時の帝、昂耀帝の朝は早い。
日を置くことなくある様々な年中行事だけではなく、今は間近に迫った新しい北の方(正妻)の披露目の宴の準備等々で、ゆっ
くりする間もなく動いていた。
朝。
「・・・・・」
朝、目覚めれば、昂耀帝の腕の中にはいまだ眠りに囚われている愛おしい存在がある。
(昨夜の聞かぬ素振りが嘘のようだな)
いまだ自分の立場を自覚せず、事ある毎に抵抗を試みてくる千里。
それは閨の中でも同じことで、そのたびに昂耀帝は半ば強引にその身体を征服するしかなかった。
昂耀帝にとって、政治的な思惑など一切無い相手を腕に抱いたのは千里が初めてだ。今は亡き妻も、様々な背景を背負っ
て嫁いできていた。
「・・・・・ちさと」
「・・・・・」
「寝たふりをしているのではないな?」
「・・・・・」
起きていれば自分にたてついてばかりの千里も、こうして寝ていれば赤子のように素直で愛らしい。本来ならもっと千里の顔を眺
めていたいところだが、そうすると何時まで経ってもここから動くことが出来ない。
昂耀帝は思い切ったように身体を起こし、身体に掛けてある夜具代わりの袿から出ようとしたが、
「・・・・・」
着ていた着物の裾をしっかりと握り締めていた千里が、むずがるような声を上げた。
「・・・・・」
まるで、行かないでと声ではなく行動で示されているようで、
「愛い奴め」
思わす顔を綻ばせた昂耀帝は、そのまままだ夢の中の千里の唇に強引に口付けをしてしまった。
「朝から何盛ってるんだよ!馬鹿あ!!」
少しだけ味わうつもりの唇が思った以上に甘く、ついつい深くなってしまった口付けに千里は半泣きで抗議をしてきた。
もちろん、昂耀帝は自分の行動を後悔するはずもなく、千里のその反応も愛らしいと思いながらようやく夜具の中から立ち上がる
と、隣の自分の部屋で女房の手で着物を着替えていた。
「着替えくらい、1人で出来ないわけ?」
数人の女房の手で着替えをしている昂耀帝を目にした時、千里は呆れたような視線を向けてそう言ってきた。
もちろん、1人ででも着替えることは容易だが、帝である自分がわざわざ動くまでも無く、そうして世話をされることが幼い頃から当
然だった昂耀帝は、千里がどういった思いでそれを口にしたのか分からない。
千里自身、松風などに着替えを手伝ってもらっているのでそれを指摘すれば、
「俺の服は特殊過ぎるの!」
そう言って、顔を赤くして怒っていた。
(あれは直ぐに頭に血を登らせてしまう。そんなにも怒らずともよいと思うが)
笑っている千里の顔というのは滅多に見ることが出来ないが、それでも松風と話している所を遠くから見れば愛らしいその様が心
に残っている。
(私にも、はようあのような笑みを向けるといいのだが・・・・・)
そこまで考えた昂耀帝は、ふと顔を上げた。
「今日の予定は聞いておるか?」
「本日は内裏にて宴の・・・・・」
「私ではない、ちさとだ」
「ちさと様のご予定は、松風殿しかご存じないのですが・・・・・」
「松風を呼べ」
「はい」
既に正式な装いを済ませた昂耀帝が命じると、女房は直ぐに頭を下げた。
「お呼びでしょうか、御上」
時間を置くことなく、呼び出した松風が姿を現した。
それなりの家柄の松風は、当初昂耀帝の更衣・・・・・妃の1人としてこの光黎殿に迎えられたのだが、正妻を亡くしたばかりだっ
た昂耀帝にその気は無く、松風自身も昂耀帝を弟のように見ている風で、結局一度も手を付けない状態のまま、自分の私邸
を取り仕切る任を任せていた。
「ちさとのことだが」
「ちさと様の?」
まだ若いといってもいい年齢の松風だが、思慮深く、頭の回転も早い。
