マスターの独り言
笹本和宏(ささもと かずひろ)は、『彩香』(色々なコーヒーの香りという意味)という小さな喫茶店のマスターだ。
今年35歳になる彼は数年前に離婚し、今は優雅な独身生活を送っていた。
そんな彼には8歳年上の姉がいた。
男勝りで明るい彼女は大学を卒業するとほぼ同時に結婚し、和沙(かずさ)という男の子を生んだ。
和沙は、姉には全く似ておらず、穏やかで大人しい義兄に良く似た子供だ。
臆病で引っ込み思案で、しかし、優しい子だった。
「叔父さん」「叔父さん」と懐いてくれ、子供のいない和宏は、こんな子供だったら欲しいなと常々思っていた。
しかし、優しいだけじゃこの先乗り切れないと思ったのか、姉は和沙を強制的に和宏の喫茶店でバイトさせるように仕向
けた。
4月から大学生になる和沙を、少しでも人に慣れさせようとする強硬手段だ。
始めは「いらっしゃいませ」もろくに言えず、客が来ると同時に和宏の後ろに隠れていた和沙も、今では僅かながらも笑み
を浮かべて対応出来るようになっていた。
それは・・・・・多分、1人の客の影響だろう。
沢渡俊也・・・・・彼はこの店を開いたとほぼ同時に通うようになってくれた常連だった。
和宏よりも3歳年下の外資系企業に勤めるサラリーマンだ。
初めて会った頃は新入社員同然だった彼も立派なエリートになり、今ではかなりの年収も稼いでいるらしい。
派手な容貌と社交的な彼は随分とモテてるようで、本気も遊びも楽しんでいるという感じに見えた。
そんな沢渡ならば、大人しい和沙のいい刺激になるかもしれない。
そう思った和宏は直ぐに2人を引き合わせた。
「俊也、甥っ子の和沙だ」
「は、初め、まして・・・・・」
「沢渡俊也です、よろしく」
「よ、よろしくおねがい、します」
まさか・・・・・沢渡が和沙を好きになるとは思わなかった。
「マスター、俺、和沙君が好きなんだ」
男同士というものに偏見は持っていなかったつもりでも、やはり自分の甥がと思うと戸惑いが先にたってしまった。
それに、沢渡はとてもモテる男で、何人もの女達との恋の話を聞いてきただけに、とても和沙1人で満足するような男とは
思えなかった。
そんな和宏の心配を感じ取ったのか、沢渡は言葉を尽くして訴えてきた。
和沙の臆病な性格が愛しいと。
怯えて逃げる身体を抱きしめたいと。
これまで付き合ってきた女達とは比べ物にならないくらい、好きという気持ちが大きいと。
何度も何度も訴えられ、和宏の気持ちも動いた。
長い間付き合って来た沢渡の性格は少しは知っている。
この男は、たとえ遊びだったとしても、和沙を泣かして捨てるようなことはしないと思った。
「全ては、和沙が受け入れたら、だ」
そう念押しして、沢渡の和沙への求愛を黙認することにした。
今まで誰かにこんなふうにあからさまな好意を向けられたことがないのだろう和沙は、傍目から見ても可哀想なほど戸惑い
逃げ回っていた。
和宏にもどうにかして欲しいと遠回しに訴えてきたが、
「あいつはお買い得だよ。金も持ってるし、生活力だってある。引っ込みじあんな和沙にはピッタリだ」
そう言って笑い飛ばした。
滑稽なくらい形振り構わない沢渡を見ているうちに、和宏は本当にそう思うようになってきたのだ。
和沙の気持ちが何時から沢渡に向き始めたのかは、はっきりは分からなかった。
しかし、その性格のように、慎重に、じわじわとその存在を受け入れたのだろうということは想像がついた。
2人が店の中で、あからさまな恋人同士の言動を見せることはない。
ただ、ちょっとした時に交わす視線や、少しだけ触れる指先が、和沙にとって沢渡が特別な存在になったことを教えてくれた。
元々整った顔立ちをしている(肉親の欲目かもしれないが)和沙は、どんどん綺麗になってきている。
店の他の客も和沙を見る目が変わってきているし(男ばかりというのが難だが)、大学に入ればもっともっと和沙は変わるだ
ろうと思えるようになってきた。
「心配にならないか?」
和沙の姿がない時、和宏はそれとなく沢渡に言ったことがある。
沢渡は少し驚いたようだったが、端正な顔に苦笑を浮かべてこう言った。
「必死で恋愛してますから。手放す気はありませんよ」
つくづく、和沙が女だったらなあと思った。
これ程の男にこれだけ思われれば、きっと幸せになっただろう。
しかし、和沙が男だったからこそ、数々の恋愛をこなしてきた沢渡の目に止まったのだろうかと思うと、それも一概には言え
ないのだ。
「和沙」
「いらっしゃい」
今日も沢渡は店を訪れ、和沙は少しだけ嬉しそうに頬を綻ばす。
「・・・・・」
そんな2人をカウンターの中からちらっと見た和宏は、少しだけ複雑そうに眉を顰めた。
自分の店でアルバイトをさせ、それで男の恋人を作ることを容認したと知られれば、あの姉からどれだけ叱られるかと思うと
怖い気もする。
ただ、和沙の幸せを考えれば、和沙にとって沢渡という男は必要だと思う。
(せめて大学卒業・・・・・いや、20歳を超えるまでは・・・・・)
和宏の目下の悩みは、2人がどこまでいったかということだ。
今のところ和沙の様子を見れば、最後まではいっていないだろうとは思うが・・・・・。和沙の性格を考えれば気軽にも聞け
ない。
(まさか男の子にこんな心配するとはなあ)
それでも、もう少しは清い関係でいて欲しいと、和宏は溜め息をつきながら思った。
end
和沙の叔父さん目線からです。
くっついても離れても、叔父さんとしては心配なんですよ。