その日、開成会の会長であり、現在関東でも随一を誇る大東組の最年少理事である海藤貴士(かいどうたかし)の部下、
倉橋克己(くらはしかつみ)は千葉の大東組本家にやってきていた。
 海藤が理事になって以来、開成会の仕事の他にも大東組の仕事がかなり課せられていて、その窓口に倉橋がなっていた。
倉橋自身は、自分よりも遥かに有能な同じ開成会の幹部、綾辻勇蔵(あやつじゆうぞう)が適任だと思っていたのだが、

 「やあよ〜、辛気臭い場所嫌いなんだもの」

と、言ってさっさと逃げてしまった。
 事務的な処理には慣れているし、以前から本部には顔を出してはいたものの、海藤が理事という肩書きを持ったとなるとその
責任はかなり重い。
 今も倉橋は緊張した面持ちで、本家の敷地内にある本部のビルのエレベーターに乗っていた。
 「・・・・・」
目的の階に着いて扉が開くと、倉橋はそこに見慣れた顔を見付けた。
向こうも直ぐに気がついてくれ、柔和な笑みを返してくれる。
 「こんにちは、お久し振りですね」
 「お疲れ様です」
 春の人事で異例の抜擢を受け、大東組の若き総本部長に就任した江坂凌二(えさかりょうじ)の片腕である橘英彦(たち
ばなひでひこ)。
今年35歳になるはずだが、見た目にはまだ30を越えてないような年齢不肖な男だ。
何時も穏やかな物腰の橘は、一見してヤクザとは思えないものの、あの江坂が自ら片腕に抜擢しただけにかなりの切れ者だと
評判で、倉橋も年下ながら敬意を表していた。
 「来られるとはお聞きしたんですが、今からですか?」
 「ええ、九鬼(くき)さんがいらっしゃるのがこの時間だと聞いたので」
 大東組若頭、天川会(あまがわかい)会長、九鬼栄(くき さかえ)とは何度も顔を合わせている。
大学の先輩で、以前は大蔵省に入省していたという異例の経歴を持つ彼とは、元検事からこの世界に入ってきた倉橋は何
かと話が合った。
 日本や海外まで飛び回っている九鬼はなかなか本部にいないのだが、今日は空いているという報告を受けてやってきた。
堅苦しい本部の中で、彼と話せるのは倉橋にとってもホッと気が抜ける一時でもある。
 「そうですか。では、また後で」
 「・・・・・?」
(後、で?)
いったい何の用があるのだろうかと思ったが、倉橋が訊ねようとした時には橘は既にエレベーターの中の人になっていた。

 必要な報告を九鬼にし、短い時間だが他愛無い話もした。
本当は夕食を一緒にとりたかったと残念そうに言われたが、忙しい身の彼を自分などが拘束してはならないと分かっているので、
倉橋はまた時間がある時にと言って部屋を出た。
 「・・・・・」
 倉橋は無意識のうちに息をつく。
腕時計を見れば、午後3時まであと10分ほどだ。
(だから、誘ってくださったのか)
九鬼の気遣いに思わず頬を綻ばせた倉橋はエレベーターに乗ると、そのままロビーから出て行こうとしたが・・・・・。
 「・・・・・」
 目の前の自動ドアをくぐってやってきた人物を見て、倉橋の頬に浮かんでいた笑みはたちまち消えてしまった。
 「良かった、間に合って」
 「・・・・・え?」
 「あなたがいらっしゃっていると本家で聞いて、ぜひお茶をご一緒しようと思いましてね」
一見、綺麗な笑みに見えるものの、その背中に背負ったものを想像すれば素直に頷くことはとても出来ない。
 「・・・・・ありがとうございます。ですが、あいにくこの後も所用がありまして」
さりげなく断ろうとした倉橋だったが、目の前の相手はそんな口先だけの逃げを許すような性格ではなかった。
 「そうなんですか?では、海藤会長に連絡をして、あなたの時間を少しだけ貰う許可を頂くことにしましょう。今から電話をして
もいいでしょうか?」
 「・・・・・待ってください」
 そんなことをしたら、倉橋の今の言葉が嘘だと直ぐに分かってしまう。
それは組同士の関係も悪化させかねないと危惧した倉橋は、強張る頬になんとか笑みを浮かべて自身の携帯を取り出した。
 「私が許可を頂きます。少し待っていただけますか、小田切さん」
 「え、どうぞ」




