『日和!お願いっ、直ぐに来て!』
切羽詰ったような双子の姉、舞(まい)の電話で、沢木日和(さわき ひより)はその週末、とりあえず京都に向かった。
いったい何があったのか、途中で電話を代わった両親にも理由を話さなかったために分からないままだったが、あの元気で意地っ
張りな姉が助けを呼ぶというのはよほどのことだと思うので、新幹線の中にいても日和は心配でたまらなかった。
(舞、また無理をしてるんじゃないかな・・・・・)
舞妓になりたくて、中学を卒業すると同時に単身京都に行った姉。その行動力には何時も感服するが、その影でとても努力
をしているということは、何度か京都に行ってその仕事ぶりを影から見た日和にはよく分かっていた。
「なにか、悪いことじゃないといいけど・・・・・」
「や、嫌だよっ、駄目!」
「お願い!」
布団の上で起き上がった舞が、パンッと両手を合わせて頭を下げてくる。
しかし、もちろん日和にとってそれは直ぐに頷ける話ではなく、情けなく眉を下げた状態で、先ほどから同じ姿勢でいる姉を見つ
めていた。
京都に着き、姉が世話になっている置屋に直行した日和の目に映ったのは、右足に包帯を巻いている姉の姿だった。
どうやら捻挫で、長期療養が必要な怪我ではないということを聞いて安心したが、どうしてあんな必死な様子で自分に助けを求
めてきたのかが分からず、日和は枕元に正座をしてどうしたのと訊ねた。
「怪我して、寂しくなった?」
しかし、それならば自分よりも母を呼んだ方がいいと思うが・・・・・。
「お願い!」
「え?」
そんな日和の不思議そうな眼差しに、姉はいきなり両手を合わせて頭を下げてくる。
「私の代わりにお座敷に出て!」
「え・・・・・?」
「お願い!」
「ちょ、ちょっと待ってよっ。大事なお座敷があるなら、同じ置屋の人に言えばいいだろ?どうしてわざわざ俺が女装して・・・・・」
「事情があるのよ〜!」
どうやら明日のお座敷は、姉を贔屓にしてくれている客の大事な商談の席らしい。もちろん、姉以外にも芸妓は呼ばれている
のだが、これまでどの商談にも姉が呼ばれ、その全てが上手く行っているというジンクスから、絶対にその席は外せないらしい。
「おかあさんが怪我のことを伝えてくれたんだけど、動かなくてもいいからって、とにかくその席にいればいいって言ってるのよ」
「・・・・・」
「私にとってもご贔屓さんだし、この足引きずってでも出たいけど、足を捻った時に腰まで打って、長い間正座をしてられないの
よ。まさか、寝たまま出るなんて無理でしょ?」
「そ、それは、そうかもしれないけど・・・・・」
「あんたはただ舞妓の衣装を着て、笑っていてくれればいいの!ねっ?二時間だけ!」
「や、嫌だよっ、駄目!」
「お願い!」
「舞〜」
他の頼みならば出来るだけきいてやりたいと思うが、今回のことは・・・・・舞妓姿になって座敷に出るということだけは素直に頷
くことが出来ない。
(ま、また、変な人に会ったらどうするんだよ〜)
以前も、姉のピンチヒッターで座敷に出たことがあった。
その時は、柄の悪い相手・・・・・そうやらヤクザらしい相手にどうしても座敷に出てくれと言われた姉が、嫌だからと日和に助けを
求めてきたのだ。
双子だからか、情けないが男の身で姉と酷似した容貌だった日和は、化粧をし、着物を着ると、どう見ても姉としか見えなかっ
た。
そして、なんとかその場を乗り切ろうとした日和だったが・・・・・なんと、相手は本当にヤクザで、姉ではなく、自分が真の目的だ
ということを知らされた。
