黒蓉の憂鬱






                                                             
※ここでの『』の言葉は日本語です







 「うわあ!これ、たぺる、いいっ?」
 「・・・・・」
 普段は静まり返った、どちらかといえば厳かと言ってもいい雰囲気の王宮内が途端に騒がしくなっている。
黒蓉はその声の主の顔を思い浮かべて苦々しく口元を歪めた。
(何時まであの人間を宮内で自由に動かしておるのだ)





 敬愛する・・・・・いや、もう妄信しているといってもいい紅蓮が、先王亡き後の竜王になることは黒蓉の中では既に決定事項に
なっていた。
しかし、竜王の証である翡翠の玉がなかなか輝かず、焦れたような思いで1年という長い時間を過ごした。
 そして、ようやく、紅蓮が王の間に入った時に光り輝いた翡翠の玉。本来ならその瞬間から紅蓮は竜王として君臨してもいい
はずだったのだが・・・・・。
即位の儀式を行う前に、何者かに翡翠の玉は奪われ、それは力の象徴でもある紅玉と、精神の象徴でもある蒼玉に分かたれ
て、それぞれが竜人界と人間界へと隠されてしまった。

 竜人界の蒼玉はまだしも、人間界に隠された紅玉はどうやって探すのか。
紅蓮から翡翠の玉の盗難を聞かされた側近達が考える前に、紅蓮の弟である第二王子の碧香が、自ら危険を犯して人間界
へと向かって行った。
 様々な悪が無数にいる、竜人界とは真逆の負の世界であるはずの人間界。
そんな場所にあれほど優しく純粋な碧香が行って、本当に大丈夫なのだろうか。そうは思っても黒蓉達には何も出来ないと思っ
ていた時、碧香と入れ替わるように人間がやってきた。



(碧香様には遠く及ばないにしても、もう少し大人しい性格であれば良かったものを・・・・・)
 やってきた人間・・・・・コーヤは、碧香とは正反対のような気の持ち主だった。
いや、碧香だけではなく、竜人界にはなかなかいない、煩く、がさつで、眩しいほどの生の気を持っている子供だった。
そんな竜人界では異質な存在である人間など、黒蓉にとってはどうでも良い存在であったが、このコーヤは碧香の存在と対峙
しているので見殺しにすることも出来なかった。
 それならば、地下の神殿にでも閉じ込め、死なない程度の世話をしていればいいと思うのだが・・・・・何を乱心したのか紅蓮
はこの人間を抱いてしまい、その上宮内を自由に動き回ることを許した。
人間の毒というものが大切な主君である紅蓮にまで悪影響を及ぼしたのかと、黒蓉の中でコーヤの存在はますます悪い位置と
なっていった。





