本気と義理の境界線
3月に入って、倉橋は自分が落ち着きがなくなっていることを自覚していた。
多分、他の人間からすれば『どこが?』と言われるほどの僅かな変化だろうが、倉橋自身にとっては大きな問題だった。
「・・・・・」
ふと気付くと、パソコンを私用目的で開いている自分に気付き。
本来なら注意を促すべき自分が仕事中にと何度も反省するが、再び同じ事を繰り返してしまう。
(全部、あの人のせいだ・・・・・)
倉橋は目の前のソファに座ってのんびりとコーヒーを飲んでいる、自分にこんな真似をさせている相手をこっそりと睨みつ
けていた。
広域指定暴力団大東組の傘下である開成会の幹部兼、経営コンサルタント会社社長秘書。
倉橋はそんな表と裏の顔を持つ男だ。
家柄自体は悪くは無く、自身も日本の最高学府まで出たが、気が付けはヤクザという普通ではない人生を歩き始めて
いた。
そのことに、倉橋は全く後悔していない。
むしろ、あのまま表の世界を歩き続けていたとしたら・・・・・いつか自分は、自分自身を消し去りたいと思っていたかもし
れないと考えている。
倉橋をこの世界に引き止めているのは、その開成会会長である海藤だったが、そんな倉橋の心の中には、今、ほんの
僅かにだが別の存在が割り込んできていた。
それが、同じ開成会の幹部の綾辻だ。
初対面の時から遠慮なく人の心の中に入り込もうとしてきた綾辻を、始めはうまくかわしていたはずなのに、何時の間に
か男は倉橋の心の一部分にちゃっかり居座っている。
追い出そうと思っても、もはや倉橋の自由にはならないほど、その存在はしっかりと倉橋の心に根付いてしまっていた。
そんな綾辻が、先月、倉橋にチョコレートを贈ってきた。
それも2月14日という、特別な意味のある日にだ。
大体、男である綾辻が、男である自分にチョコレートを送るなどという意味が、倉橋には今もって分かっていなかった。
確かあのイベントは、女が男に贈るもののはずだろう。
(単に、からかっているようには思えなかったし・・・・・)
「・・・・・」
「克己、今夜飲みに行かない?」
「・・・・・行きませんよ。私が飲めないのは知ってるでしょう」
「私が介抱してあげるわよ」
「信用出来ません」
「や〜ね〜」
綾辻は笑っているが、今までも何度か酔った上で醜態を晒したことがあるので、倉橋は出来るだけ酒を飲むことは控え
ている。
(あの時も、酔ってしまって・・・・・)
あの日、綾辻手作りのチョコレート(それにも驚いたが)を口にした倉橋は、その中に酒が入っていることを後になるまで
知らなかった。
気が付くと、倉橋は自分のマンションのベットに寝ていて、綾辻の姿はそこには無かった。
慌てて見下ろした自分の身体は、上着を取られ、ネクタイを解かれ、苦しくないように緩められてはいたが、特別な乱れ
は無かった。
恥ずかしさと、途惑いと、色々複雑になった気持ちを誤魔化すように、倉橋は随分綾辻に文句を言ったものだ。
(全く、何時も私の考え付かないことばかりして・・・・・っ)
借りを作らない為にも、何か返そうとは思うのだが、いったい何をすればいいのか見当が付かない。
まさか向こうが手作りの物だったので、こちらも・・・・・と、いうわけにはいかない。
案外不器用な自分は、料理なんてとても出来ないし、菓子作りなどもってのほかだ。
(服も持ち物も、この人のセンスには敵わないし・・・・・)
ネットでブランドショップを見たり、今流行のものを見たりしているが、全く何も頭の中には浮かんでこない。
悩み続け、探し続けてもう一週間以上も経ち、肝心のお返しをしなければいけない日も、もう明日と迫っていた。
「・・・・・」
(大体、どういう意味でくれたんだ?)
