目は口ほどにものを言う
楓の部屋の前に立った伊崎は、一度大きな溜め息をついてからドアをノックした。
「恭祐!」
間をおくことも無くドアが開き、まるで弾むように楓が飛び出してきた。
「まだ3時前なのに身体空いたのかっ?」
「楓さん」
「ん?」
「申し訳ありません、急に所要が出来まして、今日の楓さんとの約束は・・・・・」
「・・・・・駄目だっていうのか?」
「申し訳ありません」
「何考えてるんだよ!!お前の方から言ったことだろ!」
「楓さん・・・・・」
ドアを開けた瞬間の嬉しそうな楓の顔は、たちまちのうちに歪んで激しい怒りを露にした。
しかし、楓がそれほど怒るのはもっともなので、伊崎はただ頭を下げて楓の許しを乞うことしか出来なかった。
先月の14日。
バレンタインデーの日に思い掛けなくチョコレートをくれ、可愛い嫉妬も見せてくれた楓へのお返しにと、伊崎は何とか自
分のスケジュールを調整して一泊二日の旅行をプレゼントすることにした。
伊崎が若頭に昇格してから一緒にいる時間自体少なくなっていたので、楓は伊崎が想像した以上に喜んでくれ、ずっ
とご機嫌もいいままだった。
しかし、よりにもよって出発直前の今日の正午になって、組に入ってきた電話はシマ(縄張り)に関する揉め事の件で
・・・・・他の組の人間も関係があるので、伊崎が出て行かなくてはならなくなった。
伊崎にすれば直ぐにでも話せばまだ楓との時間に間に合うと思ったが、相手方の申し出は夕方6時という時間で、その
時間になればもう旅行など出来るはずがなかった。
あれほど今回の旅行を楽しみにしてくれていた楓。
それでも、組の事を後回しになど出来なかった。
「このお詫びは改めて・・・・・必ず時間を作りますから」
「嘘をつくな!」
先程までの鮮烈な怒りではなく、楓は目を伏せるとそのまま伊坂に背中を向けた。
「楓さんっ」
「お前が若頭という地位なのは俺も承知している。お前が出なければ解決しない問題もあるだろうし」
「かえ・・・・・」
「だったら、出来ない約束はするなっ」
「楓さん!」
「心配するな、今日は大人しく家にいるから」
楓はそう言うと、伊崎の鼻先でドアを閉めた。
鍵をする音はしなかったが、伊崎はそのドアを開けることが出来ない。
(俺は・・・・・)
「出来るだけ早く帰ってくるようにします。泊まりは無理ですが、食事だけは行きましょう。楓さん、聞いていますか?」
部屋の中からの応えは無かった。
「また、楓が我が儘を言ったんじゃないのか?すまんな」
「いえ」
楓の兄であり、現日向組の組長である雅行と車に乗り込みながら、伊崎は出掛ける前にもう一度声をかけても何
の反応も無かった楓の事を考えていた。
(考えると・・・・・最近こんなことが多いな)
恋人同士と言える関係になってから、伊崎は楓を怒らせる場面が多くなった。
もちろん、伊崎は楓の事を甘やかしたいし、出来るだけ傍にいてやりたいとも思っている。
しかし、そう出来る立場になった途端、傍につく時間が極端に減ってしまい、かえって楓を寂しがらせているのは分かって
いた。
分かってはいたが・・・・・。
(この立場から降りてしまえば、もっと楓さんから遠くなってしまう)
「伊崎」
「・・・・・はい」
「そんなに楓の言うことばかり聞いてやること無いぞ。あいつは小さい頃から傍にいたお前に甘えまくっているからな、少
しは厳しく接してやってくれ」
「はい」
雅行の言うことも分かるが、楓は本来人に気遣うことが出来る子だ。
それは自分の家族や組員といった身内には顕著で、伊崎に対しても本来は明け透けなほどの素直な気持ちを向けて
くる。
ただ、生来の勝気な性格のせいで、ぶつかることも多いが。
(今回のことも、どう考えても俺の方が悪い)
随分早くから楓に旅行の事を言い、楓がそれをとても楽しみにしていることも間近で見ていた。
本当なら、こんな土壇場での約束反故の可能性も考えて、直前にサプライズのように誘っていたら・・・・・こんな風に酷
い裏切りをしなくても良かったかもしれない。
(楓さん・・・・・ちゃんと部屋にいるだろうか)
守役をしている時はべったりとくっ付いて甘えていた楓。
まだまだ子供だったあの頃とは違い、楓は今1人で真っ直ぐに立つことが出来る、伊崎の目にも眩しい存在になってい
る。
誰にも渡したくない、渡せない存在の楓に、自分はいったいどう接すればいいのだろうか。
伊崎は今回のことで、自分と楓の距離を考え込んでしまっていた。
事務所に戻ったのは、午後10時を過ぎた頃だった。
「急なことで悪かったな。今日はもう休め」
「はい。お疲れ様でした」
問題は、あれほど切羽詰った感じだったのにあっけなく解決してしまった。本当ならばもっと早く帰りたかったのだが、相
手がどうしても顔を立ててくれと宴席を設けられたのだ。
もちろん、伊崎は酒を飲む気分ではなく、食事も少し摘む程度だった。
どうしても楓のことが気になったのだ。
(まだ起きているか・・・・・?)
