「行ってきます」
 「いってらっしゃい」
 「気をつけろよ」
 同居する3人の中で一番早く学校に出かける芳野聖(よしの ひじり)は、玄関先までわざわざ見送ってくれる2人に気恥ず
かしげに笑いながら手を振った。
 忙しい母親と暮らしていた頃は、こんな風に見送ってもらったのは数えるほどにあっただろうか・・・・・?奇妙な同居生活とは
いえ、一緒に暮らす人がいるとはこんな風なものなのだと、聖は何だか嬉しく思った。



 この春、高校に進学した聖が、込み入った事情で同居をしている高須賀(たかすが)家。
家長であるトップ企業家の42歳の高須賀圭史(たかすが けいし)と、その長男で、今年大学4年生という立場と、自分でた
ちあげたコンピューターソフト会社の役員という立場の亘(わたる)。
 ごくごく、平凡・・・・・と、いうよりは物静かで大人しく、母親に似た色白の肌と柔らかな面差し、そして片頬に出来るエクボの
せいで幼く見える聖は、自分とは違う生活力が旺盛で男らしい2人にいまだひけ目があり、数ヶ月一緒に暮らしているのだがま
だまだ慣れない。

 逃げた母の代わりに家事全般を任せられている上、なぜか花嫁の立場としておかえりなさいのキスをしたり、信じられないよう
な悪戯を仕掛けられたりしているものの、ここ以外に頼る場所の無い聖は、何とか自分の心と折り合いをつけて、高須賀家で
日々を過ごしていた。








 玄関の扉が閉まると、亘はさてとと背伸びをした。
真面目な聖に付き合うせいで朝食もしっかり取ったし、本来は大学の講義の時間まで少しのんびりとするのが普通なのだが、
今日は少し・・・・・違う。
(同じバスに乗るのはさすがに無理だろうしな)
 「亘」
 そのまま自分の部屋に引き返そうとした亘は、父の声に足を止めた。
 「何?」
 「・・・・・お前、何考えてる?」
 「・・・・・別に、何も。父さんも今日は会議があるんだろう?早く出かける準備をした方がいいんじゃない?」
実の父でありながら、聖という存在を間に挟んでは男と男の立場だ。経済的には自立しているとはいえ、まだ大学生の自分は
社会人である父親にそれだけで負けている。
(少しでも優位に立つためには、抜け駆けだって必要だし)



 「わざわざ、ごめんね」
 「いいって。それより、すげえ家だな、お前んち」
 「・・・・・」
 亘がその光景を見たのは二日前だった。
大学からの帰り、そろそろ聖も帰ってくる頃かと思っていた亘は、自分の家の玄関前に立っている聖を見た。しかし、聖は1人で
はなく、彼よりも背が高く、精悍な容貌の男もそこにいて・・・・・同じ制服から、多分同級生ではないかと推測出来た。
 別に、そのまま声を掛ければよかったのだが、亘はなぜか物陰に身を隠してしまった。この聖と一緒にいる学生のことをもう少し
観察しようと思ったからだ。
 「大体、その細い腕で、醤油とみりんを買って帰ろうっていうのが無茶」
 「だって、ちょうど安売りしているのが見えたから・・・・・高須賀さん、このお醤油が好きなんだけど、普段高いんだよ」
 「・・・・・」
(全く・・・・・食費なんて気にするなって何時も言っているのに)
 自分が居候だと思っている聖は、自分に掛ける金を出来るだけ最小限に抑えようとする。それは生活費にも通じていて、多
分今は自分達親子2人で暮らしていた時よりも三分の二くらいの金しか掛けていないだろう。
 それだけでも優秀な主婦の鑑だというのに、聖はもっと、もっとと自分を律しているらしいのだ。
(・・・・・今夜でも、もう一度父さんと話して聞かせるか)
とにかく、無茶だけはしないように、もっとゆとりを持って生活していいのだと言わなければならない。なにしろ聖はただの同居人で
はなく、自分達の大切な花嫁なのだ。
 「・・・・・」
 そこまで話を聞いた亘は、もうそろそろ姿を現していいだろうと思った・・・・・が。
 「とにかく、何かあったら何でも俺に言ってくれよ?高校からの外部入学組は少ないんだし、せっかく席も隣なんだしな。聖のこ
となら何でもしてやりたいんだ」
 「・・・・・」
(・・・・・何、それ)
女相手ならば、告白と言ってもいいような言葉。いや、聖のように可愛らしい容姿の少年にとっても十分に当てはまるような甘い
言葉に、亘は思わず歩き掛けた足を止めた。

