決して運動神経が鈍いとは思っていないが、こんなふうに決められた何かをこなすのはどこか苦手だ。
克彦は予想通りの50メートル走のタイムに、ホッと溜め息をついた。
 「意外と早いな」
 椎名の前に走っていた小林が、笑いながら歩み寄ってくる。
少し後ろを女子生徒達が付いて来るのがまるでカルガモの親子のように思え、克彦は自分のその想像に思わずプッと吹
き出してしまった。
 「椎名?」
 「ああ、ごめん。あ、茅野達は?」
 「茅野はちょっと休憩だって言って向こうに行ったよ。新田はほら、あっちで先生に抗議してる」
(ギャラリーがくっついていたのは、茅野がいなかったせいか)
 たった数日の学園生活で、クラスメイト達は茅野の強烈なキャラクターを既に認識していた。
昼休みにも関わらず小林に纏わり付いていた女子生徒達を、口撃で一瞬の内に蹴散らしたのだ。

 「休み時間までお前らの機嫌とってらんねーんだよっ。小林の為にって言うんなら、その耳栓付けなきゃいらんねー位煩
い声を一瞬でも止めてみるんだな!」

 身体に対する暴力などよりも、茅野の一喝はズシンと心臓に響くらしい。
それ以来、小林が茅野といる時は、誰1人として近付かなくなった。
(ま、その方が静かでいいけど)
 確かに小林はある種スターのような存在で、女子生徒達が騒ぎたくなるのは分かる。
しかし、それも度を越してくると迷惑で、茅野の言葉に反論しなかった小林自身も同感だったのだろう。
違った意味でアイドルのように愛でられている新田も、まるで避難場所であるかのように頻繁に茅野といるくらいだ。
 「俺もだけど」
 「え?」
 「いや。でも、茅野早いよ。スポーツやってたんだ?」
 「・・・・・ん、まあね。今はしてないけど」
 その言葉の濁し方が妙に気になったが、掘り下げて聞き返すほどまだ親しいとは言い切れない。
克彦は、新田もそうだろうが、茅野と小林のいる空気の中に、早く溶け込みたいと思っている。それはこんな時にも強く思っ
た。
 「でもさ〜、椎名って、あれだよな、意外に毒舌家?」
 「え?」
 「茅野に負けてないよ。いや、茅野は一瞬で燃やす炎みたいなものだけど、椎名のは凍えるほど冷たい氷?みたいな感
じ。見掛けじゃちょっと、分からなかった」
 「そう?」
(あれは、あんまり茅野のことを悪く言うから、ちょっとだけムカついたんだよね)
 クラスどころか、学年、学校中の女生徒の関心を一心に集める小林や新田を悪く言う者は少なからずおり、表面だって
非難すれば女子生徒の非難を浴びてしまうと思ったのか、その悪意は2人に共通する人物、広海に向かった。
毒の無い椎名よりも、目立つ茅野に矛先を向けた方がいいと思ったのかどうかは知らないが、擦れ違う廊下や食堂など
で、茅野に対していわれの無い中傷が浴びせられた。
 我慢出来なくなったのは、茅野よりも椎名が先だった。

 「モテないあなた方の欲求不満解消に、茅野を使わないでくれませんか」

 けっして喚いたわけでも恫喝したわけでもなく、椎名の口調は淡々としたものだったが、静かな怒りを湛えた切れ長の
視線の威力は思ったよりもあったらしく、それ以降は表立った問題は起きていない。
 「椎名、カッコよかった」
 「別に。俺は茅野の方が大切だから」
 「・・・・・」
 「おかしい?知り合ったばかりなのにって」
 「・・・・・いや、椎名と知り合えて良かったなあって思った。茅野もきっとそう思ってるよ」
 「そうだといいな。俺も、茅野や小林と出会えて良かったって思うから」
 誰かを大切に思うのは、時間など関係ないことを茅野と出会って初めて気が付いた。
椎名は豊かになっていく自分の感情を冷静に見つめながら、この先どんなふうに自分が変わっていくのかと、どこか楽しみに
している自分に気付いていた。