何時もの朝のロードワークを終え、シャワーも浴びてしまった大地は、台所で制服姿にエプロンといういでたちの長兄に向
かって言った。
「ヒロミは?」
「そろそろ、タイムリミットだな。起こしてきてくれ」
ごく当たり前のように言われ、大地も文句を言わずに2階に上がった。
今年、美原一中の3年に進学した茅野大地には2人の兄がいる。
1人は名門志堂学園の3年に進級した陽一で、もう1人は今日蓮見高校に入学する広海だ。
4月に入ってすぐ、両親が夫婦揃って海外に赴任したので、今この家に暮らしているのは男ばかりの3兄弟だった。
3歳違う陽一とは、幼い頃からなぜかそりが合わず・・・・・、かといって、嫌いとかではなく、何もかも完璧過ぎる兄に対し
てある種の対抗心とか、劣等感とかが交じり合った複雑な思いを抱いていた。
「おい、ヒロミ」
呼び捨てなんか生意気だと何時も文句を言っている広海だが、今は部屋の中は物音一つしない。
(まだ寝てやがる・・・・・)
今日は高校の入学式というのにかなりの余裕というか・・・・・単に寝汚いんだろうと思いながら、大地はノックもせずに部屋
の中に入った。
掛け布団を足の間に挟み、うずくまる様に身体を丸めたまま、広海は大地の存在など全く気付かないまま眠っている。
「ヒロミ、起きろ」
「・・・・・」
「ヒロミッ」
全く起きる気配のない広海に、大地は最後の手段と布団を取り上げた。
「んあ・・・・・?」
「起きろ」
「・・・・・だいち?」
まだ完全に目が覚めていない広海は、少し幼い声で名前を呼んだ。
ぼんやりとした表情もやけにガキくさくて、大地はその場に膝をつくと顔を覗き込んだ。
「まだ、目が覚めないのか?」
1歳しか違わない広海に対して、大地は同等というか、極近いライバルのような思いがある。
ただ、それだけではなくて、広海が傍にいないと妙に寂しいし、陽一にばかり懐いているのも面白くない。
少し憎らしくなって、大地は広海の鼻を摘んだ。
「・・・・・!!」
焦点の合わなかった目がかっと開かれ、広海は思わず大地に蹴りを入れる。
もちろんそれを予期していた大地は身軽にその蹴りをよけ、反対に広海の頭にガツンと拳骨を入れた。
「いってー!何すんだよ!」
「起きないお前が悪い。今日は入学式だろ」
「中坊じゃあるまいし、入学式ごときでギャーギャー言うな!」
「ヨーイチが呼んでる。このまま起きないと朝飯抜きだぞ」
「え?あ!や、やばい!お前もっと早く起こせよ!」
わざわざ部屋まで起こしに来た大地に理不尽な文句をぶつけながらも、広海は慌てて布団から脱出した。
このまま惰眠を貪るのは魅力的だが、陽一の怒りに触れるのは恐ろしい。
「大地、降りるぞ!」
「ヒロミ」
「あ?」
「お前大丈夫なのか?」
「何が?別に入学式に両親が来なくっても、ぜ〜んぜん問題ないぜ」
「そんなんじゃねえ」
「じゃあ、何だよ?」
広海は知らないのだろうか。今度入学する蓮見高校には、あの悪夢の元凶の一端がいることを。
「大地?」
あの夏の悪夢・・・・・もう1年半以上経つのに、今だ生々しく記憶にこびり付いているあの事件を、二度と広海に思い出さ
せたくはない。
その為にも、出来るだけ不穏分子は取り除いていたかったが、悔しいが自分は広海よりも年下だった。
「・・・・・なんでもない。ほら、早くしろ」
「お前、もうちょっと兄貴は敬えよっ」
去年の夏から運動を止めている広海は、バスケをずっと続けている自分より細く小さくなった。そう言えば怒ることは確実
だろうが、今ならばあの時よりも広海を守ってやることが出来るはずだ。
大地は階段を下りていく広海の後ろ姿を見つめながら、あんなふうに広海を傷付ける者がいたら今度は許さないと心に
誓った。
おわり