今も、昂耀帝の言葉の裏を直ぐに読み取り、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「本日は、歌や双六を教えて差し上げようかと」
「歌?」
「毎日時間が余って仕方が無いと嘆いていらっしゃるので、退屈凌ぎの雅なお遊びをお教えするつもりです」
「そうか」
「お部屋からは出ないので、ご心配には及びません」
「・・・・・」
昂耀帝は苦笑を零した。
(松風には全て知られてしまっている・・・・・)
披露目の宴が迫っている今、望まないままにこの光黎殿にも多くの人間が出入をすることになってしまう。
いまだ千里の心を掴みきれているという自信の無い昂耀帝は、いつ何時、千里が自分以外の男に会い、惹かれてしまうかという
危惧が消えないのだ。
(私以上の男がいるわけは無いが・・・・・)
時の帝である自分の地位と。
恵まれた容姿。
自分を取り巻く全てが最上だという自負はあるものの、まだ幼い千里はどんな甘言に騙されるかは予想がつかない。
昂耀帝はせめて披露目の宴が済むまでは、不用意に千里と外部の人間を会わせたくなかった。
「では、頼むぞ」
「お気をつけて」
朝食くらいは共に取りたいと思ったが、眠っている千里を起こすのは忍びない。
昂耀帝はその一言で松風に全てを任せると告げて、自分は朝食を取る為に部屋を出た。
披露目の宴の準備は粛々と進んでいる。
新しい北の方を迎えるということで、出来るだけ華やかで、大規模なものをと言った自分の言葉そのものの報告を受け、昂耀帝
は満足げに口元を緩めた。
「御上、北の方様のご衣裳ですが」
「・・・・・」
「衣装合わせをせずともよろしいのですか」
「よい。ちさとの姿に一番合う物は私が説明したとおりだ」
幾ら必要な作業だとしても、千里に直接会わせるわけにはいかない。
「不明瞭な点は女房の松風に聞け。くれぐれもちさとと接触はしないように・・・・・よいな?」
「御意」
衣装を任されている男が深々と頭を下げた時だった。
「相も変わらず御執心が深くていらっしゃる」
笑みを含んだ声でそう言いながら現れたのは、時の太政大臣、萩野だった。
人払いをした昂耀帝は、目の前でゆったりと茶を口にする萩野を見て眉を顰めた。
(いったい、どんな苦言を言いにきた)
昂耀帝の父ほどに年上ながら、いまだ男としての色香も十分にあり、若くて最高位に上り詰めただけの自信も実力も溢れるほど
にある男。
都合上、千里の養い親になってもらってはいるが、最近それは間違いだったかと思うことも多々あった。
「昨日、ちさと殿にお目通りをさせていただいたのですが」
「・・・・・」
「なにやら、御上にご不満を抱いている御様子」
「・・・・・不満?」
数日前、萩野が千里と面会したことは知っている。もちろん、自分が許可をしない限り、例え養父であっても北の方に面通しが
出来るはずが無いのだ。
その時は松風も同席していたはずだが、変わったことがあったと昂耀帝に報告は何も無かった。
(まさか、私に言えぬ話でも・・・・・)
眉を顰めた昂耀帝を見て何を思ったのか、相変わらず楽しそうに頬を緩めて萩野が言った。
「御上の所業を諌めてくれと」
「何?」
「夜の方がしつこくてかなわない。あれはやるだけしか能のない男なのか、と」
「ちさとがそのようなことを言ったのか?」
「これでも、柔らかく申し上げておりますが」
「帝って、たくさんの奥さんがいるんですよね?それなのにどうして男の俺をしつこく、その・・・・・。萩野さんからも何とか言ってくだ
さい」
真剣な顔をして、昂耀帝の不満を口にしていた千里。
帝の寵愛を不満に思う者など、それまで見たことも聞いたことも無かった萩野は、そのせいで余計に千里のことを好ましく思った。