伊崎はそのまま母屋の楓の部屋に向かった。
部屋の中からは物音はしないが、伊崎は念の為ドアをノックした。
「楓さん」
「・・・・・」
「楓さん、もうお休みですか?」
「・・・・・」
(・・・・・仕方ない。明日もう一度謝って・・・・・)
踵を返そうとした伊崎は、不意に聞こえたドアを開く音に反射的に振り返る。
そのまま、伊崎は腕を掴まれて、楓の部屋の中に引き込まれた。
既にパジャマに着替えていた楓は、伊崎の腕を掴んだまましばらく俯いて何も話さなかった。伊崎も、自分からは口
を開かず、楓が話してくれるのをずっと待つ。
やがて、楓はゆっくりと顔を上げた。
綺麗な目が、真っ直ぐに伊崎の姿を捉えていた。
「・・・・・間に合ったな」
「楓さん」
「まだ、14日だ」
その言葉に少し目を見張ると、楓はじっと視線を向けたまま、それでも口元には僅かな笑みを浮かべて言う。
「ご飯を食べるには、少し遅いよな」
「すみません」
「・・・・・ほら」
楓は伊崎から視線を外して自分の机に歩み寄ると、そこにあった紙袋を投げて寄越した。
「これは・・・・・」
「どうせ買い物する暇も無かっただろうから、俺が変わりに買ってきた。ほら、ちょうだい」
「え?」
「代金は、お前のお手当てから差っ引いて貰うから」
紙袋の中にあったのは、普通に売っているクッキーの箱だった。
伊崎がそれを取り出して手に取って見ると、楓はさすがに照れくさいのか早口に言った。
「俺がお前にやったのも板チョコだったからな。ちょうどおあいこでいい」
「楓さん」
「ほら」
楓は手を差し出して再度催促をした。
自分で用意して自分が貰う・・・・それは滑稽な話かもしれないが、楓にとっては3月14日に伊崎の手からお返しを貰
うということに意味があるのだろう。
もちろん伊崎に異存があるはずが無く、そっと楓にそれを差し出す。
「楓さん、受け取って貰えますか?」
「チョコの返事は?」
「もちろん、あなたを愛しています」
「・・・・・」
伊崎の100点な答えに、楓は嬉しそうに笑う。
伊崎は思わず手を伸ばして、愛しい楓の身体を腕の中に抱きこんだ。
「苦しいぞ、恭祐」
「楓さん、楓さんは俺の事をどう思ってくれてるんですか?」
疑うわけではないが言葉で聞きたいと願う伊崎に、楓は意地悪く目を細めて言い放った。
「俺の目を見れば分かるだろう。今回のペナルティーとして、言葉は無し」
「楓さん」
「もっと俺を大事にしろよ?溺れるほどお前の愛情を実感出来たら、嫌って言うほど言葉にしてやる」
綺麗で生意気な天使の、意地悪で優しい言葉。
それでも今日の失態を許してもらえたらしいと分かった伊崎は、この身体を抱く特権をしみじみと感謝しながら、笑う楓
の唇にそっとキスを落とした。
end
伊崎&楓編です。
楓に振り回され続けている伊崎です。それでも、ちょっとしたスキンシップで許してしまう楓の方も、かなり伊崎に溺れていますよね。
お似合いのカップルです。