感情的にならずに事実だけを告げた。
 「お話があるのは知っていました」
 「・・・・・っ、どうして俺に言わなかったっ?」
 顔を上げ、自分を睨みつけている楓の目元は潤んでいたが、そんな怒りと悲しみが入り混ざったような表情も、楓の美貌を損
なうことはなかった。
 「これは、組長が判断されるべき話だと思いましたので」
 「お、俺には関係ないってっ?」
 「・・・・・今の時点では、楓さんが口を挟むべきではないと考えます」
 ヤクザの組の、それも組長という立場の者の結婚は一般とは意味合いが違う。世間からは白い目で見られる世界に飛び込
んでくることであるし、他の組との兼ね合いも考えなければならない。
 本当に好きな相手と結婚するのならば様々な問題をくぐり抜けて行く気力もあるだろうが、それが政略結婚になるとまた違う
のだ。
 伊崎は、雅行には幸せな結婚をしてもらいたいと思っている。彼の掌中の珠である楓を手に入れ、相思相愛の仲になってい
るからこその気持ちと同時に、雅行という人柄を知っているうえでも、彼には後悔などして欲しくない。
 ただ、それはこちら側・・・・・雅行が考えることであり、彼の弟という立場の楓には、伊崎の手を取った楓には、今は雅行の人
生を左右することを言うことは出来ないと思う。
 「楓さん」
 「煩い!」
 癇癪を起こしたように、楓は伸ばした自分の手を叩き落とした。
 「俺にだって、兄さんの幸せを考える権利はある!!」
 「それは分かっています。ただ、今は・・・・・」
 「今も昔も関係ないだろっ、恭祐っ、お前変な女を兄さんに押しつけようとしてるんじゃないだろうなっ?」
 「・・・・・そんなことをするはずが無いでしょう」
さすがにムッとした伊崎がそう言えば、楓は分からないとますます目に力を込めて来る。
 「若頭のお前にだって変な女が言い寄って来るんだぞっ。組長である兄さんにも変な誘いがあっておかしくないだろ!」
 「・・・・・」
 「兄さんは男らしい顔をしてるし、身体だって逞しいし!性格も優しくて、真っ直ぐで、家族思いで・・・・・」
 「・・・・・」
 つらつらと兄自慢をしている楓は、多分自覚は無いのだろう。それほど自然に兄を愛している楓を見ているのは、彼を愛する
伊崎としては少々面白くないものだ。
 「厳しいけど、誰にだっていい顔をしないのは誠実な証だし、あんなに情も深い立派な兄さんを」
 「黙りなさい」
 「・・・・・何だよ、違うって言うのか?」
 「単に私が聞きたくないだけです」
 「はあ?」
 「言っても分からないのならば塞がせてもらいますよ」
多分、これは口実だ。
実の兄にべったりな楓の意識を自分のもとへと引き寄せるため、伊崎はいきなり細い腕を掴んで引き寄せるとそのまま深いキ
スを仕掛けた。




 「ふむっ」

 クチュ

(なっ、なっ、なんだよっ?)
 突然にキスを仕掛けてきた伊崎の肩を押しのけようとした楓だったが、直ぐに舌の絡まる濃厚なものに変化をすると、たちまち
グズグズと心が蕩けてしまった。
大好きな相手にキスをされて嫌な気持ちになるはずが無い。それが喧嘩の最中だったとしても、楓は怒りを欲情にすり替え、そ
のまま自分からも伊崎の舌に己のそれを絡めた。
 「ん・・・・・っ」
 角度を変え、唾液を交換して深まるキス。
どうしてこんな状況になったのか意識がもうろうとしてしまうと、やがて伊崎はチュッと音をたてて唇を離し、頬や目元、それに耳
たぶに唇を寄せながら囁いてきた。
 「喧嘩は止めましょう」
 「きょ・・・・・す、け」
 「確かに、組長の縁談は楓さんにとっても大切な話だとは思いますが、あなたにはもう私がいるでしょう?それとも、私1人では
組長に勝てませんか?」
 「そ、そんなことっ、ない!」
 「では、後は組長の判断に任せましょう。その後に、あなたも相手の方と会って考えたらいい」
 「・・・・・」
 「ね?楓さん」
 そんな風に優しく言われると、つい頷きたくなってしまう。
確かに、自分には既に伊崎という恋人がいる。兄に反対されても、どうしても手を離すことの出来ない大好きな人だ。
(兄さんの縁談の相手の人だって・・・・・もしかしたら・・・・・いい人、かも)
 当人に会ったことはおろか、写真さえ見ていない自分が一方的に父を責めたのは間違いだったかもしれない。父だって、兄の
ことを思って動いてくれているはずだ。
 その上、伊崎に八つ当たりのように文句を言ってしまったことを改めて考えると、楓は愛する人に嫌われてしまうことがとても怖
くなってしまった。
 「・・・・・ごめん、恭祐」
 「分かって下さいましたか?」
 「うん。縁談の件は、父さんと兄さんに任せる」
 そう言うと、伊崎は良く出来ましたと御褒美のようなキスをくれる。それが嬉しくて、さっきのようなもっと激しいものが欲しいと
ねだるように首に手を回した時だった。
 「楓〜!!」
いきなり部屋に飛び込んできた存在に、楓は反射的に伊崎の首にしがみついてしまった。




