「あ、吾妻(あがつま)、向こうに基紀(もとき)いたぞ」
名前も覚えていない、しかし、顔は見たことがある相手から突然声を掛けられた吾妻祥(あがつま しょう)は、内心毒吐きなが
らも、表面上は無表情で言い捨てた。
「・・・・・別に用は無いから」
しかし、少し歩くと、
「あ、吾妻君、永江(ながえ)君が捜していたわよ?」
確か、1学年上だったと思う女子生徒に声を掛けられ、吾妻は再び無表情で答える。
「俺は用がないから」
「え〜、行ってあげなさいよ。なんだか迷子の子犬ちゃんだったわよ?」
「・・・・・まあ、会えれば」
それ以上、会話を続けるのも疲れる気がして、吾妻はさっさと校舎から出た。本当はもう1つ出たい講義があったが、何だか気
分がそがれてしまい、もう家に帰ろうと思ったのだ。
だが、
「あ!!吾妻あ〜!!」
「・・・・・」
「吾妻っ、捜したんだぞっ?ほらっ、今日は一緒に映画に行ってくれるって言ってただろ?俺、もうちゃんとチケットも買ってるんだ
ぞ?吾妻が好きそうな・・・・・」
「駄目」
黙って聞いていればドンドンと勝手に話が進んでしまう。
流されることだけはしたくなくて、吾妻は悪いけどとその誘いを断わった。
「用があるんだ」
「・・・・・え、あ、だって、これ、もう10日も前から約束してて・・・・・」
「急用っていう場合もあるだろう?」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・うん、そうだな。吾妻って人気者だし、急に用が入ることもあるか。分かった、じゃあ、これは別の奴と行くから。じゃあ、
またな」
「あ・・・・・」
最近、いや、もうずっと前から、基紀は吾妻を深追いしない。
好きだと、恋人になりたいと訴えてくるくせに、吾妻が拒否すると素直に引いて姿を消す。
(・・・・・もう少し、強く言ってくればいいのに・・・・・)
そう思ってしまう自分が、まるで基紀の策略に乗っているような気がして、吾妻は何だか面白くなかった。
今年の春、無事大学3年生に進級した吾妻には、一年生の時から纏わりついているストーカーがいた。
いや、ストーカーとは少し違うかもしれない。その相手は吾妻が嫌だと言えばそれ以上近付いてこないし、無理矢理行動にも取
ろうとしない。
永江基紀・・・・・それが、吾妻に1年の時から纏わりついている男だ。
入学してから半年ほど経った頃、
「吾妻!俺と付き合ってよ!!」
と、いきなり言われた。
それまでも、この容姿のせいで男女問わず交際を迫られたことも、それこそストーカーまがいのことをされたのも数え切れないほど
あった。美人だからという理由で、同性に迫られたことも初めてではない。
それでも、きっぱりと拒絶してもなお、迫ってきたのは基紀だけだった。
もちろん、吾妻は相手にしなかった。同性だからというだけではなく、そもそも基紀は吾妻のタイプではなかった。吾妻は美人で
大人の、割り切った付き合いが出来る相手としか付き合わないのだ。
だが、何度拒絶しても。
無視しても。
基紀の自分へ向けてくる好意に変化は無く、それにもまして、会うたびにさらに増した想いをぶつけられる。
思い通りに引かない基紀に、吾妻は苛立つばかりだった。
もう一つ、吾妻は気に入らないことがあった。それは、基紀が妙に物分りがいいということだ。
吾妻がこれ以上は嫌だと思う寸前に引く。
駄目だといえば押してこない。
いったい彼の境界線はどこにあるのかと思ってしまう。
