伊崎&楓編
風呂から上がった日向楓(ひゅうが かえで)は、そのまま自室に戻ろうとして立ち止まり、その足を事務所のある離れ
へと向けた。
関東でも古い暴力団、『日向組』6代目組長、日向雅行(ひゅうが まさゆき)の弟である楓は、産まれた時から組員
達と接してきたせいか、世間では嫌われ、恐れられている組員達が大好きだったし、家族だとも思っている。
その中でも、自分が幼い時から守役として付いてくれ、今は若頭にまでなっている伊崎恭祐(いさき きょうすけ)とは、
組員達には秘密の恋人同士という関係だった。
歳が離れているからか、それとも立場上か、伊崎は甘い雰囲気を出さず、楓はそれを物足りないと思っている。
いくら人に知られてはいけない関係だとはいえ、恋人である自分に寂しい思いをさせていいとは思わない。
「・・・・・ったく、自覚しろよ」
(恭祐はそういう所鈍感だから)
最近は珍しくはないものの、伊崎は大学院にまで進学していたし、容姿もずば抜けていいし、性格だっていい。
そんな伊崎を慕う組員達も多いが・・・・・楓は、その中に伊崎に対して尊敬や憧れ以上の思いを抱く者もいるのではな
いかと思っていた。
この自分が惚れるくらいに伊崎はいい男なのだ。
だから、楓は出来るだけ伊崎から目を離さないようにしているのだが、そんな楓の心配を当の伊崎が分かっていないの
だ。
「鈍感な恋人を持つと大変だよ・・・・・」
「きょ〜すけ!」
事務所の中でまだ打ち合わせをしていた伊崎は、ドアを開けるなり自分の名前を言う楓の姿を見て眉を潜めた。
パジャマ姿だというのはいいとしても、その上に何もはおっていない。まだ夜は寒く、風邪を引いたらどうするのだと保護
者モードになってしまうと、伊崎は直ぐに立ち上がり、楓の手を引いて部屋の中へと招き入れた。
「どうして直ぐに部屋に戻られなかったんですか?」
眉を顰めながら、それでもその肩に自分のスーツの上着を掛けながら言うと、楓はだってと言い返してきた。
「寝る前にお前の顔を見たかったから」
「・・・・・楓さん」
「それに、みんなの顔も」
そう言いながらにっこりと笑った楓の顔を見て、若い組員達はたちまち顔を赤くした。
(全く・・・・・自覚せずにそんな顔をして)
楓は自分で自分の容姿を自覚していると言うが、伊崎からすればまだまだ甘いと思う。
幼い頃から天使のように愛らしかった楓は、今はそこに艶っぽさが加わり、匂うような美人になった。そんな楓を誇らしい
と思う一方で、伊崎の心配は日々増えてしまう。
楓が変な男に付きまとわれないか。
無理矢理変な行為をされないか。
自分以上に・・・・・好きな相手を作らないか。
それは、日向組という自分の組の中でも同様で、楓が産まれる前からいる古参の組員はともかく、まだ若く、決まった
恋人などがいない組員にとって、楓は手が届かない憧れの存在となっているはずだ。
ただ、楓は組員を家族同様に大切に思っているので、気軽に声を掛け、スキンシップするので、自覚しないまま虜にし
ている可能性は高かった。
24時間、楓を見ていることは出来ないので、自分が知らない間の楓の安全を出来るだけ確保したい。
そうまで思っているのに、当の楓は・・・・・。
「ぼ、坊ちゃん、何か飲まれますか?」
「何ある?」
「コーヒーなら今たてたばかりですっ」
「どうりでいい匂いがしてるんだ。じゃあ、入れて、砂糖は多めに」
楓が言うと、若い組員はハイッと緊張したように簡易キッチンへと向かう。きっとあの若い組員は、楓と会話をしたことが
嬉しくてたまらないのだろう。
「ふふ」
楓は袖が余っている自分の背広を見下ろし、なぜだか楽しそうに笑っている。その様子はどこか子供のようで、楓の別
