ザワザワとした多くの人の気配を直ぐ間近に感じ、坂井郁(さかい かおる)は舞台袖の幕を思わず握ってしまった。
(こ、怖い・・・・・)
いったい、何人の人が目の前にいるのだろうか?
今まで出来るだけ大きなイベントは避けてもらっていたのだが、今回は郁が出演しているドラマCDのアニメ化の記念ということで、
どうしても今日は出席をしなければならなかった。
元々、人付き合いが苦手で、人前に出なくてもいい声優という仕事を選んだのだが、その仕事でもこうして人前に出なければ
ならないことがあるのだ。
(・・・・・お腹痛い・・・・・)
体調不良ということで、このまま帰ることは出来ないだろうかなどと思っていた時、
「郁」
「・・・・・っ」
不意に後ろから抱きつかれ、郁は叫びそうになったのを辛うじて押さえた。
「は、放して下さい、日高(ひだか)さんっ」
「却下」
「きゃ・・・・・?」
「いい加減覚悟決めろよ?俺が傍にいるんだから大丈夫だろ」
「・・・・・俺は、日高さんとは違うんですよ・・・・・」
けして、自分の仕事を卑下しているわけではない。一生懸命頑張って、ようやく今のこの場所に立っていると思っている。
しかし・・・・・やはり堂々と顔は上げられなかった。
(だって・・・・・俺、ネコなんだもん〜っ)
もちろん、この場合のネコというのは生き物の猫ではない。男同士のセックスで、受け入れる方側のことだ。
現実の自分のことも重ねてしまい、どうしても羞恥の方を強く感じる郁は、本当に今この瞬間家に飛んで帰りたいと思うほどに
怯えていた。
郁は、数年前爆発的ヒットを飛ばした有名なテレビアニメの悲劇の主人公の声をした。
ほぼ、デビュー作といっていいその作品でかなりの人気を得たものの、それ以降は泣かず飛ばずだった郁に舞い込んできた話が、
最近急成長してきたボーイズラブのドラマCDの仕事だった。
男同士の恋愛の話に感情移入はなかなか出来なかったが、それでも郁は必死に演技をした。そこには、その仕事を紹介して
くれた相手へ少しでも恩返しがしたいという気持ちも確かにあったと思う。
それは、郁より7歳年上の先輩声優の日高征司(ひだか せいじ)のことだ。
日高の声は低く甘く、キャラクターに応じて様々に変化する演技力もあり、そのどれもが魅力的なキャラクターに生まれ変わった
し、そのルックスも俳優ばりに整っていて、イベントなどでは日高目当ての女性客が殺到するほどだった。
始めは、自分よりも遥かに上にいる先輩だったはずだ。
しかし、からかうように愛を囁かれ、自分には全く理解出来なかった男同士の恋愛というものが身近に起こるなんて、本当は今
でも信じられないくらいだ。
それでも、何度もキスをし、身体を重ねた今、郁にとって日高は特別な・・・・・恋人という存在になっていたし、日高も相変わ
らず軽口を言ってからかってくるものの、その眼差しも声も蕩けるように甘い。
多分・・・・・自分達は今、恋愛をしているのだと確かに言えると思う。
ただ、今日嬉々として迎えに来てくれた時には、ちょっと文句を言いたかった。
自分が人見知りが激しいことを知っているくせに、こんな大々的なイベントならばどんなに緊張し、嫌がっているかも分かっている
はずだ。
確かに、取材が幾つも入るこの大きなイベントに出演することは声優としての自分にはプラスなのかもしれないが、郁は気の利
いた返しが出来るわけではないし、そもそも今だこのジャンルの仕事というものにも染まりきれていない。
そんな時、もしも失敗したとしたら・・・・・それこそ、立ち直れないのではないか。それでもこの仕事では郁は主役級で、どうしても
断ることが出来ず、スケジュールが決まってから1カ月、郁はずっと眠れぬ日々を過ごしてきた。
「俺なんか、むさ苦しい野郎が目の前にいるブースで演じるより、若い女が目の前にいる方がテンション上がるけどな」
(そんなに女の子が好きなら、俺になんかちょっかい出さなくったっていいのに)
なぜかムカムカしてしまい、郁は日高から顔を逸らす。
その態度をどう取ったのか、日高はさらに身体を押し付けてくると、クツクツと笑いながら耳元で囁いてきた。
「妬きもちか?」
「・・・・・っ、は、離してくださいっ」
ここには自分達以外にも数人の声優が控えている。
日高は郁のことをお気に入りと公言しているし、ボーイズラブ関係のイベントということでわざとふざけているのではと好意的に見ら
れているようだが、それでもされている本人である郁としては気が気ではない。なにしろ、自分と日高が、ボーイズドラマさながら、
男同士でお付き合いというものをしているのだ。
(バ、バレたらどうするんだよ〜っ)
日高はまだいい。攻めだし、日頃の役からも『ありかも』と納得されるかもしれない。しかし、自分は・・・・・ドラマCDさながら、本
当に受けなのだと思われてしまうと・・・・・恥ずかしくて、今後この手の仕事を請けることが出来なくなるかもしれない。
分かってくれと、半泣きの顔で日高を見上げると、なぜか僅かに目を見張った日高は、
「可愛い顔して誘うな」
という、的外れの言葉と共に、合わせるだけのキスをしてきた。
(バカ〜ァ!!)
