閑話  〜新しい挑戦〜










龍巳の守るもの






 「おはようございます」
 自室で着替え、顔を洗った龍巳は茶の間に来て祖父の東翔に挨拶をした。
 「おはよう。碧香はどうした?」
 「今支度をしているよ」
そう答えた龍巳は、そのまま朝食の支度をする祖父を手伝った。

 龍巳が元の世界に戻ってきたのは三日前だ。
竜人界にいく時に飛び込んだあの滝壺に再び出ることが出来た時、目の前には祖父と父の東邑が待ってくれていた。
碧香の前だというのに龍巳は涙が流れてくるのを止めることが出来ず、祖父や父もしっかりと身体を抱きしめてその帰還を喜
んでくれた。
 実際に龍巳が竜人界にいたのは数週間ほどだったらしく、周りの環境は全く変わっていなかった。
母などは龍巳が不在にしていたことさえ分からないように、ごく普通にお帰りと言ってくれたほどだ。
 そして、昂也が旅立ったことも知った。龍巳が戻ってくる前日の話だった。

 「おはようございます」
 「おはよう、碧香」
 自分に対するよりも優しい声になる祖父に内心笑い、龍巳は三人分の食事を用意する。
離れの祖父の家は少し便利が悪かったが、母屋よりは自由に動けるので龍巳はここで暮らすことにした。普通の人間とは違
う雰囲気の碧香のことも考えてのことだった。
 「おはようございます、東苑」
 「おはよう」
 自分のシャツとジーパンを着て、美しい銀髪を一つに縛った碧香の姿に龍巳は笑った。
 「東苑?」
 「いや、案外似合うなって思って」
 「え?」
 「・・・・・少し大きいよな。今日は学校も休みだし、服を買いに行こうか」
碧香をつれて、彼に似合う服を買う。竜人界で見慣れた神秘的な彼の服装もよく似合っていたが、これからはこの世界で暮ら
すためには、こちらの世界にとけ込んでもらわなければならない。
 「そうしよう」
 「・・・・・はい」
 まだ、竜人界を出て三日。碧香にとってもまだまだ不安の方が大きいだろうに、碧香は笑いながら頷く。
そんな碧香に龍巳もしっかりと頷き返した。




 「動いても動かなくても後悔するなら、俺は動こうって思ったんだ・・・・・じいちゃん」
 「俺、竜人界に行く。みんなと一緒に、あの国をつくっていく手伝いをする」

 龍巳は祖父から昂也の決心を聞いた時、溢れる涙を止めることが出来なかった。
どんなに不安だったか、迷ったか。昂也がたった1人で決意したことがあまりにも大きくて、龍巳は血が滲むほどに拳を握り締め
た。
 もしも、自分が昂也の立場だったらどうしただろうか。自分が生きてきた全てを捨てて、言葉も満足に通じない世界へ行こうと
しただろうか。
 自分と昂也はまるっきり違う人間で、その考え方だって違う。
それでも、龍巳は昂也という人間の大きさに、彼と友人であったことが本当に誇らしいと思った。

 「じゃあ、少し鍛錬してくる」
 「私も一緒に・・・・・」
 「碧香はじい様の相手をしていて」
 龍巳はそう言い残して、1人裏山の滝壺に向かう。
元の生活に戻ったとはいえ、龍巳は自分が持っている気を鍛えることを止めるつもりはなかった。
(碧香を守るって約束したんだ・・・・・っ)
 今は何事も無く平和でも、竜人界の王子である碧香の身に何があってもいけない。そのためにも、せっかく持っていると分かっ
た力を錆つかないように鍛えるのに躊躇いは無かった。
 「・・・・・」
 滝壺の前に立つと、龍巳は目を閉じた。
こうしていると、聞こえないはずの声が耳に聞こえてくる気がする。
(昂也・・・・・)
 今、昂也はどこにいるのだろうか。
自分達がこっちの世界に戻ってくる前に旅立ったというが、昂也の姿を確かめることは出来なかった。
碧香はこの滝壺が竜人界にだけ繋がっているのかどうかは分からないと言っていたし、もしかしたら全く別の世界に飛ばされてし
まった可能性もある。
 今ここにいる龍巳には何も出来ないのがもどかしいが、きっとあの竜人界に行くことが出来るようにと願い、龍巳は大きく息をつ
いて目を開けた。
 「・・・・・俺、頑張るからな」
(何時お前に会っても、ちゃんと胸を張れるように)
 「・・・・・」
 龍巳は左手を、ようやく明るくなりかけた空に向かって翳す。
 「・・・・・っ」
淡く赤い光が集まり始め、龍巳はそれを自在に扱えるようにと意識を集中させた。