 聖の通っている高校は、亘も通っていた私立の中高大エスカレーター式の私立の男子校だ。
設備も整っていて、自由な校風で、文武共に優れていると地域では有名で・・・・・それに比例するほど、入学金も寄付金もそ
れなりの金額で、聖は当初公立の高校に行くと言っていたのだが、父と自分が強引にそこに決めたのだ。
 特殊な生活環境と、聖の容姿から考えて、のんびりとした私立の方が安全だと思ったし、聖の学力も申し分は無かった。
毎日楽しそうに高校に通っている聖の様子を見ていて、亘も安心していたくらいだが、もしかしたら別の心配の種が育ってきてい
るのかもしれない。
それを確かめなければ安心出来ないので、亘は今日大学を休んで聖の高校へと偵察に向かうつもりだった。
(今は男も女も関係は無いからな)
 昔ほど、性に対してのモラルのハードルは高くない。
大人しく、可愛らしい聖を手に入れたいと思う者が現れても全然おかしくなく、もしもそういう輩がいるのならば、今の段階で手を
うっておかなければならないと思った。






 「いただきます」
 「うわ〜っ、今日の弁当も美味そうだな!」
 「これ、一つくれない?これと交換」
 「い、いいけど、あんまり美味しくないと思うよ?ここの食事の方が美味しいと思うけど・・・・・」
 「聖の味はホッとするんだよ。いただきっ」
 昼休みの食堂の一角。
さすが私立の学校なだけに設備も豪華で、味も美味しい。ただ、金額もそれに比例しているので、聖としてはとても手が出せな
かった。
 高須賀の許可を得て弁当を持参し、出来れば教室で静かに食べたいと思っていたが、新しく出来たばかりの友人達は聖を
強引に誘って食堂にやってくる。そして、聖の弁当のおかずと交換という名目で、自分達が余分に頼んだおかずやデザートを分
けてくれるのだ。
(私立だから、もっとお高くとまってると思ったけど・・・・・)
 幸いにも聖のクラスの人間は皆いい人だと思う。中には、わざわざ食堂に弁当持参でと陰口を叩く者もいるが、それは当たり
前だと聖自身が思っていることなので、それほど堪えることは無かった。
 「あ、下野(しもの)、これ、この間のお礼」
 聖が向かいに座っている友人に卵焼きを分けた。先日、醤油を持ってくれたささやかな礼だ。
 「なんだよ、健市(けんいち)、それどういうことだ?」
 「聖と何があったんだよっ?」
 「へへ、秘密」
 「おいっ」
 「あ、あのさ、下野がこの間重たい荷物を家まで運んでくれたんだよ、そのお礼」
抜け駆けしやがってと小声で言い合っているが、どうやら喧嘩では無いようだ。理由は分からないものの、自分のせいだと思うと
何だか申し訳ないので、聖はホッと安堵の息をついた。



 「・・・・・」
(予想通りというか・・・・・あんまり当たり過ぎて嫌だな)
 柱の影から食堂の中の様子を見ていた亘は、眉間の皺が取れないままに唸った。
卒業生、しかも、元生徒会長だという事実を最大限に利用して学校の敷地内に入った亘は、食堂で数人の友人達に囲まれ
ている聖を直ぐに見つけた。
 私立に通っているくらいなので皆それなりの家柄であろうし、体付きも高校1年生とは思えないくらい、いい。まだ子供っぽい聖
ならば簡単に押し倒すことが出来そうな・・・・・。
(・・・・・おいおい、冗談じゃない)
 「あ、高須賀先輩っ?」
 その時だった。
いきなり後ろから名前を呼ばれて振り向くと、そこには時々在籍していたクラブで指導をしている3年生の生徒が立っていた。
 「どうしたんですかっ?久し振りですね!」
 「あー、うん」
 「今日も部活に・・・・・って、まだ昼ですけど・・・・・」
 「わ、亘、さん?」
 「・・・・・」
(仕方ないな)
 ざわめいていた食堂の中とはいえ、驚きに満ちた後輩の声は大きく、その後輩を責めることも出来なくて、いきなりの自分の存
在に驚いたらしい聖に、亘は何時もの柔らかな笑みを向けた。