 「煩いぞ、何をしている」
 無視をすればいいのだが、どうしても気になってしまった黒蓉は声のする方へと足を向けた。
そこには声の主のコーヤと、コーヤの世話係で四天王といわれる紅蓮の側近の1人、神官長の紫苑、そして紫苑の部下である
神官達が数人、それぞれ手に果物や食料を持って立っていた。
 「黒蓉様っ」
 神官達は黒蓉の姿を見て慌ててその場に跪くが、コーヤは少しだけ眉を潜めて自分を見ている。
なんだか邪魔だと言われているような気がして、黒蓉もますます声を落として言った。
 「何をしていた」
 「黒蓉殿、これはコーヤが何を食べられるのかを聞いていたのです」
 「・・・・・」
 穏やかな声で割り込んできた紫苑は、まるで黒蓉の視線からコーヤを隠すようにそっと前に立ちふさがった。
いくらこの人間の世話係に指名されたとはいえ、この短期間にかなりコーヤと打ち解けたふうな紫苑。それだけ人間の毒に犯され
ているのかと思うと腹立たしくも思うが、黒蓉は出来るだけ感情を抑えながら続けて聞いた。
 「この者の嗜好を聞いていたと?」
 「食べられない物を食べさせて、痩せさせてもいけませんし」
 「・・・・」
(死なない程度ならばよかろうに)
 「コーヤは食べごたえがある物が好きなようで、とても美味しそうに食べてくれるのですよ。ですから、皆も食べさせることが楽しい
ようで」
 「・・・・・」
(皆が・・・・・?)
 「騒がせてしまったのならば申し訳ありません」
 「・・・・・」
 先に謝られては強く言うことも出来ず、黒蓉は黙ったままコーヤを振り返った。
コーヤは両手に串焼きの肉を持っていた。竜人ももちろん肉や魚も食すが、それほどに食に拘りは無い。さすがに宮内ではそれ
なりの食事は出されるが、黒蓉は食に全くといっていいほど思考はいかなかった。
 「量は食べるのか?」
 「そうですね・・・・・見掛けよりは」
 そう言った紫苑は、少し頬を綻ばせている。
四天王の中では一番穏やかである紫苑だが、それでもこんな風な楽しそうな顔を見たことは無い。
黒蓉は不意に手を伸ばして、コーヤの顎を掴んで上を向かせた。
 『な、何するんだよ!』
 「・・・・・」
 『顔!顔疲れるんだけど!』
 自分の肩ほどしかないない身長のコーヤは、黒蓉の手で仰向かされて爪先立ちになったことが不満なのか、何か怒ったように
訴えている。
黒蓉はコーヤの言葉など覚えるつもりは無いので何を言っているのか全く分からなかったが、それでもその表情や口調で文句を
言われているというのは分かった。
もちろん、こんな子供の威嚇など何とも思わないが。
 『放せって!』
 「・・・・・」
 「シオン!シオン!」
 「・・・・・お前の名前は言えるのか?」
 「常に側にいるので耳に残ったのでしょう。黒蓉殿、その手を離してやってください。あなたにとっては目障りな存在なれど、この
者の存在は碧香様にとっても大切な者なのですよ」
 「・・・・・分かっておる」
 だからこそ、渋々ながらこの存在を黙認しているのだ。
紫苑がコーヤの事を庇うようなことを言うのも忌々しくて、黒蓉は乱暴にコーヤから手を離した。



 王宮の中が変わってきているのを黒蓉は肌で感じていた。
静かだった空気が、ザワザワとしたものに変わり、召使い達もそこかしこであの人間の話をしている。
何かが変わっていくのが・・・・・自分の肌触りが悪い方へと変わっていくのが黒蓉は嫌で仕方が無かった。
 「どうした、黒蓉」
 「・・・・・は?」
 「浮かぬ顔をしておる」
 夕方、紅蓮の元に蒼玉探しの途中報告をしに来た黒蓉は、紅蓮のその言葉で何時の間にか自分の眉間に皴が寄っていた
ことに気が付いた。
(私としたことが・・・・・)
紅蓮の前であのコーヤの事を考えていたことを不覚に思い、それでも黒蓉は表面上は何でもないというように頭を下げて言った。
 「失礼致しました、少し他の事を考えていまして」
 「他のこと?」
 「紅蓮様のお耳を汚すことはありませんので」
 「・・・・・」
 そう言い切る黒蓉の口を割らせることは困難だと知っている紅蓮は、それ以上は何も言わずに報告書に目を通している。
すると・・・・・。
 『入りますよー!!』
急に外がザワザワと騒がしくなったかと思うと、ドンドンと扉が叩かれて、いきなり外から開かれてしまった。
 「!」
 何事かと、腰の剣に手をやった黒蓉はとっさに紅蓮の前に立ちふさがったが、中に飛び込んできたのは狼藉者というにはあまり
にも小さな、人間の少年コーヤだった。