町で見かけた自分を捜し、舞妓の姉の容貌と似ていると思われて、確かめる為に座敷に呼ばれたのだ。
その後は・・・・・もう、日和の意志など全く関係なく、まるで嵐に巻き込まれるかのようにそのヤクザに強引に関係を迫られ、男
の身で男を受け入れるという関係になってしまった。
ただ、肩書きは怖いし、強引なところは時々頭にくることもあるが、男は思いがけず日和に対しては真摯な態度で接してくれ、
その想いが一過性のものではないのだなと思えた。
今は、微妙な関係だ。逃げたいと思っていたはずなのに、もっと男を知りたいとも思っていて・・・・・日和はそんな自分に戸惑い
を感じている状態だった。
(ま、まさか、また同じことにはならないと思うけどっ、変なことになったら抱えきれないしっ)
「だ、だいたい、無理があるって!昔はともかく、あれから俺だって成長したし、化粧をしても男ってバレるよ!」
そう、元々、男の自分に舞妓になれというのが無理なのだと押し切ろうとした時、今まで殊勝に手を合わせていた姉が、なぜか
にんまりと笑いながら顔を上げて言った。
「それなら、大丈夫よ」
「え?」
「そうですよね、お姐さん達」
「・・・・・っ」
姉の言葉に慌てて振り向けば、そこには姉の先輩芸妓達が襖の陰から笑いながら出てきた。
「ほんとうに、心配ないなぁ」
「ええっ?」
幼い頃から双子の姉に子分のようにこき使われていた習性は消えないのか、結局日和は再び舞妓の衣装に身を包んだ。
いや、実際はあのヤクザな男に何度も着物を着せられているので(それも、女物ばかりだ)、悲しいかな裾捌きや仕草など、無
意識の内に女っぽくなってしまっていた。
「完璧よ!私よりも似合ってる!」
無責任な姉の言葉には笑うしかなく、日和は自分以外の4人の芸妓達に守られるようにして廊下を歩いていた。
「日和ちゃん、出来るだけ声は出さんといてな?うちらが、あんたは風邪気味だと伝えるから」
「は、はい」
「でも、ほんとぉに、舞ちゃんそっくりや。あの子はお日さんみたいにパッと華やかやけど、日和ちゃんはお月さんみたいに神秘的
な雰囲気やわ」
「へ、変なこと、言わないで下さいっ」
初めは日和が姉の身代わりで座敷に出ることを懸念していたらしい芸妓達も、装った日和の姿に大丈夫だと思ったらしい。
何度も心配しないようにと言ってくれるのはありがたいが、それも男としては情けない気がした。
「日和ちゃん、ここえ」
「は、はい」
ある座敷の前に来ると、皆その場に膝を折る。
日和もその一番後ろに控えると、出来るだけ目立たないようにと深く頭を下げた。
「こんばんわぁ、呼んで頂いておおきにぃ」
「おお、来たか」
頭を深く下げた日和にも、数人の気配が感じ取れた。
「舞香、調子が悪いと聞いて心配したが、どうやら大丈夫みたいやな」
「・・・・・」
「ほら、こっちへきて酌をせんか」
「へ、へぇ」
(だ、大丈夫かな)
遠目から見れば気付かなくても、酌をするほどに傍に行けば姉と違うとバレてしまうかもしれない。
日和はどうしようと躊躇したが、一番傍にいた芸妓が大丈夫やからと小さく囁いてくれた。どちらにせよ、入口で固まっているわけ
には行かないと、日和は着物の裾を踏まないように、それ以上にあまり顔を見られないようにと俯いたまま、座敷の壁沿いを歩い
て(客は10人ぐらいはいるようだ)上座に向かい、姉から聞いた贔屓という男の特徴を探そうと、チラッと視線を上げようとした。
「・・・・・っ!」
その時、いきなり横から腕を掴まれ、日和はあっけなくその場に尻餅をつく・・・・・いや、つきそうになる寸前、誰かの膝の上へと
座り込んでしまった。
(うわっ!)
