焦がれる想いに縋る時
その日、午後5時を過ぎた頃、倉橋は海藤に言われた。
「今日はもういいぞ」
「え?」
普段なら9時10時は当たり前なので、倉橋は内心訝しげに眉を顰めた。
(私の把握していない予定でも入っていたか・・・・・?)
しかし、海藤のスケジュール調整は全て倉橋を通しているので、その自分が知らない予定などあるはずがない。
そんな思いが表情で読み取れたのか、海藤は少しだけ笑んで続けた。
「今日のこの後のお前のスケジュールは押さえられてるんだ」
「私の?」
「そーよ。この後の克己の時間は私のもの♪」
「・・・・・綾辻?」
ノックと同時に部屋の中に入ってきた綾辻に、倉橋は更に困惑してしまった。
元検事という異例の過去を持つ、開成会幹部倉橋克己(くらはし かつみ)。
彼の1日は全て自分の会派の会長である海藤貴士(かいどう たかし)の為にあり、個人の時間などほとんど皆無だといっても良
かった。
それは海藤がそれだけ倉橋を拘束しているというよりも、倉橋自身に海藤以外の趣味(変な言い方だが)、関心を持つものはな
いからだ。
ただ、そんな倉橋のペースを乱れさせる奇特な(倉橋からすれば)相手が1人いて、彼は時折倉橋を夜の街や昼の美味しい店
などに連れ出した。
どんなに反応が薄くても、僅かに浮かべた笑みが綺麗だと褒める。
始めは胡散臭く感じ、あっさり断わっていた倉橋も、やがてその情熱に負け、気が付けは人間嫌いの自分の中に入り込める極
限られた人間の1人となっていた。
その相手の名前は、同じく開成会幹部、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)。
古めかしい名前に似合わないスタイリッシュでオシャレな男は、わざわざ自分などに構わなくても常に周りに人が寄ってくるような、
海藤とは別方向のカリスマ性を持っていた。
なぜか倉橋を気に入ったらしい綾辻とは色々あって・・・・・今ではキスもする仲だ。
最後まではしていないが、セックスまがいのこともしたことがある。
しかし、恋人とも、情人とも、違う。
あくまで綾辻は倉橋にとっては海藤を一緒に支える相手でしかない・・・・・ないのだ。
倉橋は怒ったようにエレベーターに乗り込んだ。
「勝手に私のスケジュールを決めないで下さい。社長がまだ残られているのに、私達が先に帰るなんて・・・・・っ」
「まあいいじゃない。今日は特別だし」
「・・・・・何があるんですか」
「なに、克己まだ気が付かないの?」
「え?」
動き始めたエレベーターの中、ずっと笑い続ける綾辻に倉橋の機嫌はますます急降下になっていった。
「・・・・・何笑ってるんですか」
「おめでとう」
「え?」
「5月20日。今日は克己の誕生日でしょう?」
「・・・・・え?」
思い掛けないことを言われ、倉橋は一瞬無防備に綾辻を見つめてしまう。
(誕生日・・・・・?)
幼い頃には祝ってもらったこともあったが、中学に上がった頃からその日は特に特別な意味を持つ日ではなくなった。
たった1日を挟んで、書類上の年齢が上がるくらい、あまり意味のないものだと思っていたのだ。
「・・・・・で、でも、今までは・・・・・」
開成会に入って数年、それまでも毎年当然誕生日を迎えたが、こうやって綾辻が改めて祝福の言葉を言ってくれることなどな
かった。
「去年までと今年とは違うでしょう?」
「・・・・・」
「お祝いさせて、ね?」
真っ直ぐ視線を合わせながら、綾辻はお願いという言葉で倉橋を追い詰めてくる。
倉橋はほとんど変わらない高さのその目線から、逃れることが・・・・・出来なかった。
酒が飲めない倉橋を思ってくれてか、綾辻は酒を飲ますところではなく静かなレストランバーに連れてきてくれた。
元々小食な倉橋用に特別オーダーをしてくれていたのか、色んな種類の料理を少しずつ味わえるようにしてくれている。
「どう?」
「・・・・・美味しいです」
「良かった。克己辛い物駄目でしょう?全体的に香辛料は抑え気味にしてもらってるから」
「・・・・・」
(この人はどうして私に構うんだ・・・・・)
欲しいとは・・・・・言われた。
熱いキスをされ、身体に触れられながら、求められたことを忘れてはいない。
だが、自分に価値があるとは思わない倉橋は、今だ綾辻の心を信じきれないでいる。
求められている自分が信じられないのだ。
「ねえ、克己」
「・・・・・」
「新しい1年を迎えたばかりの克己を私に頂戴」
「・・・・・え?」
(どういう意味だ?)
「綾辻さん、あの・・・・・」
「克己の誕生日のお祝いに、克己の身体が欲しいのよ」
「・・・・・」
呆れてしまった。
綾辻の誕生日だったとしたら、プレゼント代わりに自分が欲しいと言われるのは理屈では分かる。
それが、自分の誕生日にどうして綾辻にこの身体をやらなければならないのか?
「綾辻さん、私は・・・・・」
「ん?いい?」
「どうしてですか?」
「え?」
「私の誕生日でしょう?どうして綾辻さんが・・・・・」
途惑う倉橋の表情が面白いのか、綾辻はふっと笑む。
その笑みはとても穏やかで優しくて・・・・・思わず見惚れてしまった倉橋は、不意に伸ばされてきた綾辻の指に、掛けていた眼鏡
を取られてしまった。
「ちょ・・・・・っ」
「また1年、俺がお前のものになるから」
「・・・・・!」
「俺が持ってるもの全部、もちろんこの身体も含めて、全部お前のものだから」
「・・・・・」
「その契約に、少しだけお前を味わいたい」
「・・・・・」
「怖がるな、克己。お前が気持ちいいことしかしないから」
「・・・・・」
(馬鹿な人だ・・・・・)
自分のような何も価値がない人間に自分の全てを与えるなどと、誰が聞いても馬鹿だとしか思えないだろう。
それでも、倉橋の頬に浮かぶのは小さな笑みだ。
(馬鹿で馬鹿で・・・・・)
胸の中が切なくて苦しい。
それでも・・・・・倉橋は何時もと同じ様な硬い口調で言った。
「まさか、スイートルームをとったなんて贅沢なことは言わないでしょうね」
「ダメ?」
倉橋が何を言いたいのか分かっているように、綾辻は楽しそうに聞き返してくる。
「駄目に決まってるでしょう。普通のビジネスホテルで十分です」
「直ぐに取りなおす。ツインでいいか?」
「・・・・・私達の体格じゃ、シングルは狭いです」
倉橋はそう言って席を立ったが、綾辻が来てくれるのを立ち止まって待つ。
今までの誕生日とは明らかに違う自分の気持ち。きっとこの先、綾辻はこんな気持ちを倉橋に与え続けてくれるだろう。
ただ甘いだけの恋人とはいえない不思議な関係・・・・・今は倉橋もこれで十分だ。
いずれ愛していると言えるかもしれないが、とりあえず今言えることは・・・・・。
「日付が変わったら来年に持ち越しですよ」
綾辻が笑いを堪えながら立ち上がる。
それを確認して、倉橋は手を差し出した。
「・・・・・眼鏡が無いと歩けないんです。手を引いてください」
「了解」
見掛けによらず大きく男らしい手が倉橋の手を握った。
甘く苦しい誕生日の夜はまだ・・・・・終わらない。
end
倉橋さんのお誕生日編です。
またいいところで終わってしまいましたか(笑)。
この続きは甘露編で。