「はっ、離してくださいっ」
小声でそう言った郁が自分を睨むように見つめてくる。
しかし、目は潤み、唇は震えていて・・・・・日高の目から見れば誘っているようにしか思えなかった。
「可愛い顔して誘うな」
そう言って、欲求のままキスをしてしまった。ごく軽いキスだが、こんな公共の場でというのはさすがにスリルがある。
一応、人の視線は見ていたつもりだが、郁から顔を離した時、同じイベントに出席するために待機していた神林(かんばやし)
と目が合ってしまった。
(見られたか)
別に、見られて困ることは無い。いや、むしろこの男には見せた方が良かったと思う。
神林省吾(かんばやし しょうご)は、日高より1歳年は上だが、芸歴は2年下の声優だ。
日高とはまた違った甘い声の神林はこの世界でもかなりの人気で、作品数はもしかしたら日高よりも多いかもしれない。性格も
明るくて親しみやすく、かなり遊び人だという噂もあるが、日高は神林が郁を気に入っていることを知っていた。
「昨日は郁ちゃんと一緒だったよ。彼、可愛い声をしてるよね」
「最近、妙に声が色っぽくなってきて。エッチの時、思わず郁って言いそうになってさ」
仕事で会うたびに郁の話題を振ってくるのは、多分日高に対して挑発をしているとしか思えない。神林はノーマルだと思うが、
同じノーマルだった自分も郁の声に堕とされたのだ。他の男もと考えられないことはない。
出来れば、日高は郁が自分のものだと大声で言いたかった。この世界ではそれほど偏見は無いと思うし、もしそうだったとして
も自分は声だけで勝負が出来ると信じている。
ただ、郁が恥ずかしがっているので、今は『日高征司のお気に入り』という形で我慢しているだけだ。
今のキスを見ていたらしい神林は、肩を竦めて笑っていた。
(・・・・・ふんっ)
「それでは、皆さんお待ちかねの声優の皆さんをお呼びしましょうか〜!」
その時、司会者の声が聞こえ、それに被さるような大きな声援が聞こえてくる。
今日は自分を含めて5人の声優が揃っていた。今回のアニメ化で出てくる新キャラが1人と、元々ドラマCDに出演している4人。
昔は隠れたジャンルだったはずが、昨今の腐女子と呼ばれる女達の勢いは強く、こうして通常のテレビで男同士の恋愛(アニメ
だが)が放映されるほどに周知のジャンルになっていた。
今回の観客もかなりの倍数で当選した1000人だ。
(・・・・・見たら、卒倒するかもな)
人数は郁には言わない方がいいだろう。どうせ、数え切れないのだし、大勢という言葉で括った方がいい。
「次は、『僕友』のケンイチ役や、『ローラ帝国物語』のハンス王子でも御馴染み、今回のアニメ『恋愛初心者』では同名のドラ
マCDでも同じ大森幸介(おおもり こうすけ)役の神林省吾さん!」
「じゃあ、お先に」
大きな歓声を受けながら、神林がステージに向かう。
ふと見ると、郁は真っ青から真っ白な顔色になっていた。
「大丈夫か?」
「ひ、日高さん、いったいお客さんは何人いるんですか?」
「ん〜・・・・・5人くらい?」
「う・・・・・」
「嘘じゃないって。俺達5人にそれぞれ付いているファンなんだから5人分なんだよ。俺が先に行ってるから、安心して出て来い。
逃げるなよ?」
「次は、『俺達のレクイエム』のトモキ役や、『株式会社 高橋商店』の高橋専務役、そして大人気アニメシリーズの『スペースガ
ーディアン』のカルロス大佐や海外映画の吹き替えでも御馴染み、『恋愛初心者』では同名ドラマCDと同じ東(あずま)先生役
の日高征司さん!」
「・・・・・っ」
(ど、どうして俺が最後なんだよ・・・・・)
格から言えば日高の方が最後に登場のはずなのに、郁を置いてさっさと出て行ってしまった。前に出た3人よりもさらに大きな歓
声に包まれている日高は、さすがトップ声優と言われている男だと思う。
いや、今回日高を含めて自分以外の4人は皆容姿も整っていて、声優ではなくモデルや俳優といってもいいほどの面子が揃っ
ていた。
(それに・・・・・俺だけ、受け・・・・・だし)
今回のアニメは恋愛コメディだが、郁演じる主人公(恐れ多い)が色んなタイプの攻めから求愛されるという物語だ。
ドラマCDは今までシリーズ3作が出ていて、いまだに誰ともくっ付いておらず、本格的なセックスの描写も無い反面、それぞれとか
なり濃厚なシーンをこなしてきた。
