尾嶋&洸編





 『尾嶋室長、お客様がいらっしゃってますが』

 秘書室に掛かってきた受付からの内線に、いったい誰だと尾嶋和彦(おじま かずひこ)は眉を顰めた。
専務秘書兼秘書室長という肩書き上、社内外に様々な知り合いはいるものの、午後4時という中途半端な時間に、
何のアポイントも取らずに訊ねてくる者など見当が付かない。
 第一、会社の顔でもある受付嬢は、そんなあやふやな立場の相手に、それが例え大企業の地位のある人間だとし
ても毅然とした態度を取るようにと教育をされているはずだが・・・・・。
 「それは・・・・・・」
 『甥だとおっしゃられていますが・・・・・』
 「直ぐに降ります」
それを聞いた瞬間、尾嶋は他の秘書達が目を丸くするのも全く見えずに、慌てたように部屋から飛び出した。



 姉の子供・・・・・甥である洸(こう)はまだ高校生だが、とても素直で遠慮深い性格で、何時も尾嶋のことを気遣って
いた。
諸事情により(尾嶋が洸を気に入って画策したのだが)今同居をしているが、恋人同士という関係になっても洸の性格
は変わらず、何時も尾嶋に遠慮をして、電話でさえなかなか掛けてこなかった。
 それをもどかしいと思っていたが、そんな洸が会社までやってくるとは何か大きな問題が起きたのかもしれない。
いったい何があったのか想像しても分からなくて、尾嶋はエレベーターの表示を苛立ちながら見上げていた。
(くそっ、遅い!)

 「洸!」
 エントランスにやってきた尾嶋は、受付の前に立っている制服姿の洸を見つけて思わず声を上げた。
普段、どんな時も冷静で、大きな声を出したことの無い尾嶋の焦った様子に、周りにいた社員は驚いたような眼差しを
向けてくる。
それらを一切無視して、尾嶋は大股に洸の傍に歩み寄った。
 「何があった?」
 「え?」
 「・・・・・洸」
 「えっと・・・・・」
 自分の剣幕に驚いたような洸を見て、どうやら危惧していたような問題はないらしいと分かる。
尾嶋は直ぐに落ち着きを取り戻すと、頼りがいのある保護者の顔になって、どうしようかと戸惑った様子の洸に穏やか
に話し掛けた。
 「落ち着いて、どうしてここに来たのか話しなさい」



 何時もと変わりない1日だった。
朝起きた時、既に朝食の準備は出来ていて、洸が学校に行くより先に、尾嶋は出勤した。
自分よりも忙しい日々を送っているというのに、尾嶋は何時も落ち着いていて、こまごまとした洸の世話を焼いてくれる。
 嬉しいと思うのに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
たとえ、自分がまだ高校生だとしても、尾嶋にとっては甥という立場だとしても、お互いに好きだと気持ちを伝え合って、
恋人という関係になったのだ。もっと、尾嶋の色んな顔を・・・・・緩んだ表情を見たいと思った。

 会社に来ても、尾嶋がいるとは限らない。秘書で、一番偉い立場にいる彼は、普通の役員以上に忙しく動き回ってい
ると、以前、仲良くしてもらっている尾嶋の部下、松原いずみが言っていた。
 だから、期待していてはいけないと思ったが・・・・・もしも、尾嶋が会社にいて、唐突に現れた自分を見たらどんな顔を
するのか、学校帰りに考え出したら止まらなくて、洸は思い切ってこの場違いな場所までやってきてしまった。

 受付の人に尾嶋の名前を言った時は、妙な顔をされてしまった。
その時点で、洸は半分気持ちが萎えかけたが、ここまで来たのだからと、お願いしますと頭を下げた。
 やがて、エレベーターから出てきた尾嶋は、何時ものクールで穏やかな彼からは想像出来ないほど、真っ蒼な顔色で、
焦った様子だった。
その瞬間に思ったことは、どうしてこんなことをしてしまったのだという後悔。こんな尾嶋の顔を見たいわけではなく、心配
させて本当に申し訳ないという気持ちで、洸の顔は泣きそうに曇ってしまった。



 「洸?」
 「ご、ごめんなさい」
 「・・・・・来なさい」
 たちまち、今にも泣きそうな表情になった洸の背中を押し、尾嶋はそのままエレベーターに乗せて、役員室が並ぶ最上
階へと向かい、そこの空いている会議室へと連れて行った。
 ここは今日は会議の予定はない。じっくりと話せると、尾嶋は俯いたままの洸の顔を覗き込む。
 「洸」
 「な、何も、無いんです。ただ・・・・・」
 「・・・・・落ち着きなさい、ゆっくり話していいんだよ」
 「・・・・・和彦さん」
洸にとって緊急事態ではないのなら焦ることはない。尾嶋は何時までも待つつもりでいたが、気を遣う洸は時間を無駄に
するのも申し訳ないと思ったのだろう、そう時間を置くことなく口を開いた。

 「私の、緩んだ顔?」
 「・・・・・僕が、突然訪ねてきたら、きっと・・・・・驚くだろうなって思って・・・・・」
 「・・・・・」
(それは、全く想像出来なかったな)
 若いからか、それとも洸だからそんなことを思うのかは分からないが、尾嶋はそのことに不快感は感じなかった。相手の
色んな顔を見たいというのは、それこそ、相手に興味を持っているということでもある。
洸が、恋人としての自分の別の一面を見たいと思っているのかと思えば、尾嶋は思わず浮かんできてしまう笑みを止める
ことが出来なかった。
 「洸、お前は遠慮し過ぎる。私はお前の叔父だが、それと同時に恋人でもあるんだ。もっと甘えてくれてもいいんだぞ」
 「で、でも・・・・・」
 「もちろん、忙しい時には相手は出来ないが、こんな風に訪ねてくれることはもちろん、電話をしてくれることも、私は嬉し
いと思うよ」
 「・・・・・」
 それは尾嶋の本心なのだが、まだ洸には伝わっていないらしい。尾嶋が自分のことを気遣っているのだと思っていること
が分かるその様子に、どう言えば分かってもらえるかと考えた尾嶋は、
 「そのまま、目を開けていなさい」
そう言った。



 「そのまま、目を開けていなさい」
 「え?」
 尾嶋がどうしてそんなことを言ったのか分からなかったが、もちろん洸が嫌だと思うことはない。
言われたまま、じっと尾嶋を見つめていると、なぜか秀麗なその顔がゆっくりと近づいてきて、
(え?)
 今何が起こったのか、洸は一瞬分からなかった。それでも、唇に感じた柔らかさは、間違いなく尾嶋の唇だと思う。
わけがわからないままキスをされたようだと思った洸に、尾嶋はにっこりと笑った。
 「私のキスする直前の顔を見ることが出来るのはお前くらいだよ」
 「え・・・・・」
 「今の顔、デレっとして、崩れていただろう?お前を前にすると、私はこんな顔になるんだ。お前だけ、これからずっと見る
ことが出来るぞ」
 「・・・・・っ」
(う、嘘ばっかりっ。何時だって、和彦さんはカッコイイよ)
 今はあまりにも急だったからはっきりと覚えていなかったが、近付いてきた尾嶋の顔はとても綺麗だった。
けして、デレっとした顔ではなかった・・・・・そう思いながらも、それでもなんだか嬉しいと思う気持ちは抑えきれず、洸はど
んどんと熱くなってくる頬が赤くなっているだろうと、尾嶋から隠すために慌てて俯いた。
(僕の方が、間抜けな顔だったよね、きっと・・・・・)





                                                                    end