「おいおい、乱暴な真似は止めてくれませんか」
少し、焦ったように言うのは、先ほど座敷に入った途端声を掛けてきた男のものだ。
「その舞妓は、わしの贔屓なんですわ」
「・・・・・それは、申し訳なかった」
「!」
その後に聞こえた声に、日和は瞬時に身を硬くした。
「この舞妓が、あまりに私の知っている者に似ていたので」
「・・・・・」
「秋月(あきづき)さんの?あんたの女やったら、もっと歳が上の美人やないんですか?」
「そうとも限りませんよ」
くくっと響く笑い声が耳元をくすぐり、日和はどうしてこんなことになってしまうんだと姉を恨むしかなかった。
秋月甲斐(あきづき かい)・・・・・東京紅陣会若頭、という立場にいる男は、その手腕を買われ、関西圏での様々な雑事を
一手に任されていた。
地位も名誉も、そして容姿にも恵まれていた秋月は、去年の夏、京都で1人の運命の相手と出会った。
そう言ってしまえば随分と陳腐な感じだったが、まさに秋月にとってはそれは心を揺さぶられる出会いで、それまで幾人も手に抱
いてきた美女達の存在さえ霞むほどの印象を自分に残した。
町で見かけただけだった相手を探すのは大変だったが、どうやら舞妓の中に目当ての人物らしきものがいると、何度も申し入
れ、ようやく座敷に呼ぶことが出来た。
結局、自分が気になっていた相手は少女ではなく、少年で、姉の代わりに舞妓姿になって座敷に出たということが分かっても、
秋月の想いは変わらなかった。
欲しいと思い、まだ高校生の少年を強引に自分の想いに引きずり込んで、その身体をようやく手にした。
ただ・・・・・秋月の思いとは裏腹に、少年はなかなか自分のことを受け入れてくれなかった。
身体は手にしたのに、心は掴めない。簡単ではない想いに苛立ちを覚えるものの、それにも増して募る愛情を、秋月は少年に
注ぎ続けた。
今も、完全に自分のものになっていないということは分かっているが、それでも嫌われていないと感じる。
まだ高校生の少年と、ヤクザという特殊な世界で生きる自分にはなかなか共有出来る時間もなかったが、それでももう直ぐこの
手に・・・・・最近はそう思えるようになっていた。
そんな秋月は二日前から京都にやってきていた。
新規の取引相手で、土地成金の男だが、金は十分あるということで、とりあえず顔繋ぎはしておこうと思ったのだ。
初めは東京の人間だということで嫌悪感を感じていたらしい男も、秋月が頻繁に関西を訪れ、京都に関してもかなり詳しいと
知ると、途端に打ち解けてきて、芸者遊びをしようと誘ってきた。
「わしの、勝利の天使がいるんですわ」
どうやら、贔屓の誰かがいるのだろう。
断ることでもないかと、秋月はその座敷に招待される形で座っていたのだが・・・・・。
「こんばんわぁ、呼んで頂いておおきにぃ」
そんな声に視線を向ければ、数人の芸妓の後ろに、1人だけ舞妓姿の少女がいた。
(天使って言うと・・・・・あの子か)
前にいる美しい芸妓達を指すのなら、「天使」というよりは「女神」だろう。
贔屓という言葉が、単に贔屓するだけか、それとも金銭面を援助する代わりに別の行為も強要しているのか分からないが、ど
ちらにせよ男には似合わない少女だなと思った。
「舞香、調子が悪いと聞いて心配したが、どうやら大丈夫みたいやな」
「・・・・・」
(舞香?)
その名は聞き覚えがある。それは、秋月の愛しい少年の姉の名前ではないだろうか?
「ほら、こっちへきて酌をせんか」
「へ、へぇ」
「・・・・・」
その声を聞いた瞬間、秋月は確信した。
(日和、か)
少女にしては少し低い、しかし、少年にしては高めの声。愛しい相手の声を間違えるはずも無く、秋月は自分以外の男の傍に
行こうとした舞妓の腕を反射的に掴み、自分の元へと引き寄せた。
「何をしてるんだ、日和」
「あ・・・・・あの・・・・・」
「俺以外にその姿を見せるなんて・・・・・許せないな」
「なんや、知り合いか?」
どうやら男は秋月が自分の贔屓の舞妓(本来は日和の姉だろうが)を気に入ったのだと思ったらしく、この後の取り引きを優位
に出来るとほくそ笑んでいる様子が見える。
自分の贔屓の女でも道具に使うのかと思わないでもないが、秋月は好都合とばかり日和を自分の隣に座らせた。
「あ、あの、姉が怪我をして・・・・・」
「・・・・・」
「そ、それで、今日、1日だけ・・・・・あの・・・・・」