 わざわざ柱の影に移動して携帯電話を操る倉橋を見て、小田切はうっすらと浮かべた笑みをさらに深くした。
今の倉橋の言葉が嘘だというのは分かりきっていたし、自分がああいう態度をとれば追い詰められてしまうことも当然ながら予想
がついた。
 ここに彼の一筋縄ではいかない保護者がいたら、きっと上手い具合に逃げられてしまうかもしれないが。
(たまには私にも分けてくれてもいいですよね)
羽生会の会計監査である小田切裕(おだぎりゆたか)は、生真面目な倉橋を気に入っていた。
 遊びに行くのは、自身と同じような性質の(そう言ったら苦い顔をされたが)綾辻の方が退屈しない。
それに対して、倉橋の持つ空気は清涼で、少しばかり裏の世界に染まった自分には眩しくて・・・・・だからこそ、時折その空気に
癒されたいと思ってしまうのだ。
 この世界に身を置いて、綺麗でいられる人間は少ない。
自分の仕えている上杉滋郎(うえすぎじろう)も、開成会の海藤も、江坂や綾辻も、人には話せない黒い部分はある。
だが、倉橋にはどうしてもそんな部分が見えないのだ。
(・・・・・汚してみたいですよねぇ)
 グチャグチャに泣かせて、立ち上がれないほどの絶望感を与えて、この綺麗な顔がどんな風に歪むのかを見てみたいが、一方
では綺麗なまま、出来る限り汚れさせたくないとも思う。
 「・・・・・罪な人だな」
 「誰がですか?」
 いつの間にか背後に立っている人物に、小田切は予め気付いていたのでフッと笑い掛けた。
 「倉橋さんですよ」
 「倉橋さん?」
 「あなただってそう思っているから構うんでしょう?橘さん」
 「・・・・・その言葉遣い、居心地が悪いので止めてもらえませんか、小田切さん。私の方がずっと年下なんですし、あなたに敬
語を使ってもらうのは居たたまれないです」
少し呆れたように言う橘は、言葉ではそう言っているものの遠慮をしているといった雰囲気ではない。
小田切も、歳でどうこうというのはあまり気にしていないので、肩を竦めて付け加えた。
 「ずっと年上というのは余計な一言でしょう?こう見えても、年齢不詳と言われるんですけど」
 「自慢なんですか?それ」
 その言葉に答えようとした小田切は、電話を切ってこちらに向かってくる倉橋を見た。
倉橋は隣にいる橘の姿に一瞬目を瞬かせたが、どこかでホッと安堵した様子なのも見て取れる。嫌われてはいないのだろうが苦
手とされている自分だけよりも、この薬とも毒ともなりえない凡庸な存在がどうやら心強いようだった。
 「遅れて帰る許可はもらいました」
 「それは良かった。じゃあ、行きましょうか」
 小田切が倉橋の背を押すと、その視線は橘の方に向けられる。このまま置いていってもいいのかと訴えているようだ。
 「あ、あの」
 「近くに美味しいコーヒーを出す店があるので」
 「・・・・・橘さんも?」
 「お邪魔でなければ」
いいえと、どこか嬉しそうな顔で答える倉橋に、小田切はフッと苦笑を浮かべた。
(人畜無害な顔をした悪魔の方が性質が悪いんですよ、倉橋さん)




 まだ江坂に付く前、橘はその有能さを買われて何度か大東組の本部に短期で手伝いにやってきた。
その時に小田切と知り合ったのだが・・・・・こんな人間がいるのかと思うほど、小田切は綺麗な外見に似合わず悪魔のような言
動をする人間だった。
 自身の手を血で汚すことは無かったと思う。しかし、周りから相手を追い詰めるその方法はこちらの背中がゾクゾクするほど狡
猾で、鮮やかで、橘はある日面と向かって訊ねたことがあった。

 「あなたはこんな場所で生きていくつもりなんですか?」

 日本でも有数といわれていた組織でも、所詮はヤクザだ。
小田切ほどの美貌と才覚、そしてチラチラと見える強力な背景を持っている者ならば、もっと他に生きていく場所があるような気
がしたのだ。
その時、小田切はじっと橘の瞳を見返し・・・・・にっこりと艶やかな笑みを浮かべて言った。

 「私は、この程度の世界で生きていくのが心地良いんだ」

 その時の衝撃は、今の橘の性格形成に大きく影響をしていると思う。
主である江坂は小田切のことをあまりよく思っていないが、その能力は高く評価しているし、橘もこの謎多き麗人の心の闇を覗
いてみたいという欲求を消してはいない。
 そんな小田切や自分と対極にいるのが倉橋という男だろう。
絶対にヤクザの世界になど係わりあうような人間ではないはずだが、何の因果か今はその中枢にまで深く携わっている。
それなのに、眩しいほど綺麗な彼は傍から見ているとなんだか心が癒されて、橘はつい声を掛けてしまうのだ。




