開成会会長、海藤貴士(かいどう たかし)の朝は意外に早い。

ヤクザの会派の会長とはいえ、正規の会社の経営者でもあるし、何より海藤には毎朝しなければならないことがあった。
それは。
 「・・・・・」
 まだネクタイはしていないまま、ワイシャツの袖を肘まで捲くり、その上から愛用のモスグリーンのエプロンを付けた海藤は、手馴
れた手つきで朝食を作っている。
朝から出汁をきちんと取ったアサリの味噌汁を作り。
炊き立ての新米と。
アジの干物と。
伯父の菱沼が送ってくれた何種類かの漬物を出して。
 「・・・・・」
最後に、真琴の好きな出汁巻き卵を作り終えた時、パタパタと慌てたようなスリッパの音が聞こえて、それまで無表情だった海藤
の頬に柔らかな笑みが浮かんだ。
 「ご、ごめんなさいっ、今日は俺ゆっくりだから手伝おうと思ってたのにっ」
 「おはよう、真琴」
 「あ、おはようございます」



 西原真琴(にしはら まこと)。
今年無事大学2年生に進級した彼は、海藤の大切な恋人だ。
 去年の春、本当に偶然で出会った。
切っ掛けは、その頃海藤が行きつけていた店の女のマンションにあったピザ屋のチラシを見て電話を掛けたことから始まった。
その頃の海藤は特別な誰かがいるわけではなく、その時々によって身体の欲求を満たす女を抱いていた。
ただ、その時の女はあまりにも自意識過剰で、夜の街の女ならば誰もが憧れる海藤に選ばれた(海藤としては一夜の相手のつ
もりだった)と有頂天になっていて、いい加減煩わしいと思っていたのだ。
 そんな時、退屈凌ぎで頼んだピザの配達人。
想像ではヤリタイ盛りの大学生の男・・・・・のはずだったが、現れたのは意外にも線の細い青年だった。

 飛び抜けて容姿が良いというわけではなかった。確かの男としては小奇麗な顔をしていたが、海藤の周りにはそれ以上の容姿
の者などはいて捨てるほどにいた。
ただ、目元のホクロが印象的で。
明らかに女が好きでしていたフェラチオを止めさせてやって欲しいと懇願してきた。
そんな事を言うその青年が珍しく、海藤は心の片隅にその印象を刻み付けていた。

 それだけで終わるはずだったあまりにも生きている場所が違う自分達を、再び交差させようと思ったのは海藤の方だった。
一度抱いた女の顔は覚えてもいないのに、あの時怯えながら自分の行動を諌めた青年の面影はなかなか消えなかった。
自分とはまるで正反対の位置にいるあの青年の姿を見つめていたい・・・・・そう思った時は、既に海藤はその青年、真琴に一目
惚れをしていたのかもしれない。
容姿というよりも、その真っ直ぐな心に自分の持つことが出来なかった何かを見つけて、相手を手に入れることで、海藤は自分も
それを、無償の情というものを手にしようとしたのかもしれなかった。
 思い掛けなく・・・・・いや、必然的に、真琴は海藤にとっていなくてはならない存在になった。
心も身体も受け入れてくれて、自分の全てを認めてくれる相手に出会えた幸せを、海藤はこんなにも早く気付くことが出来て良
かったと思っている。



 「いただきます」
 昼と仕事がある時の夜はままならないが、朝は出来るだけ2人向かい合って食事をすることにしていた。
愛する相手の為に料理の腕を振るうことは楽しかったし、自分が作ったものを真琴が言葉以上に美味しそうに食べてくれるのが
嬉しかった。
 真琴は必ずありがとうと海藤に感謝の言葉をくれるが、その言葉は海藤の方こそ真琴に対して言いたい言葉だった。
自分を受け入れてくれて、愛してくれて、ありがとうと。
 「今日はバイトだったな」
 「はい、海藤さんも遅いんですか?」
 「今日中には帰る」
 誰かと一緒に暮らす。同じ場所に帰る。
それは、去年までの海藤の頭の中には欠片もなかったことだが、それが日常となった今、海藤は幸せと言う言葉を日々実感す
ることとなっていた。