 小一時間ほどして、龍巳はようやくはあと深い溜め息をついた。
さっき碧香と約束したように、今から出掛ける用意をしなければならない。
 「・・・・・碧香?」
 滝壺を離れて祖父の離れへと歩いて行くと、途中で碧香の姿を見かけた。
 「終わりましたか?」
 「・・・・・」
そう言う碧香をじっと見ていた龍巳は、その手を取った。涼しい山の中の朝の空気はまだ冷たいし、そうでなくても碧香達竜人の
体温はとても低い。
 「何時から待っていた?」
 「・・・・・」
 確信を持って聞けば、碧香は困ったように視線を逸らしてしまった。
 「怒らないから言ってみて」
 「・・・・・」
 「碧香」
 「・・・・・東苑がおじい様の家を出て行って、直ぐに」
 「始めから?」
さすがに驚いて声を上げると、碧香は直ぐにごめんなさいと謝って来る。別に怒っているのではなく、碧香の身体が心配なだけな
のだが、自分はそんなに怖い顔をしているのだろうか。
(じい様も止めてくれたら良かったのに)
それでも多分、碧香はここに来ただろうが。
 「・・・・・行こう」
 龍巳は碧香の手を握った。
 「東苑・・・・・」
 「出掛けるって約束しただろう」
碧香の性格は、直ぐには変わらない。
王子として育ってきた彼にはそれに見合うプライドと同時に、わが身を犠牲にしても誰かを守るという献身的な思いもあるだろう。
 そんな碧香を変え、守るのは自分だ。
そう心の中で強く思いながら、龍巳は碧香の歩調に合わせてゆっくりと歩き続けた。





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碧香の望むもの





 「そんなに気を遣わなくてもいいぞ、碧香」
 「いいえ、おじい様、これくらいさせて下さい」
 碧香は洗濯を干しながらそう答えた。
人間界に来てしばらくは、碧香は覚悟をしてきたというのに何時も胸が詰まる思いがした。兄は自分を快く送り出してくれたが、
自分があの世界を捨ててしまったことは事実だ。
 それでも、龍巳と離れるという選択は出来なかった。初めて自分のことを竜人界の王子ではなく、1人の碧香として見て、想
いを向けてくれた龍巳に惹かれる心を止めることは・・・・・出来ない。

 前回は再び竜人界に戻ることが限定で、持ち去られた紅玉を探すことで頭が一杯だった。
しかし、これからはずっと龍巳の傍で生きて行くことになるのだ。少しでも人間界に慣れなければと、以前はほとんどしなかった
東苑や東翔の手伝いを始めた。
 「・・・・・これは、どういう箱でしょうか?」
 「これは服を洗ってくれる機械だ」
 「・・・・・キカイ?」
 「ああ、そこから教えないといけないか」
 この世界は分からないことばかりだ。
王子とあがめられていた自分がどれほど無知なのかを思い知り、碧香は毎日情けなさに泣きたい気持ちを味わった。
 それでも、逃げ出すわけにはいかない。龍巳も、東翔も、碧香のために様々動いてくれているのだ。