 「・・・・・」
 「ケーキはいかがですか?ここは手作りのシホンケーキが美味しいらしいですよ」
 にこやかな声に、倉橋は左に座っている橘に視線を向けた。
 「私は、チーズケーキがお勧めだと聞いたんですけどね」
 「・・・・・」
右隣に座っている小田切は、そう言いながら優雅な仕草でカップを持ち上げる。
香りだけでも美味しいだろうと分かる店。シックな木造の店は落ち着いた雰囲気で、倉橋もこういった店は嫌いではないが、やは
り小田切の存在が気になって仕方が無かった。
 「倉橋さん?」
 「あ、いえ」
 せっかく勧めてもらったものを手付かずにしてはおけず、倉橋はカップに口をつける。
 「・・・・・美味しい」
 「そうでしょう?」
 「ここは橘に教えてもらったんでしたっけ」
 「随分昔のことなので忘れましたよ」
 「・・・・・」
(この2人・・・・・)
総本部長の側近である橘と、滅多に本部にやってこない小田切。
2人が親しく言葉を交わしている姿を見たのは初めてのような気がして倉橋は戸惑った。
(どういう繋がりがあるんだろう?)
 全く本質が分からない小田切と、穏やかで誠実な物腰の橘。歳も少し違うので、2人の接点が想像つかない。
 「可愛らしい顔をして」
 「・・・・・え?」
 「何か疑問があるのなら遠慮なく聞いてください。私達はあなたに秘密にするようなことはありませんから」
倉橋の視線が気になってそう言ったのかもしれないが、小田切がそう言っても橘は反論することも無い。どうやら本当に2人は親
しい関係のようだ。
 「・・・・・お2人は、何時から仲が良かったんです?」
 人間関係に疎い自分だから気がつかなかったのかと首を傾げると、橘が小田切を見て笑う。
 「私達、仲が良く見えるようですよ」
 「少なくとも、悪くは無いでしょう」
 「確かに」
2人だけで通じる言葉に、倉橋の中の疑問はさらに膨らんだ。
 「お互いの昔を少し知っているだけですよ」
 「昔を?」
 「ええ、若かりし頃を、でしょうか」
 「・・・・・そうなんですか」
 もっと訊ねれば、さらに2人は隠すことなく話してくれそうな気はしたが、倉橋はここで引いた方がいいと判断する。
まだまだヤクザの世界を知らない自分とこの2人では、なんだか立っている位置が違うような気がした。




 普段の倉橋はあまり感情が顔に出ない男だが、こういった時・・・・・人の心の闇に関係する話をする時は、何時も自分の方
が痛そうな表情をする。
きっと、倉橋は素直で優しい性格をしているのだろう。可愛くて、微笑ましくて・・・・・。
(泣かせたいなあ)
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 にんまりと口元を緩めると、不意に橘が小田切さんと名前を呼んできた。
何を考えているのか全て見通しているといった様子で、呆れたように首を横に振っている。
 「分かっていますよ」
 「?」
1人、わけの分からない倉橋は戸惑った様子だが、小田切もここで彼を苛めて楽しむつもりは無い。
暗い顔をさせるよりは、羞恥で顔を真っ赤にさせてからかってやろうと、小田切は話を切り替えた。
 「ところで、上手くいってるんですか?」
 「え?」
 「綾辻さ・・・・・」
 「小田切さん!」
 いきなりバンッとテーブルを叩いて立ち上がった倉橋は、既に顔を真っ赤にさせている。
 「何を言うんですかっ?」
 「・・・・・まだ何も言っていませんよ」
 「・・・・・っ」
男と付き合っているということは、それ程秘密にしたい話だろうか?
確かに自慢げに言いふらすような話ではないが、好きになった相手がどんな人間であろうと隠す必要は無いと小田切は考えて
いる。
だが、それが世間では通用しないだろうとも分かっていた。
 「まったく、あなたは何時もそうなんですから」
 「・・・・・橘さん?」
 「すみません、倉橋さん。この人は好きな相手を苛めて楽しむ典型的ないじめっ子なんですよ。対処法は気にしないことです。
反応するから面白がられるんですよ?」
 「橘」
 この歳でいじめっ子だと言われるのは少々心外だ。
 「違わないでしょう?」
 「総本部長に付いて、少し性格が悪くなったようですね」
それでも、これだけポンポンといいあえるのは心地良い。
小田切はコーヒーを飲んで口を湿らすと、呆然として自分達を見ている倉橋に椅子に座るように勧めた。