 「おはようございます」
 「おはよう」
 会社に来ると、直ぐに倉橋克己(くらはし かつみ)が今日の予定の確認と打ち合わせに訪れた。
ヤクザ家業が本職とはいえ、他に幾つもの企業の代表をしている海藤の日常はかなり忙しい。そのスケジュールを上手に捌いて
くれる倉橋の存在は今は欠かせないものだった。

 大学の2年先輩である倉橋との接点は、実はさほど・・・・・というか、ほとんどないと言っても良かった。
海藤はその頃は既に将来伯父が代表をしているヤクザの組を引き継ぐことを決意していたので、その為に必要な知識を詰め込
めるだけ詰め込んでいた。
 女達は海藤の背景の噂など気にせず、見掛けだけを見て騒いでいたが、もちろんそんな子供のような女達を相手にしなくても
手を伸ばせば極上の女が直ぐに捕まえることが出来た。

 そんな海藤が倉橋と会話をしたのはほんの数回。
ただ、雑談というには意味が重く、海藤自身自分とどこか似ている・・・・・他者に排他的な倉橋を、卒業しても直ぐに忘れるとい
うことは無かった。
 そして、卒業後の再会。
検事になっていた倉橋は、誰もがうらやむエリートの道を歩きながらも、大学時代と同じ様な虚無感に満ちた目をしていた。

 これは俺と同類。

エリート一家に育つ倉橋がヤクザの世界に飛び込んでくるかどうかは一種の賭けだったが、海藤は見事にその賭けに勝ち、倉橋
は今こうして自分の隣に立っている。
 あの頃は他人にも、そして自分自身にも執着が無かった倉橋にも変化があったようで、最近はかなり人間的な面を見せるよう
になってきた。
自分が変わったように、もう1人の自分である倉橋も変わってくれたら・・・・・海藤はその変化を黙って見守るつもりだった。





 この日は、母体組織である大東組の関東本部に出向かねばならない会合があった。
系列の中ではかなり若い部類に入る海藤だが、そのやり手振りには一目も二目もおかれている立場で、発言権は無いはずな
のにその意向を尊重されるという不思議な立場だった。
 前開成会会長であった伯父の菱沼の影響力はもちろんあるだろうが、今の時代経済面に強くなければこの世界で生きていく
のも難しく、海藤はその指針の一つになっていた。
 「よお、海藤」
 「珍しいですね、上杉会長」
 どこか遠巻きに見られがちな、近寄りがたい雰囲気があるらしい海藤に、気楽に声を掛けてきたのは羽生会会長の上杉滋郎
(うえすぎ じろう)だ。
海藤と同じ経済ヤクザと言われる上杉だが、その性格は表面上は海藤とは真逆だといってもいい。
だが、根本にあるものは似通っていて、海藤は上杉を嫌うことは無く、上杉も海藤をからかいながら構っていた。
 「この間はうちのタロがお前んとこに世話になったらしいな」
 「いえ、真琴も楽しんだようなので」
 「全く、子犬と子ウサギが2匹だけで遊びに行ってどうするんだよ、なあ」
 「日向組の彼も一緒だったようですよ」
 「・・・・・ありゃ、子虎だ。見掛けに騙される奴の気が知れん」
その言葉は妙に真実を突いている様な気がして、海藤は思わず笑みを浮かべてしまった。

 海藤が上杉に親しみを感じているのは仕事面だけではなく、その恋人も関係があった。
真琴と、上杉の恋人である苑江太朗(そのえ たろう)、そして、日向組の次男坊である日向楓(ひゅうが かえで)。
この3人は学年が違うものの親友といえる間柄で、知り合った切っ掛けはそれぞれの恋人を介してだったのが、今では勝手に遊
んでいる仲だ。
 そこには最近新しい仲間も加わったようだが、真琴の存在で、海藤の世界はどんどん広がっていくのが分かる。
見つめる方向は同じだと分かっていたが、それほどに近付かなかった上杉とも今は笑って雑談が出来るようにもなった。
 「面白い場所見つけたんだ、今度遊びに行くか?」
 「2人でですか?」
 「お前と2人で行っても色気ねえだろ。ワンコとウサと、ついでにトラも連れて行ってやるか」
 「喜ぶと思いますよ」
海藤は笑みを浮かべて答える。
この場所でこうして笑える自分が不思議で、少し気恥ずかしかった。





