日高&郁編
(ど、どうしよ・・・・・緊張する・・・・・っ)
舞台袖から客席を見つめていた坂井郁(さかい かおる)は、強張る頬を撫で摩った。いったい、この会場に何人いるの
だろうか・・・・・キャパは2000人ほどだと聞いたが、まさか声優ファンイベントにそれほど集まるとは思わなかったのだが、
「郁」
「!」
いきなり後ろからポンと肩を叩かれた郁は、それこそ飛び上がらんばかりの驚きで振り返り、そこにいた人物を見てほっ
と息をついた。
「日高さんかあ」
「なんだ、俺じゃ悪いのか?」
「そ、そうじゃないです」
(むしろ、今回はいてくれて本当に良かった・・・・・)
日高征司(ひだか せいじ)。郁より7歳年上の先輩声優で、声優のキャリアとしては大学在学中を合わせても十年ほ
どだが、演技力の評価は高く、またその声が素晴らしくいいので、この年齢としては異例なほど早くトップの座について
いる男だ。
日高の声は低く甘く、キャラクターに応じて様々に変化する演技力もあり、そのどれもが魅力的なキャラクターに生まれ
変わったし、そのルックスも俳優ばりに整っていて、イベントなどでは日高目当ての女性客が殺到するほどだった。
郁も、数年前爆発的ヒットを飛ばした有名なテレビアニメの悲劇の主人公の声をしたのだが、それ以降はなかなかヒッ
ト作に恵まれなかった。そんな中、日高とのコンビで初めて出したボーイズラブのCDが思いがけずヒットし、それ以降郁
はボーイズラブの受け役として、かなりの人気を得るようになっていた。
始めは尊敬する先輩・・・・・いや、どちらかと言えば少し苦手な先輩だったが、強引なモーションを受け続け、何時しか
絆されて・・・・・とうとう二カ月ほど前、最後まで、セックスまでしてしまった。
それは弾みではなく、それ以降もお互いのスケジュールを合わせながら会い続け、もう両手で数えるくらいにセックスを
しているものの、未だ郁は自分が日高にとってどの程度の位置にいるのか自信が無い。
好きだとは言った。
心も身体も欲しいと言われた。
しかし、結局自分達はどういう関係なのだろうか?
「ん〜、まあまあ入ってるな」
日高は、先程郁がしていたように客席を覗いて言った。
「ま、まあまあじゃないですよ!満員じゃないですか!」
「でも、今回は合同だしな」
「え?」
「全員が俺のファンだとは限らないし、まあまあって言ってた方が無難だろ」
「で、でも・・・・・」
確かに、今回のイベントは、先月発売分のボーイズラブCDについていた当たり券を持ってくれば入場出来るもので、誰
か個人の名前を出したものではない。
それでも、今回の出演者である自分や日高を含め、7人の声優がいる中では、日高は断トツで有名であるし、人気
もあるだろうと思った。
「・・・・・緊張します」
「お前、こういったイベント初めてか?」
「前のアニメの時、結構色んな所に出ていたかもしれませんけど、あの時はまだこの世界のことを良く知らない新人で、
連れまわされてるって感じだったから」
「ああ、あの時は結構色んな媒体が関係していたしな。でも、今のお前の声の方がいいぞ」
色っぽくて、艶がある。耳元で囁かれた声は、背中がゾクゾクするほど官能的で、わざとやっているのだと分かってい
ても郁は感じてしまって・・・・・泣きそうに顔を歪めた。
(ホント・・・・・泣き顔が最高)
郁の顔を見下ろしながら、日高はそう考えて笑みを浮かべた。
もう、その身体の全てを知っているし、CDの中での可愛い喘ぎ声以上の声も聞いた。
どうやら本人はまだ自分との距離を測りかねているようだが、日高はとっくに郁を自分のものだと思っているし、周りにも
それとなく牽制している。世間知らずで、容姿も声も可愛らしい郁を狙う男は、この業界の中にも目につくほどにはいるの
だ。
今回のイベントも、当初は出演しない予定だったが、偶然見た出演予定者の名前を見た時、なぜか受け役は郁しか
おらず、後は攻め役の声優ばかりだというのが引っ掛かった。
多分、スケジュール的な関係だとは思うが、周りを攻め役の声優に囲まれた郁を想像すると・・・・・思った以上に面白く
なく、日高は強引にスケジュールを調整させて、今日この場にいるのだ。
日高の懸念したような、攻め役の声優と郁が急接近するという様子はなく(日高がいるからかもしれないが)、それ以
上に、緊張しているらしい郁を、傍にいて慰めてやることが出来ているようだ。
その証拠に、何時もは仕事場で必要以上近付くことを避けている郁が、今は無意識に自分の上着の端を握り締めて
いた。
「そんなに緊張すること無いだろ。基本的にはファンばかりなんだし」
「そう、ですけど」
「何か心配事があるのか?」
「・・・・・質問コーナーとか・・・・・自分で答えなくちゃいけないコーナーもあるでしょう?」
「ああ、そうだったな」
抽選で当たったファンの質問を受ける時間が30分ほどある。
好きな食べ物とか、好きなタイプとか、今までやった仕事のこととか聞かれても、まさかここで恋人の有無やセックスに関
連した質問をされるわけでもないだろうし、それほど緊張していなくてもいいと思うのだが、郁は違うのだろうか?
「た、例えばですよ?」
「・・・・・」
「セリフとか、言って欲しいって言われること・・・・・ありますか?」
「定番の質問じゃないか?」
「や、やっぱり?」
どうしようと、目の前の郁は頭を抱えた。
(や、やっぱりそういう可能性って大なんだ)
それが、今の郁の一番の難題だった。
普通のセリフならいいし、百歩譲って、攻め役の口説き文句とかだったら何とか言えるが、自分のセリフはほとんど女の
子のように告白したり、喘いだりと・・・・・結構恥ずかしい場面が多いのだ。
(ぜ、絶対に、言えないって〜)
仕事場で、マイクの前に立ったのならば何とか言えるセリフ。それを、こんなにも大勢の前で、しかも女の子相手に言う
ことはとても出来ない。
リクエストをされて、それに応えないなんて、あまりにも場の雰囲気を読まなさ過ぎるだろう。
「う・・・・・」
「簡単だろ」
1人パニックになっている郁に、日高が面白そうに言ってきた。
「そ、それは、日高さんは慣れてるだろうし、攻める側だし・・・・・」
(俺とじゃ立場が違うよ)
「俺のことを見ながら言え」
「・・・・・え?」
「リアルで愛の告白だ、それなら出来るだろ」
「そ、そんなの、余計に・・・・・んっ」
無理だと言おうとした郁の唇は、日高の笑みを湛えた唇で塞がれてしまう。誰が見ているかも分からない場所でのキス
に焦るものの、一方では馴染む感触に安心感さえ抱いて・・・・・。
(お、俺・・・・・)
やがて、唇を離した日高は、悪戯っぽい笑みを向けてきた。
「言葉に詰まったら、俺が何時でも言ってやるよ、愛の告白をな」
「・・・・・っ」
(あ、相変わらず、恥ずかしいことを言う人だけど・・・・・っ)
それでも、その言葉に緊張感もかなりほぐれてきて、そんな自分に、郁はかなり日高に気持ちが傾いている自分を自覚
せずにはいられなかった。
end