 昔は、自分も色々とからかわれた。
本人は軽い気持ちだったかもしれないが、橘自身にとっては胸の痛い話もあった。
 しかし、今考えたら自分は案外この小田切という人に好かれていたのではないかと思える。
現に、本部に上がる前から幾度と無く食事に誘われたし、彼の持つ様々な人脈にも顔を売ってくれ、最終的には自分は今の
地位にいる。
 この人の好意は本当に分かり難いが、分かってしまえば憎めなくなってしまうのも小田切の魅力だった。
 「たまにはいいこともしてくれますしねえ」
 「たくさんあるでしょう?」
 「私が一番感謝したのは、幼馴染を海外に逃がしてくれたことですよ」
 「・・・・・ああ、あの彼。元気なんですか?」
 「・・・・・知っているでしょう?」
あの時、今にも死ぬかもしれないと思った幼馴染をどうにか元凶から遠ざけたくて足掻いていた所を、小田切が異変に気付い
て声を掛けてくれた。
 「楽しくやっていますよ。遣り甲斐のある仕事にも就いているし」
 「世話好きなタイプでしたからね」
 「・・・・・何度も、あなたに感謝していると言っていましたよ」
 「その言葉は、いつか面と向かって言ってもらいましょう」
 「伝えておきます」
その日がくるかどうかは分からないが、橘は笑いながらそう言い、小田切も笑って頷いた。








 「大体、総本部長は人使いが荒過ぎると思いませんか?皆が皆、有能な者ばかりだけでなく、本部の結構な数が能無しで
すからね。春の人事では、煩いお年をめした方も一掃すればすっきりしたでしょうに・・・・・あ、コーヒーをおかわりお願いします」
 小田切がにこやかに手を上げて言う。
 「それは確かにいえますね。口で言うほど働いていない人に命令をされるのは少々腹立たしいですし。私は焼きプリンをお願い
できますか?」
2皿目のモンブランを食べ終えた橘がそう注文した。
 「甘い物、好きでした?」
 「疲れていると身体が糖分を欲しがるでしょう?あなたが本部に戻ってきてくれたら、私の仕事も半分以上減ると思うんですけ
どね」
 「今さらあの堅苦しい本部に戻る気は無いですよ。今の立場が私には気楽でいいんです。上杉会長も退屈しない人ですし」
 「確かに、上杉会長は変わった方でしょうねえ、あなたを側近として重用していらっしゃるんですから」
 「見る目があるんですよ」

 「・・・・・」
(わ、私はここで聞いていてもいいのか・・・・・?)
 コーヒーを飲み、ケーキを食べる午後の一時。
話し方も穏やかで、表情もにこやかなのに、その内容はとても笑っていられないほどに辛辣だ。
本部から車で30分ほど離れているが、全く影響がないとはいえないはずで、もしもこんな会話が漏れてしまったらこの2人の立
場がかなり悪くなるのではないか・・・・・聞いている倉橋の方が心痛で居心地が悪い。
 「ですが、こんな茶話会くらいでは話がつきませんね」
 「今度、お食事を一緒にいかがです?」
 「あ・・・・・と」
 いきなり話の矛先を向けられ、倉橋は言葉に詰まってしまった。
 「ああ、今度は綾辻さんも誘いましょうか」
 「他にも誘いたい方がいらっしゃったら遠慮なくどうぞ」
 「・・・・・ありがとう、ございます」
とりあえず、そう言って倉橋は口をつぐんだ。
コーヒーくらいでここまでズケズケとした話をするのなら、これで酒が入ったらどうなるのか想像したくない。
(綾辻さんも・・・・・あの人もきっと面白がる)
 綾辻の口からポロリと自分達の関係のことが漏れたら、それこそ身の置き所が無い。
小田切には知られてしまっているだろうが、せめて橘には・・・・・彼も、小田切同様一筋縄ではいかないタイプのようだが、今の
ところの友好関係は壊したくない。
 「・・・・・時間がありましたら、ぜひ」
一応そう言って、倉橋は早く時間が過ぎないだろうかと腕時計を見下ろしてしまった。







 「二週間後、時間があるんですけど」
 「じゃあ、早速話を進めますか」
 嫌だと言わないこと=承諾したことだと捉えた小田切と橘は、倉橋が帰宅した後早速段取りを決める。
当日になって綾辻に引っ張られた倉橋が、息の止まりそうなほど濃い面々と再会するのは二週間後のことだった。






                                                                     end






倉橋+小田切+橘の秘書’Sの茶話会。
意外に橘さん、腹黒いです(笑)。