 「高須賀先輩っ?」
 「・・・・・え?」
 食堂の中に響いた声に、聖だけではなく周りにいた者達もいっせいにその方角を見て・・・・・聖はそこにいる亘の姿に思わず目
を見張ってしまった。
 「わ、亘、さん?」
(どうして・・・・・?)
 朝、何も言わなかったのに、どうしてここに亘がいるんだろうか?
まさか、自分のことで学校から呼び出しがあったのかもと一瞬思ってしまったが、それならば父親の方の高須賀にまず連絡がいく
はずだ。
 頭の中でグルグルと考え続けていた聖の側に、亘はゆっくりと歩み寄ってくる。
高身長に、高い腰の位置。あまやかな美貌に、洗練された歩き方。思わず皆が見惚れるのとは反対に、聖は不安で一杯の眼
差しを向けていた。
 「ごめんね、急に後輩に呼ばれて」
 「え?」
 「僕は後輩の部活指導で時々ここに来るんだよ。今日はその日程確認に現部長に呼ばれてね。ついでに昼休みだから、もし
かしたらここにきたら聖君に会えないかなと思って」
 「そ、そうだったんですか」
 亘がここの卒業生だということは聞いたし、時々部活を見に行っていることも確かに聞いたことがある。
(そっか・・・・・良かった)
亘がここにいることが偶然だったことに、聖は心底安堵した。



 素直な聖は自分の口から出まかせを疑うこともなく信じた。
(可愛いなあ、聖は)
聖に対した説明はこれでいいだろうと、亘はそこにいた数人の男達をじろっと見た。
 「聖君の友達?」
 「あ、はい」
 「同じクラスの・・・・・」
 それぞれが多少緊張した面持ちで自己紹介をし、最後に数日前見た少年・・・・・聖に向かって戯言を言っていた少年が自
分の名を言い、その後、訝しげに聞き返してきた。
 「あなたは?聖の兄さんですか?」
 「・・・・・」
(なかなか、気が強いようだな)
 この空気の中で堂々とそんな質問をしてくる下野に、亘は余裕の笑みを浮かべる。この狭い学校の中では、その気の強さも
自己主張と言う形で通るかもしれないが、既に大学生ながら社会人としても動いている自分から見ればまだまだ子供のような
ものだ。
 しかし、ここできちんと釘をさすことも悪くは無いかもしれないと亘が思った時、
 「聖は俺の大切な家族だよ」
 「・・・・・っ」
(肝心な時にっ。どうして美味しいところを取るんだろうね、この人はっ)
 振り向かなくても分かる。
しんと静まり返った中に不遜に響く声に、亘は苦々しい表情のまま振り返った。
 「仕事はどうしたの、父さん」



 どう考えても亘の様子がおかしい。そう思った高須賀はいったん会社へと車を向けたが、思い直して家まで引き返した。
我が息子ながら一筋縄ではいかない亘。既に事業も始めているだけあって世間慣れしているせいか、滅多なことでは感情的
に動くことも無いのだが、今回ばかりは高須賀の野生の勘が何かを教えてくれた。
 「・・・・・お」
 昼前まで粘っていると、ようやく家から出てきた亘はそのままバイクに乗って出掛ける。その後を追うと、どうしてだか聖の学校ま
でやってきて止まったのだ。
(どういうことだ?)
 わざわざ聖の顔を見にここまで来るとはとても考えられない。何か理由があるはずだと思ってそのまま後をつけて・・・・・そして、
食堂での一幕を見た。

(ガキ相手に威嚇してどうするんだ、亘)
 大人だと思っていた息子も、どうやら欲しい者を奪われないようにするには必死になるらしい。
いや、こんな、まだションベン臭いガキに聖を奪われる方がおかしくてたまらないが、子供の暴走というものも侮れないということも
分かる。
 聖の所有権を見せ付ける・・・・・普段、学校の中のことまでには目が行き届かないので、これはいい機会かもしれないと高須
賀も思った。
そして、聖に自分の存在感を植え付けるためにも、息子が切り出すのを邪魔したのだ。
(俺も結構ガキだよな)



 「聖は俺達の大事な家族だ、仲良くしてやってくれよ?」
 「・・・・・」
(そんな髭面オヤジがいきなり言っても、誰も頷くはずは無いと思うけどね)
 我が親ながら、とても大企業のトップとは思えない高須賀。悔しいが、これだけは敵わない年を重ねた大人の男の渋みを持っ
ている、顎髭を蓄え、がっしりとした体付きの、ちょい悪オヤジといった感じのこの男と、優等生で大人しくみえる聖が、どう見ても
家族とは思えないはずだ。
 「ひ、聖、家族って・・・・・知り合いの家に世話になってるって言ったよな?」
 下野が聖の腕を掴む。
それを見た亘は、さりげなく聖の身体を抱き寄せた。
 「本当のことだよ、まあ、義理の・・・・・って付くけど」
 「ほ、本当か?」
 「う、うん」
 自分に続いて現れた高須賀に、聖は今度こそパニックになっているらしい。
彼の性格からすれば、目立たずに学校生活を送ろうとしていたのだとは思うが、今だこの学校では顔を知られている自分と、こ
のいかにもなオヤジが背後にいるとなれば、簡単に聖をどうにかしようと思う者もいないだろう。
 亘が大人気ない父の顔を振り向くと、父はニヤッと笑い、聖の肩を抱き寄せた。柔らかそうな白い頬に髭面を寄せるのはやり
過ぎだとは思うが。
 「やあっと手に入れた大事な家族なんだ。・・・・・苛めたりするなよ?」
 「・・・・・っ」
 友人達は焦ったようにコクコクと頷いている。それを見た亘は、まだ信じられないというように聖と父を交互に見ている下野に向
かって言った。
 「そういうことだから、下野君、だっけ?聖君のことは心配しないように」
 「・・・・・」
 「ああ、学校の中だけは、頼むよ」
 にっこり笑ってそう言うと、下野は顔を紅潮させて俯いた。今の自分の言葉で、数日前の出来事を知られていると分かったのだ
ろう。
(なんだ、案外馬鹿じゃないみたいだな)