ただ、からかう為だとしたら、こんなも悩んでいる自分は滑稽だ。
ただ、理由を聞くのはどうしても怖くて・・・・・。
「克己」
「・・・・・」
「か〜つ〜み〜」
「あ、はい」
パソコンの画面に見入っていた倉橋は慌てて顔を上げた。
「何ですか?」
「明日の夜、時間ちゃんと空けててよ」
「え?」
「チョコ、あげたでしょう?お返しにご飯ぐらい一緒に食べてよ。私が奢るから」
「・・・・・そうですか」
「いいでしょ?」
「どうせ食べなければならないんですから」
(・・・・・助かった)
倉橋は内心大きな安堵の溜め息を漏らしていた。
悩んで悩んで悩んで、結局直前になるまで何を返せばいいのか分からなかった自分に、綾辻の方から『食事』という具
体例を指定されて本当に助かった気分だ。
(とにかく、明日の食事は私がご馳走して・・・・・コンビニででもアメを買って渡せばいいだろう)
形があるものを渡さなければ・・・・・それも、明日はクッキーやアメなどを贈るらしいとネットにも出ていた。
改めて、きちんとした店で買うのは恥ずかしいが、コンビニで普通のアメを買う位は何とも思わない。
「何がいいんですか?」
「克己に任すわ」
「あなたが食べたいものを言ってください」
「ん〜、じゃあ、創作和食なんてどう?」
「創作和食ですね?分かりました」
和食ならば、何軒か心当たりがある。
ここ最近の懸念が解決した倉橋の表情は、目に見えて柔らかく変化していった。
(可愛い顔して・・・・・食っちゃうぞ)
柔らかな表情になった倉橋を視界の端に収めた綾辻は、それこそ倉橋には絶対に分からないように会心の笑みを浮
かべた。
全ては、綾辻の思うとおりに進んだ。
手作りのチョコを贈った後の倉橋の反応・・・・・普段の彼ならば、『ありがとうございます』という言葉だけで済ませてしまい
そうな出来事なのに、特別な日に贈ったそれには大きな意味があることをきちんと分かったらしかった。
それは、倉橋に対する綾辻の気持ちを、冗談や嘘とは捉えていない証だ。
(ずっと、思い悩んでいる克己は色っぽかったし)
3月に入ってから、他の人間には分からないほどの変化が倉橋にあったのを、敏い綾辻が気付かないはずがなかった。
パソコンの画面を真剣に見ていた倉橋が席を外した後、その履歴に目を通した綾辻はにんまりと笑みを浮かべた。
3月14日。
並ぶ履歴を見れば、倉橋がちゃんとその日を意識してくれているのだと分かった。
それからは毎日、思い悩む倉橋の綺麗な顔を堪能した。
倉橋が自分の為に悩んでいることが、自分の事を考えてくれていることが嬉しかった。
本当ならば明日まで・・・・・ギリギリまでその顔を見ていたかったが、14日が近付くにつれてだんだん顔色が悪くなり、
悲壮感まで漂わせてきた倉橋を見ていると、もう意地悪する気も起きなかった。
(こういう所が、詰めが甘いんだよなあ)
他の事に関しては一切妥協することは無いのに、倉橋のことだけに関してはどうしても甘くなってしまう自分がいる。
惚れた弱みだというのは簡単だが、これほど自分を溺れさせているのに、当の本人に自覚が無いのはもう笑うしかない。
(ま、明日はゆっくりデート出来そうだし、よしとするか)
自分の助け舟に目に見えて安心したような倉橋を見ながら、綾辻は明日の夜の楽しい時間を想像して笑った。
(全く、早く言ってくれたら良かったのに)
綾辻の好みそうな美味しい和食の店を探しながら、倉橋はつい心の中で恨み言を漏らしてしまった。
もっと早く綾辻が『食事をしよう』と言ってくれれば、これ程長い間考えることもなかったのにと思う。
「本当に私が選んでもいいんですね?」
「ん〜、お任せする」
のんびりとそう言い返してくる綾辻に内心溜め息を付きながらも、倉橋は口元に笑みが浮かんでくるのが分かる。
(人の事は言えないかもしれないな)
ついさっきまで、バレンタインは女の行事だと考えていた自分が、そのお返しにと明日綾辻に食事を奢ろうとし、その上ア
メも渡そうかと思っている。
去年までは全く自分とは関係が無かった行事が、ごく身近なものになったのだ。
(仕方が無い。この人がそう言ったんだから・・・・・)
そんな自分の変化を、倉橋は自分の心の変化だとはまだ認めたくは無い。
あくまでも、『綾辻のせい』という大義名分が無ければならない。
「克己〜、2人きりなんて嬉しいわ〜」
「・・・・・あくまで義理ですよ。義理のお返しです」
「はいはい」
小さな小さな変化が積み重なってくる。
それが心地良いものだと倉橋が感じるのは、まだもう少し先のことだった。
end
綾辻&倉橋編です。
もんもんとホワイトデーの事を悩んでいる倉橋さんはきっと可愛いと思って書きました(笑)。
もう、ラブラブじゃん、この2人〜。