時の帝、昂耀帝の新しい正室である千里付きの女房、松風は、日々幼い主人に行儀やしきたりを教え、世話をしてる。
それは朝起きてから夜寝るまでの長い時間で、昂耀帝の寵愛が深い千里が相手なので気を抜く時が一時も無いほどだったが、
最近ようやく千里が日々の生活に慣れてきたおかげで、そんな松風にも少しだけ息を抜く時間が出来た。

 昼食を済ませた後、昂耀帝が千里と日中の一時を過ごす時などそうだ。
2人の邪魔にならぬよう席を外し、ゆっくりと茶を飲む。千里の世話が苦痛だというわけではないが、松風はゆっくりとしたその時
間を楽しんでいた。






 しかし--------------------------。

 「松風様!」
 焦ったような声と、慌しい足音に、松風の眉間に皺が寄る。
 「松風様っ、どちらにおわしますか!」
 「こちらに」
そう答えて間もなく、荒々しく駆け込んできたのは千里付きの女官の1人だ。
 「何があったの?」
 元々はそれなりの家柄の出である松風は、当初昂耀帝の更衣候補として光黎殿に召し上げられた。
しかし、昂耀帝にその気はなく、松風自身もその地位に興味はなくて、何時の間にか昂耀帝の私邸である光黎殿を取り仕切
る任を任されることになっていた。
 昂耀帝の気性を把握し、頭の良い松風を頼る者は多く、千里が来てからは呼び出される回数もさらに増えたが、その内容は
様々なもので・・・・・。
 「御上とちさと様がっ」
 「お二人が?」
 「は、はいっ、あのっ」
 まだ若い女官はどう説明していいのか分からないのか、ただ、同じような言葉を繰り返す。
いい加減一喝しようかと思った松風は、
 「お二人が言い合いを始められてっ」
ようやく伝えられた言葉に、即座に立ち上がって足を進めた。




 昂耀帝が見初めた千里という人物は、愛らしく華奢な見掛けを裏切った男の性を持っていた。
本来ならば子をなすことの出来ない千里を正妻に据えることは諌めて止めさせなければならないのだろうが、既に先妻との間に出
来た御子が東宮になっているし、さらに言えば頑固で傲慢な所のある昂耀帝の気持ちを翻させることはなかなかに困難であるの
で、結局ごく身近にいる者達は千里の存在を受け入れることになった。

 さらに言えば、松風は千里を気に入っていた。
絶対的な存在である帝に対して堂々と物を言い、自身が受け入れられないことには断固として抵抗する。ともすれば扱いづらい
子供だが、松風はそれくらい気の強い方が昂耀帝の隣に立っても揺るがない存在になってくれるのではないかと思っていた。

 「・・・・・だろ!」
 「何を言う、お前の言葉は理に適っておらぬっ」
 「それっておーぼー!!」
 「・・・・・」
 部屋に付く前に、廊下にまで聞こえてきた二人の言い合いに、松風は一度大きく溜め息をついてから御簾の向こうに声を掛け
た。
 「いかがなされましたか」
 「あっ、松風!」
 その瞬間、まるで強い風が吹いたかのように御簾が大きく揺れ、
 「聞いてよ!」
鮮やかな色の袿が目に映り、自分よりも小柄な身体が抱きついてきた。
 「ちさと様?」
 「聞いてっ、松風!彰正ったら酷いんだ!」
 「落ち着いてくださいませ」
 宥めるように背を撫でてやると、千里の興奮が少し収まったようだ。
その間に松風は居たたまれないような風情で控えていた他の女官に目配せをして退席させる。自分は慣れているので良いが、い
くら正室とはいえ、千里が昂耀帝を罵倒する姿を見せるわけには行かなかった。