(あいつのせいで・・・・・全部狂ってる)
纏わりついてくる基紀のせいで、吾妻はもう1年以上まともなセックスが出来ないままだった。元々、恋人という存在も、そして
セックスということにもあまり興味を持っていなかったが、あまりに基紀の存在が大きくて、たまに身体の性欲処理をする為に誰
かに誘いを掛けても断わってくる。
「永江君に悪いもん」
「私、結構応援しているんだよね、2人のこと」
・・・・・男同士の関係を応援してくれるというのだろう。
自分が嫌だと言っているのに、どうして周りはそうなのか。
吾妻は苛立っていた。どんな酷い言葉を投げつけてでもこの関係を終わらせない自分に、そして、好きだと言うくせに最後の一
歩を踏み出さない基紀に・・・・・イラついていた。
「あれ?珍しく1人?」
「・・・・・」
今日はもう何もする気になれず、さっさと帰ろうとキャンパスを歩いていた吾妻は、不意に後ろから声を掛けられた。
振り向かなくてもその声の主は知っている。基紀と同様、大学で知り合った・・・・・いや、一方的に顔見知りにされてしまった人
物だ。
わざわざ立ち止まることもないと思ったが、先ほど別れた基紀が言っていた、
「分かった、じゃあ、これは別の奴と行くから。じゃあ、またな」
という、映画を一緒に見に行く相手がこいつではないかと思ってしまうと、吾妻はどうしても一言言ってやりたくなって足を止めて振
り向いた。
「志水(しみず)」
「ん?」
「お前、永江を管理しろ。フラフラさせて、お前だって面白くないだろう」
高校時代から基紀と親友らしい志水達郎(しみず たつろう)は、吾妻の言葉に一瞬だけ目を瞬かせた。
しかし、次の瞬間にはもう笑みを零すと、声をだして笑いながら吾妻の肩を乱暴に叩いてきた。
「なんだ、お前、またあいつをふったのか?」
「・・・・・聞いただろう」
「え?俺?」
「俺が映画を断わったら、別の奴と行くって言っていた。お前のことだろう?」
「いや、俺じゃないな。小早川辺りと行くんじゃないか?最近仲良しだし」
「小早川・・・・・」
吾妻も小早川静(こばやかわ しずか)という名前は知っている。人形のように整った、しかし、感情の起伏が見えない彼は、
大企業の令息ということもあってかなり目立つ存在だった。
吾妻も顔を見たことがあったが、純粋に綺麗だと思ったくらいだ。
(一緒に映画に行くほど仲が良かったのか?)
考えれば、基紀は何時も吾妻を追いかけてくるものの、自分の交友関係を匂わすことは余り無かった。友人は多いようだが、
吾妻が名前まで知っているのはこの志水くらいだ。
ただ、あの物静かに見える静と、煩いくらい元気な基紀は、どう見ても合わない気がするのだが、そんな吾妻の疑問を敏感に
感じ取ったのか、志水は聞かれもしないことを言った。
「あいつ、綺麗なものが好きだからな。小早川も美人だろ?お前を追い掛け始める前、入学式の時に突進して友達になった
らしいぜ」
「・・・・・」
「お前は入学当初から女を食い散らかすって、アダルトな方面で有名だっただろ?接点の無い基紀がお前を見付けてしまった
のは・・・・・もう、運が無かったと思って諦めるしかないんじゃない?」
「・・・・・あいつが本気とは思えない」
「え?どうして?」
「追い掛け回されて1年半だ。でも、あいつは強引に押してこないし、俺が嫌だと言えば直ぐに消えるし・・・・・なんだか、追い
かけっこを楽しんでいる子供みたいだ」
本当に好きならば、もっと本気で相手に迫ってくるのでは無いだろうか?