元々は小説らしいが、文字から声、そして映像へと、どんどん世界が広がっていくのは嬉しい反面、郁の羞恥も大きくなっていく
のが・・・・・辛い。
「さて、皆さん、最後に登場するのはこの4人のイケメン達に愛される幸せな少年の登場です!」
「・・・・・っ」
(ち、違うって、俺は少年なんかじゃ・・・・・もうっ、ごっちゃにしないで欲しいのにっ)
「大人気テレビアニメ『パレーの唄』で悲劇の少年ラス役、『ここ恋』では小悪魔なケン役、『恋愛初心者』では4人もの男達に
愛される天使のような美少年、国枝(くにえだ)マキ役、坂井郁さんです!!」
リハーサルで歩いたものの、舞台までの距離は遥か遠い。
このまま自分が出なかったらどうなるのだろうかと一瞬考えたものの、スタッフからどうぞと背中を押された郁は、ぎこちない歩きでラ
イトの下に立った。
「きゃー!!カワイ〜ッ!!」
「マキく〜ん!!」
前の4人に負けないような声援に、郁はチラッと顔を上げる。
その瞬間、顔を上げてしまったことを後悔して、郁は思わず数歩後ずさってしまった。
(な、何、この数・・・・・)
日高の言った5人とは当然思わなかったが、それでも100人か200人くらいかと想像していたが・・・・・あの埋まるとは全く考え
なかった席が全て埋まっている様子を見れば、1000人近くはいるということだ。
(俺・・・・・帰りたい)
こういったイベントでは、もちろん予告アニメに生声で声を当てたり、ファンからの質問に答えたりと、それ程深刻に考えることはな
いのだが、隣に座る郁を見ると強張った笑みを浮かべたままほぼ固まっている。
「郁」
日高は軽くその背中を叩いた。
「力を抜けって」
「ひ、日高さん」
「別に取って食われるわけじゃない」
「だ、だけど・・・・・」
こそこそと話しているつもりだったが、郁を気にしていた日高はここがステージ上だということを一瞬忘れていた。
自分達の一挙一同が無数のフィルターが掛かった目で見られているとは・・・・・。
「郁」
郁を落ち着かせようと指先でその頬を撫でた時、
「「「きゃあ〜〜〜!!!」」」
「・・・・・っ」
いきなり湧き上がった声に、さすがに日高も驚いたが。
「何、抜け駆けしてるんですか、東センセ」
楽しそうに声を掛けてきた神林の声で、今の自分達の立場を思い出した。
「マキはまだセンセのものじゃないでしょう?」
多分、話を逸らそうとしてくれているのだろう神林の話に、日高も直ぐに合わせるようにニヤッと笑みを浮かべて言った。
「ガキが出る幕じゃねえよ、大森」
「マキは俺の幼馴染ですよ。それこそ、ちっちゃい頃から風呂も一緒に入ったし、一緒に寝たし、どこもかしこも隅々まで見て知っ
てるんですけどね」
「今のマキは知ってる」
アドリブでの攻同士の会話に、観客は目を輝かせて聞き入っている。そんな様子を見ると、日高は郁の緊張も解してやろうと声
を掛けた。
「マキは?」
「え?」
驚いた声は、素の声だった。
「俺と、大森。マキはどっちが好きだ?」
重ねて役名で問えば、郁も今の自分の立場を自覚したようだ。羞恥心が強く、人見知りも激しい郁だが、声優という職業には
立派にプライドを持っていた。
「僕、平良(たいら)先輩が好きですよ?」
ドラマCDでは、一歩リードしている攻の名前。
「だって、動物に好かれてるんだもん。動物好きに悪い人はいないでしょ?エッチな東先生や乱暴者のコースケはキライッ」
プンッと顔を背ける仕草をした郁に、再び可愛いという声が掛かる。どうやら観客の意識は完全に逸れたようで、日高は神林に
向かって軽く唇の端を上げて見せた。
緊張して緊張して。
しかし、強引にアドリブに引きこんできた日高と神林のおかげで、郁はここにいるのは『国枝マキ』だとなりきることで何とか時間を
やり過ごしていたが、最後に声優本人への質問コーナーというのが始まってしまった。
仕事に関することならば澱みなく答えることが出来るものの、それが個人的なものになると直ぐにしどろもどろになる。
「郁ちゃんの好きな攻のタイプはどんな人ですか!」
そして、1人の少女の質問に、郁の顔は完全に強張った。
「お、俺の?マキじゃないの?」
「郁ちゃん自身の好みが聞きたいんです!」
「・・・・・」
(普通、好きな女性のタイプって言うと思うんだけど・・・・・攻・・・・・って?)
