「どうぞ」
出来るだけ声を高くしながら言うと、すっとグラスが差し出されてきた。
静かな座敷の中には、目の前の男と自分しかいない。
(お酒じゃないのか)
どうしようかと視線を泳がせると、低く艶やかな声が言った。
「何をしている。早く酒を注げ」
「は、はい」
慌てて頷いた拍子に、髪にさしてある簪が揺れるのが気配で分かった。
(どうして俺がこんな目に〜っ)
真っ赤な振袖に、長く垂らした帯。ムッとする白粉の匂いに、日本髪の鬘が重い。
日和(ひより)は心の中で大きく叫びながら、男である自分がなぜこんな格好でこの場にいなければならないのかと泣きたくなる
思いで考えていた。
バタバタと慌しい足音が廊下から聞こえてくる。
(あ〜あ、母さんがいたら絶対叱られるよ)
呆れたように日和が心の中で呟いた時、いきなり部屋の襖が開かれた。
「日和、大変!」
「ノックぐらいしろよなっ」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだってば!」
「なに、舞(まい)、何があったんだよ?」
あまりの剣幕に押されてしまい、日和は怒りかけてつりあがった眉を心配げに顰めた。
沢木日和(さわき ひより)は今年の春高校2年生に進級したばかりの16歳の少年だ。ただ、少年と言うにはまだかなり線が
細くて、女顔と言われるのがとても嫌だった。
その日和には双子の姉、舞がいるのだが、中学を卒業して何を思ったのか突然『舞妓になる!』と、家族に宣言をし、母方
の親戚がやっている置屋(舞妓や芸妓を派遣する所属事務所のようなもの)に単独駆け込んだ。
驚いた両親はせめて高校を卒業してからと言ったが、それでは遅いと言う舞は一歩も引かず、結局その親戚の置屋の女将が
高校に行かせながら修行をさせるという風に話をまとめた。
東京で暮らしていた舞が、親元を離れて京都で暮らす。
それは両親同様、双子の弟でもある日和にとっても寂しいことだった。
始めは直ぐに諦めて戻ってくるだろうと思っていたが、既に1年以上経っている。
最近では両親も舞の熱意を認めて応援していたし、日和も休みの日には会いに行って、そのバイタリティー溢れる舞の生き方を
見習おうと思っていた。
夏休み。
日和はまた舞を訪ねて京都にやってきた。
東京以上に暑いのには辟易するが、のんびりとした時間の流れは日和にはとても好ましく、広い親戚の家の離れでゴロゴロして
いるのが日課のようになっていた。
そして、3日目の今日。
舞は着物の裾が乱れるのも気にせずに日和に駆け寄ってきて言ったのだ。
「紅陣会(こうじんかい)の奴が座敷押さえちゃったのよ!」
「紅陣会?」
舞は焦ったように言うものの、その名前を聞いたことが無い日和は不思議そうに首を傾げた。
「どっかの会合?」
「馬鹿!ヤクザよっ、ヤクザ!」
「や、ヤクザ?」
現実味がないその存在に、日和はやはりオウム返しに舞の言葉を繰り返すだけだ。
16歳になって、明らかに男と女の差が出てもおかしくないはずなのに、まるで鏡を見ているかのように似ている(日和がぼんやりし
ていて、舞がしっかりし過ぎている)お互いの顔を見合わせながら、舞は早口に事情を説明した。
「紅陣会は関東のヤクザなんだけど、去年の夏、なんかの集まりでこっちに来た時、どうやら町で私を見初めたらしいのよ!」
「はあ?」
「着物も着てないジーパン姿だったらしいんだけど、どうしても会いたかったらしくて捜したみたいで!」
「・・・・・はあ」
「まあ、私みたいな美少女に一目惚れするのは仕方ないけどね」
「・・・・・」
(相変わらず自信家だな)
確かに、舞は身内の贔屓目を抜きにしても可愛いと思う。女の子にしては170近い身長ときりっとした顔立ちで、確かに目を
惹く容貌だ。
だが、容姿だけでそのヤクザとやらがわざわざ捜すのだろうか?