 食堂での騒ぎに気付いた教師が、校内に無断侵入(どうやら、亘もそうらしい)した高須賀親子に厳重注意をすると、そのま
ま裏門へと強制連行されてしまった。
 まさか知らん顔も出来ない聖はそのまま付いて行き、授業には遅れないようにという言葉に頷いて教師を見送った。
 「・・・・・」
その場に高須賀親子と自分だけになると、聖は心配だったことを口にしてみた。
 「あ、あの、俺のこと、心配したんですか?」
 「ん?」
 「お、俺、まだ名前も芳野のままだし、変なこと言ってないですよ?母の再婚だって、さっき知られちゃったくらいだし・・・・・っ」
 自分が高須賀の名前を利用して無茶をしていないか、それか、授業料を払うに見合う成績なのか、どちらにせよ心配で様子
を見に来たのなら、勉強だって一生懸命しているし、高須賀の名前は出していないと必死で訴えた。
 「・・・・・」
そんな聖の言葉を黙って聞いていた高須賀が、いきなり手を伸ばして身体を抱きしめてくる。
 「た・・・・・」
 「馬鹿が。お前は俺達の家族だって何度も言っているだろう」
 「・・・・・」
 「お前の母親と連絡が付かないままでまだ名前はそのままだが、本当なら今日からだって高須賀聖にしたいくらいなんだぜ」
 「高須賀さ・・・・・」
 「違うだろう?」
 真摯な言葉を言ってくれたと思ったら、もうからかうような笑みを浮かべている。それが、自分を気遣ってくれているからだと感じ
て、聖は泣きそうな顔で笑った。
 「は・・・・・い、あなた」
 「聖君、僕も忘れないでね?君のこと、大事なお嫁さんだと思っているのは僕も同じなんだから」
 「・・・・・それは、ちょっと違うと思うんですけど」
え〜っと口を尖らす亘の顔が妙に可愛くて、聖は今度は声を上げて笑ってしまった。







 「可愛かったなあ〜。学校だから我慢したけど、本当ならキスくらいしたかった」
 「お前、抜け駆けするなよ?一応、あいつの後見人は俺なんだからな」
 「・・・・・こういう時だけは、歳を食った父さんが羨ましいよ」
 高須賀親子は顔を見合わせる。容姿は正反対ながら性格は良く似た親子・・・・・これ以上不毛な言い合いをしても仕方な
いだろう。
 「あれで一応安心か?」
 「取りあえずはね」
 「・・・・・まあ、もう直ぐあの身体も手に入れるし、抱いたら男がいるって気付くだろ」
 「余計に張り切ることになるかもしれないけどね」
 「その時はその時だ。悪いが、まだまだガキには負けてないからな」
 「はいはい」
 父の言葉におざなりに頷いた亘はフルフェイスのメットを被った。
 「仕事行きなよ」
 「お前も大学に行け」
聖が家に帰ってくるまでまだ間がある。2人はそれぞれ自分のするべきことをさっさと片付けようと、別方向へと走って行った。



 「心配させちゃったんだろうな」
 教室に戻りながら聖は呟いた。普段学校での生活をあまり言わないので、2人は心配してしまったのだろう。
わざわざ、ここまで来てもらったことや、教師に怒鳴られてしまったことも申し訳なくて、聖はもっと2人と会話をしなくちゃなと改めて
考える。
 「・・・・・でも、家族だって」
 母がいない今、聖は高須賀家に世話になっている・・・・・そう思っていたが、高須賀達は、自分のことを家族と思ってくれている
のだ。
そう思うと何だか嬉しくて、聖の頬には自然に笑みが浮かんでしまった。

 まだまだ、お子様の聖。
家族という意味が親子、兄弟だけではなく、夫婦という関係にも通じていることを、そして、自分が花嫁だと言われ続けているこ
とも、今この瞬間、頭の中からはすっかり消え失せてしまっていた。





                                                                      end