そして、自分よりも年下の帝をからかういい話題が出来たと思ったのだが・・・・・。
「愛しい者を手に抱いて何が悪い。私は、出来れば毎日でもあの身体を味わいたいが、ちさとはあまりにもか弱く、これでも日を
置いて辛抱しているというのに・・・・・っ」
(そのようなことをこの男に言っていたとは・・・・・懲らしめに、毎夜泣かせてやろうかっ)
昼。
朝は千里が眠っていたので一緒にとることが出来なかった昂耀帝は、昼はと誘いの使いをやった。
しかし・・・・・。
「・・・・・忙しい、だと?」
「は、はい」
戻ってきた女房は、焦ったように深く頭を下げたまま、申し訳ありませぬと謝罪する。
「北の方様は、双六を途中でお止めになることがどうしても出来ぬと。松風殿も一緒にお諌めしていただいたのですが・・・・」
「・・・・・」
どうやら千里は松風の教えた遊び、双六が気に入ったらしく、途中で止めて昂耀帝の昼に付き合うことは出来ないと断わりを告
げたらしい。
(ちさとめ・・・・・っ)
たぶん、その言葉は驚くほどにそっけなかったのだろうと直ぐに想像出来ることが情けないが、昂耀帝は女房にその姿を見せるわ
けにはいかなかった。
「御上、あの、どうか寛大に・・・・・」
「・・・・・よいっ、食事の用意を」
「は、はいっ」
帝の誘いを断わるなど、この世できっと千里くらいしかいないはずだ。たかが食事といえど、それが昂耀帝が共にというだけで、ど
んな者も何をおいてでも駆けつけてくるはずだった。
(この私が双六に負けただと・・・・・?)
信じたくはないが、それが今の千里の中の自分の価値なのかと思ってしまった。
午後。
味気ない昼食を終えた昂耀帝は、直ぐに政の詮議を行った。
季節ごとに様々な行事があるのだが、それらの全てに昂耀帝は目を通すことにしていた。帝という位が人々の上に立つ存在だと
いう自覚があるからこそ、自分はそんな下々の生活全てに責任があるとも思っていた。
「今年の作物の育成は良いようだな」
「はい。例年に無く豊作のようでございます」
「これも、御上がご立派な北の方様をお迎えになられた幸が呼び寄せたのかも知れませぬな」
「・・・・・」
その言葉には、さすがに昂耀帝も苦笑を浮かべるしかなかった。
ここにいる者の、おそらく半分以上は、氏素性の分からない千里が北の方という立場になったことを面白くは思っていないだろう。
自分の娘、遠縁の者等、少しでも自分の息が掛かった相手を帝の正妃にと、いまだに思っている者も少なくは無いはずだ。
そんな政治的な結婚など、今の自分には必要ないと昂耀帝は確信している。それ程の力は、今の自分には十分あるはずだっ
た。
詮議が済むと、昂耀帝の足は真っ直ぐに千里の部屋へと向かっていた。
今朝寝顔を見てからまだ顔を見ていない。あの綺麗な瞳を見てきちんと会話を交わさなければ、昂耀帝は自分の心が落ち着か
なかった。
(まだ双六をしているということは無いだろうな)
会いに行って、そっけなく邪魔者扱いされては面目が立たない。
「?」
その時、昂耀帝の耳に、はしゃぐ子供のような声が聞こえてきた。それは確かに千里の声だ。
「何をしている?」
思わず足は速くなり、長い渡り廊下を半分小走りに歩いた昂耀帝は、最後の角を曲がった瞬間に目に入ってきた光景を見て
思わず目を見張ってしまった。
「何を・・・・・」
中庭に数人の近衛の男がいた。
光黎殿内部の護衛や見張りをしている男達がしているのは蹴鞠という遊びだ。数人が輪になり、白い鞠を、足の甲で地面に落
とさないように蹴り上げる遊びはどちらかといえば身分の高い者がするのだが、もちろん近衛達も全く出来ないということはない。
ただ、そんな所で、任務中に遊んでいるということが不可思議だったし、何より・・・・・。