 『グレン!どうして外に行きたいっていう俺の頼みは聞いてもらえないわけっ?広いけどさあ、もうこの建物の中は飽きちゃってる
し、俺いーかげん外に出たいんだけど!』
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 いきなり現れたコーヤの姿に驚いたのは黒蓉だけではなく、紅蓮もだったらしい。
その最初の衝撃が収まらないうちに、コーヤの後ろから現れた紫苑が直ぐに頭を下げて言った。
 「申し訳ありませんっ、コーヤがどうやら外に出たいらしく・・・・・」
 「紫苑、これがどんなに無礼な行いか、この人間は分かっておるのか」
こみ上げてくる怒りをどんな風に表せばいいのか、黒蓉は手に持った剣を鞘に納めないまま視線を真っ直ぐにコーヤに向けて言
い放つ。
 『グレンがいいって言わないと駄目なんだろ?ちょっとだけ頷いてくれたらいいんだって!』
 しかし、どうやらコーヤはその黒蓉の怒りを全く感じ取れていないらしく、その視線を紅蓮に向けたまま更に言葉を継いだ。
 『ほら、一回だけ頷いてくれればいーから』
 「おい、聞いておるのか」
 『直ぐ戻ってくるから!』
 「おい!」
 『ね?』
 「コーヤ!!」
珍しく大きな声で叫んでしまった黒蓉に、コーヤは驚いたように目を丸くして視線を向けてきた。いや、コーヤだけではなく、紅蓮も
紫苑も、黒蓉らしくないその発言に少し驚いたような表情になっている。
黒蓉は内心激しい羞恥を感じたものの、その動揺を主君である紅蓮の前で見せるわけには・・・・・いや、人間などの前で見せ
れるわけにはいかず、ギュウッと拳を握り締めて声を落とした。
 「紫苑・・・・・下がらせろ」
 「黒蓉殿、申し訳ありません」
 「後で叱責があることを覚悟するがいい」
 何を言っても反応が無いコーヤにどれ程の苦言を言っても無駄だろうと、黒蓉はその世話係である紫苑に全ての責任を負わ
せることにした。
それは紫苑も覚悟していたのか、紅蓮と黒蓉にもう一度頭を下げてコーヤの腕を引く。
 「さあ、コーヤ」
 「シオン、や!」
 「コーヤ」
 自分の意見が通るまで動かないぞというようなコーヤの様子に溜め息をついた紫苑は、仕方ないとその身体を抱き上げた。
小柄なコーヤの身体は、まるで女のように・・・・・いや、女よりもすっぽりと紫苑の腕の中に納まっている。
 「失礼致します」
 「・・・・・」
その姿を見た黒蓉はなぜか胸の中が複雑な思いで渦巻いていたが・・・・・無理矢理その感情を押し殺すと、2人の姿から強引
に視線を引き離した。








 「・・・・・はぁ」
 自室に戻った黒蓉は思わず溜め息をついてしまった。
今までならばどんなに仕事が忙しくても、余計な気苦労があっても、紅蓮の為ならばと全く苦にも思わなかった。
しかし、今の苦労は・・・・・全てコーヤに関係することばかりで、苦労も疲れも少しも取れることは無い。
(全く、どうして私がこんな思いを・・・・・っ)
 コーヤさえいなければこんな思いをすることも無かったのにとも思うが、それも今更なのかもしれない。
 「明日は、紫苑にきちんと言い聞かさなければ」
(とにかく、紅蓮様に迷惑を掛けないようにと強く言おう)
 「・・・・・もう、明日にするか」
考えるのはもう明日にしよう。
黒蓉は頭の中に渦巻く様々な思いを全て真っ白にしてしまおうと、運ばせておいた酒を一気にあおって喉の渇きを潤す。酒に強
い自分が酔って眠れるとは思えないが、それでも少しはこれで寝付きが良くなるのではないかと思った。

 「コーヤ・・・・・」

 無意識にその名前が出てしまうほど、黒蓉の頭の中には紅蓮以外の、あの忌々しい人間の存在がこびり付いている。
それが最近の、黒蓉の最大の憂鬱であった。




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