の魅力を見せていた。
(こんなことしてくれるの、俺だけだよな)
楓は伊崎のコロンの香りがするスーツを着せてもらって、嬉しくてたまらなかった。
普段から自分に対して優しい伊崎だが、こんな風に着ているものを貸してくれるなどという行為はなかなか無い。そして、
多分伊崎がそれをするのは自分しかいないと思えた。
「今日は何かあった?」
「いいえ、平和でしたよ」
「最近は抗争もないしな〜」
「あったら大変でしょう?」
「確かにそうだけど・・・・・あんまり平和過ぎるとボケないか」
甘い雰囲気の伊崎もいいが、厳しく張りつめた彼もきっとカッコいいだろうなと、楓は想像してしまう。
「坊ちゃん、どうぞっ」
「あ、ありがと」
そこへコーヒーを差し出された楓は、キョロキョロと座る場所を探して・・・・・、
「楓さん?」
「いいじゃん」
傍に椅子があったものの、伊崎の膝の上に座ってやった。
風呂上がりの髪の、シャンプーの香りが鼻をくすぐる。これが2人きりの部屋だったらこのまま押し倒したい体勢だった
が、ここには自分達以外にも組員がいた。
組長である雅行にも、他の組員達には2人の関係を絶対に悟らせるなと言われていることもあり、伊崎は、何とか楓を
自分の膝の上からどかそうとした。
「楓さん、どいてください」
「やだ」
「子供みたいですよ」
「俺、子供だもん」
しかし、楓はそんな自分の気持ちを分かってくれず、ますます深く座りこんでくる。わざと・・・・・で無いだろうが、下半身
により密着されるような態度になってしまい、どうしようかとさすがに伊崎は困ってしまった。
(・・・・・ん?)
そして、気付けば周りにいた数人の組員達は、なぜか自分達から微妙に視線を逸らしている。まさか、親密な関係を
悟らせるような雰囲気を見せてしまっただろうか・・・・・。
「・・・・・っ、楓さんっ」
「ん?」
「ボタン、外れていますよ」
先程上着を掛けてやった時は気づかなかったが、今見ると、パジャマのボタンがしっかりはまっていなかったのか、胸元
がちらりと見えていた。
楓を膝に抱いている自分はほぼ真上から、向かいにいる組員達は横から・・・・・女のように乳房があるわけではないも
のの、チラチラと見える白い肌は目の毒過ぎる。
「全く・・・・・お前達、向こうを見てろ」
口調は文句を言うように、それでも手は焦って、伊崎は膝の上に座っている楓の向きをほとんど自分と向かい合う形に
した。
(色気作戦・・・・・失敗)
先程、周りの目を盗んでボタンを2つほどわざと外したが、どうやら伊崎はそれをだらしないと思っているようで、眉を顰め
ながら掛け直している。
もっと大きな反応を期待していた楓はつまらなくて、いきなり伊崎の両頬を両手でべしっと掴むと、
「・・・・・っ」
むちゅっと、強引にキスをしてやった。
「・・・・・楓さん」
さすがに驚いたように目を見張った伊崎に、楓はようやく満足してギュッと首に抱きついた。
楓は組員達に見られても全然構わないと思っていたが、どうやら運良く・・・・・いや、楓にとっては悪く、皆は視線を逸らし
ていたようだ。
残念と思いながら、それでもキスが出来ただけいいかと、楓は伊崎の耳元に唇を寄せて囁いた。
「なあ、部屋まで送ってくれるだろ?」
我が儘で悪戯好きの幼い恋人。
本当は今のような行為も危険だからと注意したいのだが、それが出来ないほどに・・・・・伊崎も同じ気持ちだった。
「ちゃんと眠って下さいよ」
「お前が寝かせろ」
自分の希望が叶うらしいと分かった楓は嬉しそうに笑っている。
伊崎はその笑顔に笑い返すと、まだ律儀に視線を逸らしている組員達を確認した後、今度は自分から唇を重ねた。
end