(何か、よっぽど印象に残ることをしなきゃなあ)
そう考えていると、日和はふと去年のことを思い出した。
舞が京都に行ってしまってから初めて訪ねてきた夏休み。
だが、舞妓修行で忙しい舞はろくに相手もしてくれず、寂しくなった日和は散歩の途中に道端で泣いてしまったのだ。
(・・・・・やなこと思い出した)
その頃の日和は何時も一緒にいた自分の半身が永遠に離れて行ってしまったような気がして情緒不安定だったのだ。
(そう思うと、舞の方が俺よりよっぽど男らしいな)
「ちょっと!聞いてるのっ?」
「あ、うん、聞いてる」
「それで、私の顔を似顔絵で捜し出したらしくて、冬からずっとお座敷に呼ばれているの!」
しかし、相手がヤクザだと知った女将は、まだ高校生の舞には荷が重過ぎると判断してくれ、やんわりと断わり続けてくれてい
たらしい。
それは相手が東京の人間だから出来たことでもあったらしいが、しかし、今回は地元の有力企業の名前を借りて座敷を押さえ
てしまったようだ。
「たまたまそれを受けたのが女将さん以外でね、私も他のお姉さん達を呼ばないのは変だなとは思ってたんだけど・・・・・」
普通、お座敷では芸妓と舞妓を組んで呼ぶのがほとんどだ。まだ半人前の舞妓1人だけを座敷に呼ぶなど相当変わっている
人物だと、舞はそれとなく相手方に探りを入れて、今回座敷に来るのがその企業の人間ではなく、昨年からずっと自分を指名
してきた紅陣会の人間だということを知ったのだ。
「それが今日なの!どうしよう!」
「どうしようって・・・・・」
自分に出来ることなんてと困ったように眉を顰めた日和の顔をじっと見た舞は、いきなりあっと叫んだ。
「日和が行ってよ!」
「・・・・・はあ?」
「私の代わりに日和がお座敷に出てよ!顔だって姿だってそっくりじゃない」
「あ、あのねえ、俺は何も知らない素人だよ?幾ら半人前だからって1年以上も修行した舞の代わりなんて出来ないよ!」
「出来るって!どうせ今回のお座敷は私1人しか呼ばないんだし、向こうだって私がまだ半人前だってこと承知してるんだもん!
踊りも唄も無理だって言って、お酒だけついでりゃいいの!」
「舞!そんなの絶対無理だって!」
「なによっ、日和は私がヤクザに手篭めにされてもいいっていうのっ?」
「ま、舞・・・・・」
「とにかく、急いでお母さんに相談しなくっちゃ!」
この場合のお母さんとは、この置屋の主人の親戚のことだろう。
日和はいったい自分がどうなっててしまうのか、オロオロとするだけで何も分からなかった。
そして、今、日和は座敷で男と向かい合っている。
始めは舞の提案にとんでもないと反対をした女将だったが、どうしても嫌だと泣き出した舞に(嘘泣きだ)とうとう折れてしまった。
それから日和は自分の意思など全く関係なく着替えさせられ、簡単な所作を教わっただけで、ポンとこの座敷に放り込まれてし
まったのだ。
「うわ・・・・・あんた、本当に舞妓になれるわよ〜」
嬉しくない舞の言葉にも反論すら出来ず。
本来はまだ半人前の舞妓1人の世話ということで、どんな粗相をしても責任は負いかねるということをもう一度相手に了承させ
た上で、日向はこうして舞妓姿で男の前に座っていた。
「・・・・・」
「・・・・・」
(随分カッコいい人だよなあ・・・・・怖いけど)
現われたヤクザは、日和が想像していた中年の熊みたいな男とは正反対の、随分容姿が整った美貌の男だった。
30代前半か・・・・・上品なスーツを着て物静かに座っている様子はどう見てもエリートサラリーマンか弁護士のようで、とてもヤク
ザとは思えなかった。
(舞、悔しがるだろうな)
美形好きの舞でもすぐさま合格点を付けそうな男を見て、日和は少しだけ緊張が和らいだ。
「・・・・・名は?」
「な、名前、ま、舞香です」
「本名だ」
「そ、それは・・・・・」
「言えないのか?」
男がチラッと日和を見た。
視線を僅かに動かしただけなのに、その場の空気がたちまち冷えたような気がする。
目の前の男がヤクザなのだと、日和は改めて思い知った。
「ひ、日和です」
舞の名前は言えなかった。後で何かあったら困ると思ったし、どうせ後何日かしたら自分は東京に帰るのだ。
「・・・・・どういう字を書く?」
「て、天気の、日和がいいというのと同じ、です」
「日和・・・・・」
口の中で日和の名前を呟いた男は、次にじっと日和の顔を見つめてきた。
真っ直ぐで鋭い視線。逸らすことは許されないような感じがした。
「写真で見た時はどこか違うと思ったが・・・・・やっぱりお前だ?」
「え?」
「去年、鴨川を泣いて歩いてただろ」
「・・・・・え・・・・・?」
「あの時のお前の泣き顔が忘れられなくてな。こんな白粉で真っ白な顔じゃなく、素顔のお前がまた見たい」
「えーっ!」
(お、俺のこと見たって事っ?)
「去年の夏、なんかの集まりでこっちに来た時、どうやら町で私を見初めたらしいのよ!」
(舞が言ってたのは・・・・・このことっ?)