容姿のせいでこれまで言い寄られてばかりの吾妻は自分にその経験がなく、はっきりと言い切ることは出来ないのだが、それでも
基紀の行動は何だか違う気がした。
そう言って黙り込んでしまった吾妻の横顔をしばらく見ていた志水は、それならと提案してきた。
「そんなにあいつが目障りなら、もう二度と近付くなって言ったら?」
「え?」
「嫌いだとか、付き合わないとかじゃなくって、目の前に来るなって言い切るんだよ。そうしたらあいつも分かるんじゃないか?」
「・・・・・お前、どうして・・・・・」
「俺は一応あいつの友達だしな。何時までも不毛な追いかけっこを見ているのも可哀想な気がしてきた」
そう言った志水の顔からは笑みは消えていた。
「・・・・・へえ、吾妻にそんなこと言ったんだ」
「流れだよ、流れ。それに、お前だっていいかげん焦れないのか?もう1年半だぞ、1年半」
「俺がしつこいの、お前だって知ってるだろう?それに、そもそも押して駄目なら引いてみろってアドバイスしたのお前じゃんか」
「それがこんなに長引くとは思わなかったんだよ」
志水の溜め息混じりの言葉に、基紀は口をへの字にした。
基紀だって、早く吾妻とラブラブになりたい。名前を呼べば優しく笑いかけてもらって、手を繋いで色々と話をしてみたい。
自分の吾妻への感情がいったいどういう種類のものか、基紀自身もだんだん分からなくなっていた。確かにあの綺麗な顔が好み
だったし、冷たいけど時々優しい目を向けてくれるシャイな性格も大好きだ。
だからといって、吾妻が他の女の子を抱くと言っても、嫌だなとは思えなかった。吾妻ならばモテルのは当たり前だし、男が女を
抱くのだって当たり前のことだと思う。
「それって、ただの憧れじゃないか?そういう風に自分がなりたいっていう」
「・・・・・違うって」
「どうして」
「だって・・・・・俺、やっぱり、吾妻に好きになってもらいたいし・・・・・ぎゅーってして欲しいと思ってるもん」
「その後は?」
「その後?」
「セックス。お前、男同士でどうするのか知ってんのか?」
あからさまな志水の言葉に、基紀は顔を赤くしてしまった。
「な、なんか、想像出来ない・・・・・」
「・・・・・まあ、お前の問題なんだからこれ以上は言わないけどさ。基紀、一度ちゃんと考えた方がいいぞ?吾妻だって近いうち
になんか言ってくるかもしれないし」
「・・・・・うん」
吾妻を抱く自分は・・・・・とても想像出来ない。
では、吾妻に抱かれる自分はと思うと・・・・・それも、なんだか怖くて想像したくない基紀だった。
「永江」
志水に言われたわけではないが、吾妻はここ数日ずっと考えていた。
自分は基紀をどう見ているのか、どうしたいのか。このままきっぱりと切り捨てても、自分の生活には全く支障が出ないのか。
とにかく顔を合わせて話をしようと、吾妻は基紀を呼び止めた。
滅多にないその光景に周りがざわついているが一々気にするのも面倒で、吾妻はいきなり基紀の腕を掴むとそのまま人影のま
ばらな物陰へと連れて行った。
「あ、吾妻?」
「・・・・・永江」
「う、うん」
何時もと違う自分の様子に、さすがに基紀も戸惑った表情で見つめてくる。
「もう、二度と俺に付き纏わないで欲しい」
きっぱり、そう言おうと思っていた。自分のイライラは基紀の存在のせいで、その存在が視界から消えれば何時もの・・・・・自分ら
しい自分に戻れるだろうと思っていた。
しかし・・・・・、今、基紀の顔を見下ろしていると、何だかその言葉も違う気がする。
この距離感をどうにかする為の言葉を捜し、考え、吾妻はポロッと言った。
「寝てみる?」
「へ?」
「俺と、セックスしてみる?そうすれば、お前が俺に本気かどうか、俺がお前をどう思っているのか、どっちも分かるような気がする
んだけど」
(そう、だよな。やってみないと分からないかも)
言葉にしてみれば、その理由が一番もっともな気がした。
それまでの吾妻は、セックスはただ欲望を発散させる為のスポーツのようなもので、気持ちを確かめ合う意味など全く無かった。
相手が自分に求めているのはこの顔と身体だし、自分が求めているのも快感だけだと分かりきっているからだ。
ただ、基紀の場合はそれだけではないような気がする。男を抱いたことはないが、女を抱くのとさほど変わりは無いはずだろう。
それに・・・・・。
(こいつなら・・・・・出来そう)
ようやく、自分のやるべきことがはっきり分かって、吾妻はそのまま基紀を連れて行こうとする。
すると、いきなりその手が振り解かれた。
「え?」
「ま、待ってよ、吾妻、お、俺、ちょっと、タンマッ」
「おい」
「吾妻のことは好きだけど!でも、俺、セ、セックスのことなんて考えてなかったし!」
「・・・・・え?」
基紀の口から零れる言葉は吾妻にとっては意外なことで、呆気に取られたように言葉がつまってしまった。大体、好きだという
思いの向こうにセックスがあるのは当然ではないだろうか?
