「え?俺が攻め?」
「そうよ!あんた、一度でいいから自分も攻める方をやりたいって言ってたじゃない、良かったわね!」
「は、はあ」
はしゃいだようにいう事務所スタッフの女性に笑顔を返すものの、実際郁(かおる)はなんと言ったらいいのか分からず、渡された
台本に呆然と視線を落とすしか出来なかった。
(本当に俺が攻・・・・・なのか?)
坂井郁(さかい かおる)・・・・・は駆け出しと言うには少しだけ色がついたような声優だ。
最初の役であったアニメの主人公の声がかなり印象的で、なかなかそのイメージから抜け出すことは出来なかったが、最近やっ
とそのアニメの主人公の名前ではなく、『坂井郁』という名前を覚えてもらうようになった。
それは、多分に今一番多くこなしている仕事のせいだろう。
ボーイズラブという、世の女性達の夢を具現化したジャンル。
男同士の恋愛という、男の郁からすればなかなか理解出来ない世界だが、少年のように軽やかで優しい声で、さらに実際の容
姿も線の細い可憐なタイプの郁は、かなり色々な妄想をしやすいらしく、役以外の郁自身としての人気もかなり出てきていた。
郁自身はあまり踏み込みたくなかった世界だが、一番初めに出演したボーイズラブのドラマCDがかなり評判になってしまい、今
や郁はこの世界の受け(男同士の恋愛で受身の方をそう呼ぶらしいが)の代表格となってしまった。
特殊な世界だと思っていた郁だったが、今やボーイズラブのドラマCDはかなりの数が発売され、郁達のような若い声優にとって
は活躍するいい場所になっているし、郁も当初から比べるとかなり慣れてきたと思うが、少しだけ不満に思うことがあった。
それは、自分が『受け』しか指名されないと言うことだ。
ボーイスラブの中では、男役が『攻』、女役が『受け』という。
ラブ・・・・・と名をうっている通り、ラブシーンもかなりあるが、その中で女のように喘いでいるのが受けだった。
実際にセックスしているわけではなく(当たり前だが)、何人もいる共演者やスタッフの前で、喘ぎ声の第一声を出した時は本
当に恥ずかしくて仕方がなかった。いくら仕事だとは言え、今までの自分の生活の中で出したことが無いような声をみんなの前で
出すのはかなり緊張した。
幸い、その時の共演者である相手役の『攻』がかなり慣れていて、郁は随分と助けられた。
その時以来、かなりの頻度で郁とコンビを組んでいるのは、声優の中でもトップクラスの人気と実力を持つ日高征司(ひだかせ
いじ)だ。
郁よりも7歳年上の29歳の彼は、キャリア的には10年ほどだが、演技力と声の良さで、かなり早い時期にこの地位まで上りつ
いていた。
(あ・・・・・そうだ、日高さんに聞いてみようかな)
今まで『受け』しかしてこなかったせいか、いきなり『攻』をしろと言っても全然自信が無い。
本来男である郁が攻める側なのは当然のはずなのに、男相手では勝手が違う・・・・・いや、正直に言えば、恥ずかしながら経
験値が無いのでどうすればいいのか分からないのだ。
(明日スタジオで会うし、その時にちょっと聞こうっと)
翌日、スタジオに入った郁は、直ぐに日高の姿を見つけて駆け寄った。
「おはようございます、日高さん」
「ああ、おはよう」
郁の姿を見た日高は、目を細めて笑う。
その様子はなんだか特別な相手を見るような感じで、郁は自分の方が恥ずかしくなって目を伏せた。
日高征司(ひだか せいじ)。声優の中でもトップクラスの人気と実力を持つ彼。
色んな意味で色々自分を助けてくれている日高が、どうやら自分に対してある種の感情を持っているらしいと気付いたのは何
時頃からか・・・・・。
日高自身は特に隠しているわけでもなかったらしいが、奥手の郁にとって、同性である日高のアプローチは直ぐに本気だと取るこ
とは出来なかった。
それでも今は、郁も確実に意識をしている。受け入れるとか拒絶するとか、まだそこまではいっていないが、日高の視線の意味
を間違えずに捉え始めている。
日高は遠慮せずにどんどん郁の心を攻め立ててくる。
郁がそれに抵抗出来るのも、そんなに長い間ではないかも知れなかった。
「あの、ちょっといいですか?」
「ん?」
郁は日高が目線で促してくれた隣の椅子に腰を下ろすと、今回の自分の役の事を話した。
「お前が攻め?」
日高が驚いたように自分を見つめてくる。
その反応は予測出来ていたので、郁も少し困ったような笑みを浮かべて頷いた。
「は、はい、何でか分かんないんですけど」
「役どころは?」
「えっと・・・・・確か高校の数学の教師で、相手は生徒です」
「・・・・・相手役は誰だ?」
「田澤さんです」
「田澤?田澤大輔(たざわ だいすけ)が受けか?」
日高が怪訝そうに言うのも無理は無い。
田澤は二十代半ばの、声優としてはまあ若手の部類に入るが、その甘い声と独特の言い回しが人気の、攻役の代表格の1
人なのだ。
「・・・・・おかしい、ですよね?」
「台本、間違ってないだろうな?」
「それは、間違いないですよ。ちゃんと全部読みましたし」
(やっぱり、誰が聞いてもおかしいのかな)
台本を貰ってから直ぐに感じた不安は、もしかしたらこの相手役のせいだったのかもしれないと、郁は日高の反応を見ながら今
更ながら気が付いた。
余りに自分と田澤のバランスが悪過ぎて、少しの自信も生まれなかったのかもしれない。