 「・・・・・組長」
 断りもなく楓の部屋に入ってこられる者は限られていて、今飛び込んできたのはその数少ない人物で、今まで自分達の話に
も出てきていた雅行だった。
 自分にしがみついている楓の姿を見た瞬間、その関係を正確に把握している雅行の眼光が一瞬鋭くなったが、直ぐに楓に向
かって手を伸ばすと、大きな手でその頬を包み込んで(その時には、伊崎の身体は強引に押し退けられていた)言った。
 「さっきはありがとう、楓。俺のことを思って言ってくれたんだな」
 「に、兄さん」
 「楓のその気持ちが本当に嬉しかった」
 「う、うんっ」
 ついさっきまで伊崎の腕の中でキスの官能に溺れていた楓が、今は兄である雅行の胸に飛び込み、嬉しそうに熱い胸板に頬
ずりをしている。
昔からスキンシップの激しい兄弟だったが、楓が大学生になった今でもそれは治まることはなかった。伊崎からすれば忌々しい
習慣だが、それを止めろと言ってもきっと2人は聞かないだろう。
 「兄さん、結婚しても俺のこと忘れないよね?」
 「当たり前だろう!俺にとって一番大事なのはお前とお袋だ!それに、安心しろ、俺はまだ当分結婚はしない。お前が一人前
になるまで落ち着いていられないからな」
 「ホントッ?」
 ・・・・・どこかが間違っていると思うのは伊崎の気のせいだろか。
それでも、まるで恋人のように強く抱きしめ合ういい歳をした兄弟を何とか引き離すべく、改めてコホンと咳払いをして手を伸ばし
た。








 父の先走った考えには呆れたものの、一方では自分にそんな話が出ることも理解出来た。
妻と我が子。欲しくないとは思わないが、今の自分にはもっと大切なものがある。
 「兄さん、結婚しても俺のこと忘れないよね?」
 「当たり前だろう!俺にとって一番大事なのはお前とお袋だ!それに、安心しろ、俺はまだ当分結婚はしない。お前が一人前
になるまで落ち着いていられないからな」
 「ホントッ?」
 本当に、楓は可愛い。その容姿もさることながら、意地っ張りで、我が儘で、それでいてちゃんと真っ直ぐに前を向いて毅然と
立つ性格が愛おしかった。
 ヤクザという家柄のせいで苛められることもあった弟。自分も同じ経験をしたが、頑強な見掛けのせいか力で他を圧倒すること
が出来たが、楓はどう見ても保護されるべき存在だった。
 そのうえ、愛らしい外見のせいで変質者に狙われることも多く、組の仕事で多忙だった父と病弱な母の代わりに、歳の離れた
弟をずっと守り、育ててきたのは自分だという自負もある。
だからこそ・・・・・。
(だからこそ、本当は男になんかくれてやりたくないんだ)
 楓が強く望み、雅行もその力量を認めているからこそ、伊崎との今の関係を黙認しているが、それでも楓には優しくて可愛い
相手と結婚して幸せになって欲しいと思っている。
 「兄さんはまだ当分、楓が一番だ」
 「俺もっ、兄さんが一番好きだ!」
 意味が違うことは分かる。それでも、後ろにいる端正な容貌の男の顔が青褪めたのが少しおかしい。
 「よし、今日は鮨でも食いに行くか?」
 「鮨?」
 「ああ、カウンターに座る・・・・・」
 「贅沢!回転寿司で十分だって。なっ?恭祐」
 「・・・・・ええ、そうですね」
それでも、振り返って笑い掛ける楓には、何時もの笑顔を見せている。いや、機械的な笑みではなく、人間らしい微笑みだ。
(そんな顔をさせるのは楓だけだろうな)
 冷静沈着で理性的な男を獣に変えてしまうのが自分の弟だとすれば、その弟を使ってこの獣を飼い慣らしてやろうと思う。
(当分、楓の全部はお前にやらん)
 「行くか、楓」
 自分の腕にしっかりと楓をしがみつかせ、雅行は伊崎に向かってにんまりとした笑みを向けた。
伊崎は眉を顰めていたが、やがて諦めたような苦笑を口元に浮かべる。まだまだ楓を巡っての攻防は続きそうだが、雅行もそう
簡単に負けるつもりは毛頭なかった。






                                                                     end






伊崎&楓+雅行兄。
いずれは雅行さんも結婚をするでしょうが、当分は楓べったりが続くようです(笑)。