日和は混乱した。
てっきり舞を見初めたヤクザとしか思っていなかったのに、このヤクザが見初めたのは舞ではなく自分だったのだ。
(嘘だろ〜!)
去年の夏はあまり長い間滞在せずに帰ったが、このヤクザはその後もこの京都で自分を捜し続け、あげくに双子の姉である舞を
見つけてしまったのだ。
「あ、あの、私・・・・・」
何だか不味い気がする。
とにかくこの場から立ち去ろうと思った日和は唐突に立ち上がろうとした。
「うわっ!」
「・・・・・っ」
しかし、慣れない正座で足は痺れ、足元も着物で覚束無くて、情けないことに日和はそのままバランスを崩してこけてしまった。
その身体は男が軽々と抱き止めてくれたのだが・・・・・。
「お前・・・・・」
「は、はい」
「・・・・・男なのか?」
「!」
運が悪いことに密着してしまった下半身。分厚い振袖も派手に捲れてしまって、薄い襦袢越しに分かる感触。
「ご、ごめんなさい!」
日和はもう、ただひたすら謝るしかなかった。
体調が悪い双子の姉の代わりに(まさか逃げ出したとは言えず)、自分が強引に座敷に出てきたのだと説明した。
姉や置屋の女将は悪くないのだから許してくださいと頭を下げている間、男は腕を組んでじっと日和を見つめていた。
「名前はどちらのだ?」
しばらくして男が言った。
「それも姉の名前か?」
「い、いえ、日和は俺の名前です」
「そうか。泣いたのは?」
「・・・・・俺です」
誤魔化しても無駄だと思い、日和は恐々と頷いた。
「お前で間違いなかったか」
「で、でも、あの、俺、男なんですけどっ」
「それがどうした?欲しいと思ったものは間違えてなかった。俺の目は節穴じゃないようだ」
そう言って片眉を上げてにやっと笑う顔は、どこか先程までとは雰囲気が違った。
先程までは近寄りがたい程の空気を纏っていたのに、今は遥に柔らかい雰囲気だ。
「お前が秘密を話してくれたんだ、俺も正直に言う。俺は東京紅陣会若頭、秋月甲斐(あきづき かい)。名前、間違える
なよ?」
「は、はい」
(許してくれたのかな・・・・・)
騙していたことは結局見逃してくれたのかとホッとしていると、秋月はじっと日和の顔を見つめてにやっと笑った。
「やっと見つけた」
「え?」
「もう1年、お前を捜し続けたんだ。今更逃げるなよ?」
「・・・・・」
(な、なんか、性格変わったような気がするんだけど・・・・・)
ずっと、物静かで(というか、ピンと張り詰めた空気を醸し出していて)、口調も淡々とした感じだったのに、日和が男だと分かった
途端に意地悪で楽しそうな目になった。
「あ、あの・・・・・」
「始めは女だと思っていたしな。でも、男なら少々脅してでも俺に惚れさせないとモノに出来ないし」
「も、もの?」
「その舞妓姿も似合ってるが、素の顔が見たいな」
不意に日和の腕を掴んだ秋月は、そのまま腕を引いて無防備な身体を抱きしめた。
簪がキラキラと揺れている。
「ひ・・・・・」
何をされようとしているのか、さすがに日和にも分かった。
(ひえ〜〜〜〜〜!!)
「可愛い舞妓の正体は、思った以上に可愛らしいな」
思わず秋月を突き飛ばして座敷を飛び出した日和だったが、その夜は向こうがどんな文句を言ってくるのかと気が気ではなかっ
た。
どうだったのかと煩い舞を何とか誤魔化し、日和は体調を崩したからと言ってその翌日には逃げるように東京に戻ろうとしたが。
「・・・・・」
「よお」
「道中同じ方向だ。旅は道連れだろう?」
「あ、秋月さん・・・・・」
「思ったとおり可愛い素顔だ。日和、逃げられると思うなよ」
「・・・・・」
家の前、横づけされた黒い外車を背に、昨夜見たからかうような笑みを口元に浮かべて立っている秋月を見て、日和は持って
いたバックをその場に落としてしまった。
男の背後には黒ずくめの厳つい顔の男達・・・・・その正体を聞くのは怖い。
「な、何度も言いますけど、お、俺は、男ですよ?」
「それがどうした?俺には何の問題も無い」
「・・・・・」
「俺に捕まったことを諦めるんだな、日和」
「・・・・・」
(ど、どうしよう・・・・・)
日和はこれから自分がどう変わっていくのか、怖くて仕方が無かった。
舞のような新しい変化があればなと思っていたが、それはこんな男からの求愛ではけしてなかったはずだ。
(ま、舞〜)
真っ直ぐ見つめてくる視線から逃れるにはどうすればいいのか、日和は情けないとは思いながら、自分の半身の名を心中で呼ん
でいた。
end