 そして今、千里は松風の直ぐ隣に、昂耀帝は苦い顔をして向かいに座っていた。
 「・・・・・」
(そのように睨まれましても・・・・・)
べったりと己にくっ付いている千里の姿に昂耀帝は面白くない思いを抱いているようで、何度もパシパシと扇を鳴らしている。
 「・・・・・それで、一体何事があったのですか?」
 何時までも黙っていては話が進まないと問い掛ければ、まず隣にいる千里が口を開いた。
 「彰正、俺が今夜エッチはしたくないって言うのに、そんなのは関係ないなんて言うんだ!」
 「夫婦が身体を合わせるのは当たり前のことだろう」
 「彰正はしつこいんだよ!夕飯食べ過ぎで腹が膨らんでいても勝手に上に乗ってきて!」
 「それは食べ過ぎたお前が悪い。そもそも、そんなお前でも抱きたいと思う私の愛情が分からないか」
 「分かんないよ!スケベ!!」
 「・・・・・」
(そのようなことを大声で・・・・・)
 松風は痛むような気がする頭を押さえた。
束縛されることを嫌う千里は、閉じ込めておきたいと思っている昂耀帝とよく意見を闘わせている。
しかし、一番多い諍いの理由は、主に夜、閨を共にするかどうかという問題だった。
 まだ心身ともに成熟しておらず、また、昂耀帝に対しても愛情を持ちきれていない千里が閨を共にすることを拒むのは分かる
が、千里を愛しいと、何時でもその腕に抱いていたいという昂耀帝の気持ちも理解出来た。
 松風からすれば、二人とも少しずつ譲歩をすればいいのにと思うものの、意地っ張りな千里はもちろん、それまで相手に気遣わ
れることしかされていない昂耀帝もなかなか意見を譲らない。
 「どう思うっ?」
 「松風も私と同じ意見であろう?」
 二人に交互に問われ、松風は一度考えるように目を閉じてから、改めて口を開いた。
 「ちさと様、今宵のお食事は少々減らしましょう。そうすれば、膨れた腹をというのは理由にはなりません」
 「えーっ」
昂耀帝の味方をしたと口を尖らせる千里に、己の意見が通ったと笑みを浮かべる昂耀帝。
しかし、ここは平等に、だ。
 「御上も、幾度も挑まれることはちさと様のお身体に負担になりますゆえ、自重してくださらないと」
 「・・・・・」
 今度は、千里の目がパッと輝き、昂耀帝が面白くなさげに眉を顰める。
しかし、これ以上この話を長引かせても仕方が無いと思っている松風は、ではと立ち上がりながらさらに続けた。
 「御上はそろそろ公務のお時間。ちさと様もお勉強の時間です。お二方とも素早く動いて下さいませ」




 あっさりと二人を諌めることの出来る松風に、光黎殿にいる者は皆頼ってしまう。

 「松風殿っ、御上が!」
 「松風様っ、ちさと様がお呼びです!」
 「松風様!」

頼られるのは嬉しい反面、これくらいは自分で処理しろと思うことも多々有り、そういった場合は、松風はにっこり笑みを浮かべる
と、

 「わたくしの身体は一つゆえ、皆様も動いてくださらないと床に伏せてしまいますわ」

嫌味を込めてそう言えば、ほとんどの者はすごすごと引き下がる。引き下がるのならば最初から来るなと、さらに胸の中で毒づいて
しまうのだが。
 ただ、昂耀帝と千里の二人が絡む話には、やはり松風が出張っていかなければならず、松風はなかなか宿下がりも出来ない
状況だった。








 「・・・・・」
 夕食が済み、湯浴みもさせ。
今日もやっと一日が終わる。
後は眠るだけになった千里に挨拶をして自分の部屋に戻りながら、松風は深い溜め息をついた。日々やり甲斐があるとはいえ、
疲れないということは無い。
 「・・・・・今度、お暇を頂こうかしら」
披露目の宴が終わり、千里が本当にこの光黎殿に落ち着いた頃を見計らって、一度実家に帰ろうかと思う。
(三日くらいならば心配はないだろうし)
それくらいならば千里も大人しくしてくれているだろう。








 「お食事を?」
 「はい。このようなことは初めてで・・・・・」

 昨日一日、松風は昂耀帝の命令で千里の披露目のことで慌しく動き回り、千里の世話をすることが出来なかった。
すると、翌日朝食を運んだ女官が、昨日から千里の食欲が無く、塞ぎこんでしまっていると訴えてくる。
男であるからか、活動的に殿の中を歩き回ったり、庭に出たりすることが日課の千里にしたら気になる状態だ。
 「御上は?」
 「少し様子を見るようにと。ですが、とても心配していらっしゃって」
 「・・・・・」
本当は今日の昼まで立て込んでいるのだが、今聞いた千里の状態が気になる。松風は分かったと頷いた。
 「今からご様子を窺いにいきましょう」
 「はいっ」