日和の声は小さく、後ろめたさを感じているのは分かったが、秋月は直ぐに許してやるつもりは無かった。
舞妓という職業である姉はまだしも、普通の高校生である日和が舞妓姿を見せる相手は自分以外いるはずが無い。
(こんなに可愛らしいのに、な)
秋月はグラスを差し出した。
「・・・・・あ、あの」
「舞妓なら酌くらい出来るだろう」
そう言った途端、日和の顔がみるまに青褪め、唇を噛み締めた。自分の言葉にショックを受けたことは分かったが、それでも簡単
に許すわけにはいかない。
それに・・・・・萎れているその様は、ゾクッとするほど儚げで、どこか艶っぽかった。
「・・・・・」
そう思ったのはどうやら秋月だけではないようで、初々しいはずの舞妓のその風情に、同じ席にいた者達はチラチラと視線を向
けてくる。傍にいる客人という形の秋月に遠慮しているのだろうが、もしもここに自分がいなかったとしたら、それこそこの襖の向こう
の部屋で押し倒されてもおかしくは無いだろう。
(これは、よく躾けておかないとな)
今後、自分の見ていないところでも馬鹿な真似はしないように・・・・・そう思った秋月の行動は早かった。
もうこの場に自分がいる必要は無いだろう。
「あっ」
「秋月さんっ?」
「お客はんっ」
日和を片腕に抱くようにしながら立ち上がった秋月に、一同の視線が集中した。どれも驚きに満ちたものだが、秋月は全く気
にすることは無かった。
「今日は有意義な時間を過ごさせてもらいました。私はこれで失礼しますが、存分に遊んでいってください」
「い、いや、今日はあんたさんをもてなすつもりやったし、舞香まで連れて行きはるのは・・・・・」
「この子は、私の大切な知り合いですよ。・・・・・そうだろう?」
保護者代わりの芸妓達が驚いたような眼差しを向けてくる。
しかし、日和はこの場で違うと言って、男の腕の中から逃げ出すことは出来なかった。秋月と知り合いなのは間違いないし、これ
以上彼が怒るのは怖い。
「そ、そうです。あの・・・・・失礼しても、いい、ですか?」
自分を、いや、姉をこの座敷に呼んだのは秋月ではない男だ。幾ら秋月の行動には逆らえないといっても、後々姉の迷惑に
なることは避けておきたい。
そう思った日和が許可を貰おうと声を掛けたのだが、その声に被さるように秋月が凄みのある笑みを男に向けた。
「もちろん、構いませんよね、荒田さん」
「あ、ああ、舞香、失礼のないようにな」
「・・・・・はい」
「では、失礼」
秋月に肩を抱かれたまま、日和は座敷を出た。その途端、秋月の笑みを湛えていた横顔が厳しくなったような気がする。
「あ、秋月さん、あのっ」
「たっぷり、罰は受ける覚悟だろうな、日和」
「・・・・・っ」
大きく開いた襟足に、大きな手が触れてくる。身体は何重もの着物に包まれているのに、秋月の前にいるとまるで裸を見られて
いるような気がした。
思わず日和は足を止める。このまま秋月についていっていいのかと考えてしまったのだが、そんな日和の足を動かすのは、やはり
あの低く甘い声だ。
「日和」
名前を呼ばれているだけだというのに、身体の芯がゾクゾクとしてしまう。
どうしたらいいのか・・・・・日和は自分を追いつめているはずの秋月に、救いを求めるような眼差しを向けるしかない。
「来い」
「・・・・・」
「・・・・・」
腕を引かれたわけでもないのに、日和はオズオズと足を進めた。そんな日和の行動に、満足気に目を細める秋月の視線が気
恥ずかしい。
(俺・・・・・大丈夫なのかな)
何だか、もう秋月に全身を蝕まれているような気がして、日和は簪を小さく鳴らして頭を横に振ると、引きずられないぞという決
意を込めて顔を上げた。
可愛い恋人が、怯えながらも近付いてくる。
思い掛けなく会えた京都の町で、簡単にその身体を手放すほどに自分も枯れてはいない。
(久し振りの舞妓の装いだし、十分堪能させてもらおうか)
どんなに乱れても、見るのは自分しかいない。
日和はきっと着物のことを気にするだろうが、当然汚れるだろうそれは、今日の記念に自分が買い取ってやろうと思う。
「日和」
手を伸ばしてやると、白粉を塗った白い指先が、戸惑いながらも伸ばされてくる。それが自分の手に触れるまでが待ちきれなく
て、秋月は自分からその手を掴みにいった。
end
この後、秋月さんはお代官様ゴッコをしたのでしょうか(苦笑)。
東京でも、京都でも、日和は大変そうですが、お姉さんにもばれそうですね。