それでも既に引き受けた仕事であるし、今更違和感がどうこうという理由で断ることなんか出来なかった。
「本、持ってるか?」
「は、はい」
こうなったら、とにかく何とか形になるように日高にアドバイスを貰おうと、郁は鞄の中に入れていた台本を差し出した。
日高は片手でコーヒーのカップを持って、真剣に本に目を落としている。
普段郁をからかっている時には見せない真剣な目だが、本来日高は仕事に対しては真面目な人で、それでも郁がこんな表情
を間近で見るようになったのは一緒に仕事をするようになってからだった。
(これが煙草だったら、もっと絵になってたかも)
喉を大切にしている声優をしていれば、ほとんど見られない光景かもしれないが。
(どうだろ・・・・・)
今回郁が初の攻役をするのは学園物だった。
もちろん原作があるようだが、恥ずかしながら読んではいない。
昔、近所の幼い幼馴染に悪戯をした主人公(これが郁だ)は、高校生になって親の転勤で引越しをした。
そして、数年後。教師になった主人公がやってきた高校に、その幼馴染がいた・・・・・と、いう展開だ。
可愛い幼馴染は、自分よりも育った男になっていたのだが・・・・・。
「これ、続きだな」
「え?」
台本を最後まで読んだ日高が呆れたように言って顔を上げた。
「つ、続き?」
「これを読んだだけじゃ、お前が纏わりつく田澤を押し倒してイカせるとこで終わってるだろ?」
「ひ、日高さんっ」
幾らここがスタジオで、毎日のようにボーイズラブのドラマCDの録音がされていると言っても、堂々と行為の話をされるのは恥ずか
しくてたまらなかった。
しかし、日高は全く動じない。
「この終わり方、どう見たって続きだろ」
「・・・・・」
「そんな話なかったのか?」
「は、はい・・・・・」
(そうだったのか・・・・・)
確かに、台本を読んだ後の感じは、どこか後味が悪いような・・・・・少し首を傾げる感じがしたが、日高が言うようにこれに続き
があるとしたら、頷ける。
(え?じゃあ、もしかして・・・・・)
「この続きって・・・・・」
「普通に考えれば、この生徒の方が教師を喰うだろ」
「じゃ、じゃあ・・・・・」
「お前は前半だけの攻役・・・・・いや、聞く奴が聞けば、これだってとてもお前が攻には思えないだろうな」
「え〜っ!」
(せっかく、初めての攻役だと思ったのに〜!)
男ならば一度は・・・・・そう思うのも情けない気がするが、ずっと押し倒される側の役しかしていなかった自分にようやく巡ってきた
と思った攻役は、どうやら自分と事務所スタッフの勘違いだったらしい。
「う・・・・・」
(で、でも、これで良かったかも・・・・・)
濃厚なラブシーンがなかったのに、これ程にテンパッてしまったことを考えると、自分には当分(もしかしたら一生)攻役は無理か
もしれない。
結局、押し倒される役が自分には合っているのかと、虚しいながらも一段落した思いで溜め息をついた郁・・・・・だったが。
「・・・・・面白くないな」
不意に、日高が呟いた。
「日高さん?」
「今度はあいつがお前を抱くのか」
「ひ、日高さん!」
(だからっ、そーいうことを言わないでって・・・・・!)
「郁、お前、俺以外との話は断われって言っただろ?俺は、お前が俺以外の男に抱かれるのは我慢出来ないんだ」
「日高さんっ、こ、これっ、仕事ですから!」
「仕事でも面白くない。・・・・・ったく、誰だ、勝手に・・・・・」
眉を顰めながらブツブツ言っている日高は、からかっているのではなく本気で面白くないようだ。
面と向かって言われた郁はどういう顔をしていいのか分からなかったが、それでも、恥ずかしいと思う以外、例えば嫌だとかいう思
いは全くない。
(日高さん・・・・・子供みたいだ)
普段はとても大人で頼り甲斐があって、郁が途惑うくらい強引に郁の心の中に入り込んでくるのに、今の日高は自分の我が
儘が通らないと、口を尖らせて文句を言っている子供に見えてしまう。
「日高さん、あの・・・・・」
何と言ったらいいのか・・・・・郁が頭の中でグルグルと考えていると、不意に顔を上げた日高が、ぐっと身を乗り出してきた。
俳優といってもいいくらいの日高の整った顔が直ぐ間近にきて、郁は反射的に身を引いてしまった。
「お前の仕事の相手役を全て押さえられないなら、現実のお前の全てを手に入れるしかなさそうだ」
「え?」
「そうすれば俺も安心だしな」
「ど、どういう理屈ですか!」
「ん?恋する男の切実な願いだ。郁、今日こそは俺に付き合ってくれるな?」
「え、あ、あの」
「いい加減、覚悟決めたらどうだ?」
「・・・・・っ」
(え、演技だったんだっ?)
先程まで見せていた情けない姿は一瞬のうちに消え去り、今の日高は何時もと同じ様に強引に郁に迫ってきた。
油断していた郁の心は、日高の急激な変化に付いていけず、直ぐに断わる言葉が出てこない。
(ま、まずい・・・・・)
「郁」
甘く、腰に響くような低い声が、郁の全身を絡め取っていく。
「郁・・・・・いいな?」
その蠱惑な声の魔法に何時まで逆らうことが出来るか・・・・・自分の気持ちに自信がない郁は、コクンとゆっくり唾を飲み込んで
目を閉じた。
end
声優同士、日高&郁のシリーズ番外編ですね。
またこれを書くってことは、私はこの2人が気に入ってるってことなんでしょうか(笑)。