 「ご報告で〜す!!」
 既に午後9時を過ぎた頃、社長室に軽やかな声を掛けて入ってきた人物がいた。
倉橋と並ぶ海藤のもう1人の側近、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)だ。
古めかしい名前から連想するイメージとは正反対の、まるでモデルのように華やかな美貌の主は、これでもかなりやり手の男だっ
た。
 海藤が初めて綾辻と会ったのは、伯父の菱沼の紹介だった。
自分よりも年上の、少し軽めの暢気な男・・・・・一見してとてもヤクザと結びつくような男ではなかったが、見た目とは裏腹に彼が
とてつもない大きなものを背負っているということを、海藤はしばらくして伯父から聞くことになった。
政財界だけではなく、裏の世界とも繋がりがあると言われている名門、東條院家。その先々代の落とし胤である綾辻は、とても
そんな背景があるとは思えないほどの前向きな人間で、海藤はその人間性に興味を抱いた。
 自分とは違って様々な人力を持つ綾辻は直ぐに欠かせない人間になったが、今の彼をここに縛り付けていられるのは自分の
力ではないことも海藤は知っている。
それは。
 「失礼します」
 ノックをして中に入ってきた倉橋が、綾辻の姿を見るなる眉を潜めた。
 「綾辻、今までどこでサボっていたんですか」
 「や〜ね〜、浮気はしてないわよ〜」
冷静に注意する倉橋と、嬉しそうに謝る綾辻。
2人の関係が実際のところどういう形で収まったのか、海藤は正確には報告を受けていない。
それでも、それぞれ別の意味で張り詰めていた2人の気配が、柔らかくなったのは肌で感じていた。
大人同士の関係に口を挟むことは無いが、それでもこの3人でこのまま歩いて行けたらと海藤は思っていた。





 午前0時前ー
 「お帰りなさい!」
 「ただいま」
玄関の鍵を自ら開けて中に入った海藤は、直ぐに真琴の明るい声に出迎えられた。
疲れているつもりは無かったが、こうして真琴の笑顔を見るとほっと肩の力が抜けるような気がする。
 「お疲れ様でした」
 「お前も、お疲れ様」
 「おなか空いていませんか?俺、梅茶漬け作りますけど」
 最近凝っているらしいお茶漬けを、海藤にも食べて欲しいと言葉ではなく目で訴えているような気がして、海藤はふっと頬に笑
みを浮かべた。
 「じゃあ、ご馳走になろうか」
 「直ぐ準備しますから、着替えてきてくださいね!」
 「分かった」
パタパタと真琴がキッチンに向かう後ろ姿を見送ってから、海藤は部屋着に着替えようとして・・・・・足を止めた。
 「・・・・・」
 去年の春までは、こんな風に決まった場所に帰る事は無かった海藤。
警備の関係もあるが、都内の幾つかのマンションを定期的に回っていたが、その時はどんなにいい部屋でも借り物のような冷た
い印象があった。
だが、今このマンションは既に海藤にとっては家になっている。温かく、居心地のいい、自分の家。
もちろん、それは真琴の存在があるからだ。
 「ただいま・・・・・か」
 人の存在が心地いいと、愛する者が出来て初めて気付く。
それが日常になるのは、本当に奇跡だろう。
 「・・・・・」
海藤は消えることの無い笑みを浮かべたまま寝室に入る。
これが、今の海藤の大切な・・・・・非日常的日常だった。





                                                                    end






今お休み中の海藤&真琴の話。こちらも読みたい話でリクエスト頂いた物です。
海藤さんのある一日を垣間見てください。