 「ガッコウ、ですか?」
 「ああ」
 その日、東翔に呼ばれた碧香が茶の間に向かうと、そこには東苑の父もいた。
その東邑が龍巳と一緒に学校に通わないかと切り出したのだ。
 「で、ですが・・・・・」
 龍巳が毎日通っている所が、様々な学問を学ぶ所だということは知っている。しかし、そこに自分も行くということまでは考え
たことはなかった。
 「私はこの世界のことを全く知りませんし・・・・・」
 「だから、勉強するんだ」
 「・・・・・」
 「怖いかい?」
 もちろん、怖い。周りは知らない人間ばかりで、あまりにも無知な自分に対してどんなふうな目を向けるのか。
しかし、
 「・・・・・いいかもしれない」
 「東苑」
碧香の戸惑いを一番分かってくれているはずの龍巳が2人の話に同意してしまった。どうしてという戸惑った眼差しを向けると、
龍巳は考えてみてと話を続ける。
 「これから先、碧香はずっとこの世界に住むんだ。色んな知識があった方がいいんじゃないか?」
 「・・・・・」
 「それに、同じ年頃の仲間が出来るのはいいことだと思うよ」
 歳は、碧香の方が今3歳年上だ。もう少ししたら龍巳の誕生日が来てもう1つ歳を取るということだが、その年の差を碧香は
少し気にしていた。
龍巳と同じ場所に行けば、龍巳と同じ年頃の人間がたくさんいるのだろう。そんな中に自分が入ればきっと違和感があるに違
いない。
(私が東苑と合わないことを見せ付けられてしまったら・・・・・)
 「碧香」
 「・・・・・」
 龍巳の声にも碧香は顔を上げられない。
それでも龍巳は話し掛けてきた。
 「一緒に行こう、碧香」
 「・・・・・」
 どうして龍巳はそんな風に自分を追い詰めるのだろう。碧香にとっては龍巳と、その家族が周りにいるだけで十分幸せなのに。
 「きっと、碧香にとっても新しい世界が広がると思うよ」
 「・・・・・新しい、世界・・・・・」
 「王子だった頃に出来なかったこと、全部してみたいって思わないか?もちろん、俺も手伝うから」
 「東苑・・・・・」
新しい世界は怖い。怖くてたまらないが、そこに龍巳がいるのなら。
何のためにこの人間界にやってきたのか、碧香はもう一度考えなければならないかもしれなかった。




 鏡の前で、碧香は何度も自分の恰好を見た。
龍巳と同じセイフクというものに袖を通したが、どうしても龍巳のように着こなすことが出来ない。何だか随分幼くなってしまったよ
うで碧香は心細くなり、後ろにいる龍巳に鏡越しに問い掛けた。
 「東苑・・・・・おかしくないですか?」
 「よく似合ってるっていうか・・・・・可愛い」
碧香の一つに結んだ髪を弄びながら龍巳は言う。
 「・・・・・複雑です」
 龍巳にそう思われるのは嬉しいものの、どう反応していいのか分からない。
 「碧香」
龍巳が後ろから肩を抱きしめてきた。そして、鏡の碧香に向かって笑い掛けてくれる。
 「大丈夫、俺がいるから」
 「・・・・・はい」
 どういう方法を取ったのかは分からないが、碧香は海外からの留学生として龍巳の学校に通うことになった。学年もクラスも、
龍巳と同じだということで、碧香はそれだけでも心強い。
 学校に行くということになってから昨日まで、碧香は出来る限りの常識的なことは龍巳や東翔達から聞いて学んだが、当日に
なって再び不安が湧き上がってきた。
 自分はちゃんと、人間らしく行動が出来るだろうか。
龍巳の迷惑になるようなことはないか。
 「・・・・・碧香」
 一度目を閉じた碧香は、ゆっくりと目を開けて振り返った。
 「・・・・・行きましょう」
 「大丈夫?」
 「はい」
恐怖は完全に拭えない。それでも、一歩進まなければ。
(私は変わるために・・・・・この世界にきたんだ・・・・・)
 龍巳と共に歩いて行くために、自分も少しずつ変わっていく。その自分の姿を、何時か兄に見せることが出来たらいいと思う。
その後ろには必ず龍巳がいてくれる・・・・・そう信じることが出来た碧香は、もう後ろを振り向くことはしなかった。





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