「ちさと!」
全く顔を隠さないまま、その輪の中に千里が入っているのが衝撃的だった。
「何をしておる!」
「御上っ!」
昂耀帝の出現に、他の者達は直ぐに地に膝をついて礼をつくしたが、千里だけは不満げな顔を向けてきた。
「せっかく失敗少なくなったのに・・・・・邪魔しないでよ」
「そ、そなた・・・・・」
本来ならば扇や御簾で姿を隠し、夫である昂耀帝以外の男に顔を見せてはならない高貴な身分のはずなのに、今の千里は羽
織っている数枚の袿を脱ぎ、裾を捲り上げて白い足を見せている。とても、他の男に見せられる姿ではなかった。
「お前達っ」
大きな声で近衛達を叱責しようとした昂耀帝の前に松風が姿を割り込ませた。
「恐れながら、御上、ちさと様はわたくしがお教えいたしました蹴鞠という遊びをぜひご覧になりたいと、始めは御簾の向こうからそ
の様子を見ておられたのですが、どうしてもご自分もなさりたいとおっしゃって・・・・・」
「それでもお前は止めなければならない立場であろう!」
「申し訳ございません」
そんな平伏す松風の前に立ちふさがったのは千里だった。
「彰正!松風を怒るなんて横暴!」
大きな目で自分を睨みつけてくる千里は愛らしいが、憎らしい。
少しは自分の立場も考えろと、昂耀帝は厳しい口調で諌めようとした。
「ちさと、そなたは少し北の方としての自覚を・・・・・」
「そんなのないし!あっ、彰正、もしかして蹴鞠が下手なんでしょ?だから、上手なこの人達のを俺に見せたくないんだっ!」
「何を言うっ。私は蹴鞠で負けたことは無いぞっ」
「それは、彰正が帝だから、みんな手加減しているんじゃない?」
「それ程に言うのならば・・・・・おいっ、今から私の相手をしろ!」
昂耀帝は自分の近くに転がっていた蹴鞠を持ち上げた。
夜。
久々に身体を動かした昂耀帝は、なぜかすっきりとした気分になっていた。
幼い頃はよくしていた蹴鞠だったが、この歳になってもその脚力は落ちていなかったようで、どんな鞠でも返した自分を見て千里が
楽しそうに笑っているのが嬉しかった。
(あのような些細なことで喜ぶとは・・・・・)
千里には美しい着物も、愛を囁く文よりも、一緒に行動し、はしゃぐ方が楽しいらしい。
「・・・・・」
思わず顔を綻ばせた昂耀帝は、そのまま千里の部屋へと向かった。この高揚した気持ちのまま、今夜は思う存分千里を啼かせ
たいと思う。
・・・・・しかし。
「・・・・・」
昂耀帝が千里の部屋を訪れ、御簾を上げた時、既に愛しい者は夢の中だった。
今日は特にはしゃいでいたので、すっかり疲れきって早々に眠ってしまったのだろう。
「ちさと・・・・・」
どんなに顔に触れても、口付けをしてみても一向に目覚める様子は無く、仕舞いには唸りながら触れる手を邪険に振り払われ
てしまう有様だ。
「・・・・・」
昂耀帝は溜め息をつく。今日は一日疲れてしまった。
「全く・・・・・お前といると雅など遥か遠い話だな」
そう言いながらも細い身体の隣に自分の身体も横たえ、せめてもと抱きしめてみる。すると、今度はまるで甘えるように身を摺り寄
せてくるから始末が悪い。
「・・・・・明日は寝かさぬぞ」
(お前が言うように、私はまだ枯れてはおらぬからな)
千里と出会ってから、昂耀帝の毎日に平凡という日は無い。毎日、怒って、笑って、心配して、そして、本当に愛しい者を見つ
けたという充足感を感じている。日を置かずに身体を抱くのは、もちろん欲しいと思うからだが、こうしてただ抱きしめているだけでも
実は幸せに思っていた。
「よい夢を、ちさと」
明日もまた、目まぐるしい一日が始まる。
しかしそれは、昂耀帝にとって今までで一番幸せだと思える時間でもあるのだ。
終