それは、郁自身が好きな男のタイプを答えなければならないということなのだろうか。
「え、えっと・・・・・」
「・・・・・」
「あ、あの・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・や、優しい人とか、好き、ですけど」
何だか、頬が熱い気がする。直ぐ側に、恋人といってもいい関係の日高がいるというのに、こんなことを言わされるとは何だか罰
ゲームのような気がした。
しかし、郁の中では優しい人と日高とは繋がっているのだ。一見意地悪で俺様な日高だが、郁に対してはとても優しいし、気
遣ってくれていると思う。
ただ、それと同時に面白がってからかってくるところが嫌なのだが。
「時々意地悪でも、最後に優しくしてくれるのなら・・・・・好き、かなあ」
心の中で付け足したつもりだった言葉。まさかそれがマイクに乗って会場に響いたことを、その時の郁は全く気がつかなかった。
「時々意地悪でも、最後に優しくしてくれるのなら・・・・・好き、かなあ」
「可愛い〜!!」
「もうっ、郁ちゃん本人が総受けキャラじゃん!!」
呟くような、恥ずかしげな郁の声。今の言葉が誰に向かって言われたことか、それが分からないほどに無頓着な男ではない日高
は、盛り上がる観客の歓声をバックに思わず苦笑を浮かべてしまった。
(ホント、可愛い奴)
自分が知る声優、『坂井郁』をもっと世間に認めさせたくて、今回渋る郁をイベントに強引に連れ出したが、思った以上に郁は
ファン達の心を掴んだようだ。
ただ、それが声優としての郁ではなく、いや、もちろん魅力的な声もあるだろうが、郁本人の綺麗な容姿と性格の愛らしさにも
目がいってしまっていて、多分、今後郁は妙なファンがついてしまうかもしれない。
そうでなくても、ボーイズラブというジャンルで活躍しているだけに、そういった意味で見られてしまうだろうが、それは間違いでもな
いので本人には言わないでおこうか。
(カップリングは、もちろん俺とのみで願いたいがな)
こんなふうに思っている段階で、既に自分も毒されている。
腐女子パワーは凄いなと、このジャンルの熱さを日高も改めて感じていた。
ようやく、イベントが終わった。
何だかドラマCDを10本分取ったくらいに疲れてしまったが、周りは初々しくて良かったと言ってくれ、どうやら合格点をくれたらしい
ので、終わったことは考えないようにしようと思った。
「お疲れ」
3人の声優に挨拶をし終えた時、肩を叩きながら掛けられた色っぽい声。
何時もは馴れ馴れしくしないようにと言ってしまうところだが、今日はとても頼りになったので改めて礼を言おうと振り返った。
「今日はありがとうございました」
「どうだった?」
「・・・・・緊張し過ぎて、なんか、あっという間に終わっちゃった感じです」
「この後打ち上げがあるみたいだぞ」
「打ち上げ・・・・・」
本当はもうこのまま家に帰りたいが、付き合いは大切だ。
特に今回はボーイズラブというジャンルの中でも数少ないマルチなメディア展開が行われている作品なので、せっかく携わらせても
らっているものを、1人乱すことなんか出来ない。
それでも溜め息をつくことは隠せなかった郁の耳元で、日高が甘い誘惑を仕掛けてきた。
「途中で抜けるぞ」
「え?」
そんなことをしたら、自分達の関係が変なふうに誤解(真実だが)されるかもしれない。
「いいんだよ。東だって、マキを教室から強引に連れ去っただろう?禁断の関係でもあんなに大胆に出来るんだ、俺達なんか、
障害になるものなんて何もない」
「・・・・・そう、ですか?」
「そう。行くぞ」
なんだか・・・・・流されている気がするものの、郁も既に日高と抜け出した後のことを考えてしまう。
高揚した気分のまま、恋人である自分達が2人きりになればどうなるのか・・・・・考えていることが現実になったら怖いが、一方
で期待する自分がいて。
それでも、最後の足掻きのようにその場に立ち竦んでいた自分に対し、日高は誘うように目を細めてさらに言葉を継いだ。
「可愛がってやるよ、郁」
「・・・・・っ」
その声に、逆らえる者などいるのだろうか。郁はカッと顔を赤くしたが、今度は差し出された日高の手を戸惑いながらも掴むと、満
足げに笑う日高にチラッと視線を向けて・・・・・想いを込めて呟いた。
「壊さないで・・・・・くださいね」
end
声優話。
今回はイベントでの一幕。郁・・・・・頑張れ(笑)。