(それを、こいつは考えてなかったってことか?)
「おい、永江」
「ごめん!」
叫ぶように言ってそのまま逃げ出してしまった基紀の後ろ姿を、吾妻は呆然と見送ることしか出来なかった。
「永江!」
「ま、また今度な!」
捜していた姿を見付けて呼び止めようとした吾妻だったが、また・・・・・逃げられてしまった。
「・・・・・っ」
吾妻は形のよい眉を顰め、口の中で舌をうってしまう。
(何時まで逃げる気だ、あいつ・・・・・っ)
吾妻がセックスをしてみようと言い、基紀が逃げ出してから一週間経った。その間、それまではこちらがウザイと思うほどに顔を
合わせていた基紀となかなか会えず、今のように偶然その姿を見かけても逃げられてしまう。
(まるで・・・・・)
「立場が逆転したみたいだな」
「・・・・・」
自分の心の中を言い当てられた気がしてさらに面白くない気分になったものの、吾妻はそのまま立ち去ることはなく振り返った。
今はこの男も基紀と繋がる手段の一つだ。
「あいつを捕まえてくれ」
「・・・・・でも、これってお前が望んだ状況なんじゃないか?一年半も付き纏われて、いい加減頭にきてたんだろ?」
「・・・・・違う。俺はただはっきりしたいと思っただけだ」
セックスすればそれがはっきり分かると思ったのに、肝心の基紀が逃げ回っては何も始まらない。いや、なんだか以前よりも基紀
のことが気になって気になって仕方が無いのだ。
「セックスしようって言っただけなのに」
思わず呟くと、志水はさすがに驚いたように目を見張ったが、次の瞬間ぷっと吹き出すようにして笑った。
「それじゃ逃げられるって。あいつ、まだお子様だから」
「じゃあ、今まで俺に好きだって言ってたのは?」
「そりゃ、純粋に好きだったんじゃないか?前にも言ったろ?あいつ、面食いだって」
「・・・・・」
(今更・・・・・)
そう、今更だ。基紀が押し付けてきた好意が本当に小学生のような純粋なものだと言われても、吾妻の中に生まれてしまった
欲望を無かったことには出来るはずが無い。
「・・・・・お前、俺があいつを食ってもいいのか?」
吾妻はそう言いながら用心深く志水の顔を見た。
「ま、あいつの場合は自業自得?自分から猛獣の前に立って服を脱いだようなもんだからな」
「・・・・・」
「でも、出来れば無理矢理じゃない方がいいけど」
「・・・・・あいつ次第」
そう言うと、吾妻はさよならも言わずに志水の傍を離れた。
誰かの背中を追い掛けるというのは初めての経験だが、こんなにもイラつき、焦り・・・・・それでも気持ちが萎えないものだという
ことを知った。
絶対に、あの元気で無知な子供を捕まえるぞと思う。
(今更逃げは許さないからな)
ここまで来て、散々自分の心の中を引っ掻き回して、はい、さよならと言わせるわけにはいかない。
吾妻はそう決意を新たにすると、逃げていった小さな背中を負い掛ける為に歩き始めた。
end