 千里の部屋に近付いても、話し声や物音はしない。
(ご病気・・・・・?)
それならば、昂耀帝が気づくのではないかと思うのだが・・・・・松風は部屋の前で手を着いた。
 「ちさと様、松風ですが入ってもよろしいでしょうか」
 「・・・・・」
 「ちさと様」
 「・・・・・いいよ」
小さな入室の許可をしっかりと聞き取り、松風は失礼しますと断ってから中へと入った。

 面と向かった千里は女官の言葉の通り元気が無いように見えた。しかし、病的な、苦痛を耐えているという様子ではなく、どこ
か不安そうな表情だ。
 「昨日はお目見えせずに失礼を致しました。変わったことはありませんでしたか?」
 何も知らない風を装って聞けば、千里の眼差しがどうしようかと揺れた。
 「ちさと様」
 「い・・・・・やだ・・・・・」
 「え?」
 「い、いなく、なっちゃ・・・・・やだっ」
大きな目から、突然溢れ出た大粒の涙。いったいどうしたのかと手を伸ばそうとすれば、それより先に伸びた手が強く身体に抱き
ついてくる。
そのまま子供のように泣き続ける千里の背を撫でながら、松風はどうしたのですかと根気強く訊ねた。
 「だ、だって、松風、家に帰るって・・・・・っ」
 「はあ?」




 どうやら一昨日の呟きを誰かが聞いて、それを千里に伝えたらしい。
(全く、余計なことを)
いったい誰がつまらないことを吹き込んだのだと頭にきてしまうが、一方で千里が泣くほどに自分との別れを惜しんでくれたというこ
とが嬉しく、松風は誤解であると千里を宥めた。
 松風の言葉は素直に聞いてくれる千里は直ぐに安心してくれ、すると空腹を思い出してしまったらしい。
何か用意すると言って部屋を出た松風は、少し先に見える人影に口元を緩めた。
 「御上」
 「どうやら、仮の病は治ったようだな」
 「わたくしのことなどを恋しがって下さるとは光栄ですわ」
 からかうように言うと、昂耀帝は全くと苦々しく吐き捨てる。
 「まさかここまでお前を身の内に入れているとはな」
 「御上の信頼に応えることが出来ているでしょうか?」
 「十分過ぎる」
昂耀帝が松風を疑っているということは無い。松風の昂耀帝に対する忠誠心は、これまでの付き合いからもちゃんと分かってくれ
ているはずだ。
 ただ、千里が男ということで、女である松風ともしも・・・・・そんなふうに思ってしまうのだろう。
それほど千里のことを溺愛していることが窺えて、松風はご心配なくと付け加えた。
 「わたくしは御上とちさと様のお幸せを願っているだけです」
 「・・・・・」
 「虚言だと思われますか?」
 「信頼しているゆえ、ちさとに付けた」
 「ありがとうございます」
 「全く・・・・・あれも、一刻も早く私に懐けばいいものを」
溜め息混じりの言葉は昂耀帝の本心だろう。それは松風の安息にも直結することだが、それには昂耀帝の過剰な愛情の注ぎ
方も正さなければ無理だ。
 「ちさと様は犬猫ではありません」
 「・・・・・分かっておる」
 昂耀帝は苦笑混じりに言うと、そのまま背を向けた。きっと千里のことが気になり、公務を抜け出して様子を見に来たのだろう。
(ちさと様も、早く気づいてくださればよいのに)
多少強引ではあるものの、昂耀帝の千里に対する愛情は本物だ。早く、その愛情を受け入れ、上手く制御してくれたらと思う
が・・・・・多分、それはもっと・・・・・先。




 「・・・・・」
 松風は溜め息をつく。
後、どのくらい溜め息を付くことになるのだろうか考えたが・・・・・きりがないので止めた。
大変だと溜め息をつくことがあっても、それ以上に毎日が刺激的で楽しいと思うのも事実で。
 「早くしないと、ちさと様がお待ちだわ」
腹を鳴らして喚くだろう千里の姿を想像して溜め息をついた松風は、その唇を綻ばせたまま裾を捌いて台盤所へと急いだ。






                                                                       終