『そ、蒼さんっ?』
『ごめんっ、有希!匿って!』
『か、匿うって・・・・・え?あ、あの、誰かに追われているんですか?』
大切な友人の生真面目な表情と言葉に、杜沢有希(もりさわ ゆき)は青褪めた顔で辺りを見回した。
ここが自分が住むエクテシア国という大国の王宮で、その中でも一番安全な自室だということは分かっていたが、知らない間に侵
入者がいたのかもしれないと、直ぐに外にいる衛兵を呼ぼうと立ち上がった。
『ち、違うって!』
しかし、そんな有希を慌てて止めた友人は、少しだけ言い淀んでいたが・・・・・直ぐに顔を上げると、何時もの生き生きと輝いて
いる瞳を潤ませて抱きついてきた。
『有希〜っ、シエンが浮気した〜っ!!』
『えっ?』
有希がこの不思議な世界にやってきた数ヵ月後、同じように日本からこの世界にやってきた五月蒼(さつき そう)。
有希よりも2歳年上で、少しだけ小柄な蒼は、エクテシア国ではなくバリハン王国へと舞い降り、その国の皇太子シエンと恋仲に
なった。
シエンではなく、エクテシア国の王、アルティウスを伴侶に選んだ有希と同じく正式な婚儀を上げ、二組は自他共に認める熱々
のカップルになり、同じ世界からやってきたという共通の仲間意識から親交を深めていった2人だったが、お互いの伴侶の独占欲
と、距離という物質的な問題から、容易に会うということはなかなか出来なかった。
それでも、時折交わす手紙で、お互いの近況や夫(?)への愚痴などを言い合って(日本語なので他の者に内容が知られるこ
とはない)いたのだが、その手紙でも蒼のシエンへの愛情はとても感じていたのだが・・・・・。
(シエン王子が浮気したなんてこと、書いてなかったと思うけど・・・・・)
一番最近の手紙は十日ほど前に届いた。バリハンからエクテシアに来るまでの時間を考えれば、手紙を出して間もなく何かが
起こったということだろう。
『蒼さん、いったい何があったんですか?シエン王子は蒼さんをとても大切にしてることを僕も知っているし、浮気なんて絶対す
る人じゃないと思いますよ?』
『だって・・・・・っ』
何時も勝気な輝きを持っている眼差しが、今は可哀想なほど弱々しい。
有希は自分まで胸が苦しくなるような気がして思わず蒼の身体を抱きしめようと手を伸ばし掛けたが、
「いい加減にしろ」
怒りを含んだ声と共に痛いほど腕を掴まれて、有希はようやくそこに自分達以外の人間がいることを思いだした。
自分のことを深く愛しているが故、第三者に対して何時も警戒しているエクテシアの王であり、伴侶であるアルティウス。
この世界随一の大国といわれるエクテシアの美しい若き王は、幼い頃から次期王になるべく育てられた存在で、圧倒的なカリス
マ性と政治手腕を持っている半面、唯我独尊の性格でもあった。
そんなアルティウスは、神の意思で有希の世界へと赴き、その存在を自国へと連れ去った。
《強星》かもしれないという相手に興味を持ったのは確かだが、何時しかアルティウスは有希に真実の愛情を抱くようになり、半ば
強引に我がものとしてしまった。
有希も、そんなアルティウスに最初は戸惑っていたが、自分に対する思いの一途さと深さに絆される形になり、今は王妃として
隣に立っているのだ。
傲慢な性格だったアルティウスも、有希の影響で随分と人間的にも成長したが、有希に対する愛情故の嫉妬深さは日々大き
くなるばかりで、それは友人という位置にいる蒼にも向けられていた。
有希がどんなに蒼のことを親愛する相手だと言っても、蒼にはシエンという存在がいることを承知していても、面白くないという気
持ちは変わらないようだ。
今回も、突然に来国した蒼を受け入れたまでは良かったが、有希との対面の場にも政務を放り出してアルティウスは自分もそ
の場に席を用意させていたが、有希と蒼の抱き合わんばかりの距離感にどうも我慢が出来なかったらしい。
「あっ、アルティウス」
「先程から聞いていれば、私の分からぬ言葉で話しおって。ユキッ、そんなにそ奴との話を私に知られたくないのかっ?」
「そ、そんなことないよ?ごめんなさい、ついニホンゴで話してしまって・・・・・」
「お前達の国の言葉を私が知らないことを承知の上だろうっ?今何を話していたっ?洗いざらい私に言え!」
そんなアルティウスの言葉に、たった今まで泣きそうだった蒼が慌てて仲介に入ってきた。
「ちょっ、ちょっと、おーぼーだぞっ、アル!」
「煩い」
「なっ?」
「そもそも、シエン王子に何も言わず出てきたお前が悪い」
「ア、アルティウスッ」
有希はきっぱりと言い切ったアルティウスの腕を引いた。
多分、シエンの浮気というのは蒼の勘違いだと思うものの、それでも傷付いている蒼にいきなり非を突き付けるやり方は駄目だと
思う。
「ちゃんと話すからっ」
「よい。シエン王子からの書状で大体は把握している」
「「えっ?」」
それは有希だけではなく、蒼の口からも零れた驚きの声だった。
「大体、ソウが王宮を出た所であ奴が気付かないわけがないであろう。この世界でソウが頼るのはユキだけだ。そのユキのいる
エクテシアに向かうだろうというのも予測の範囲内だ」
アルティウスがきっぱりと言い放つと、蒼はあっというように口を開き、その後強く唇を噛みしめる仕草をした。
(これほどに分かりやすい子供をあやしきれないとは・・・・・シエンも青の王子とは名ばかりだな)
有希よりもずっと表情に気持ちが表れやすい蒼。その思いを王宮を出るまで気付かなかったシエンが悪いのだと思ってはいるが、
有希にべったり甘える蒼が面白くないので、アルティウスは少々言葉を強くして言った。
「そもそもソウ、お前は自覚があるのか?」
「え?」
「仮にもバリハンという大国の皇太子妃であるお前が、勝手に出歩けばどうなるか。無事我が国に辿りついたのは幸運だったか
もしれないのだぞ」
「・・・・・」
「バリハンも他国の侵略を全く受けないとは限らない。そんな時にもしもお前が人質になどなれば、それだけシエンの選択肢は
狭まってしまう。ソウ、少しは自分の浅い考えを顧みろ」
アルティウスがそう言って視線を向けていれば、蒼はますます深く俯いた。
多分、十分自分の行動を後悔しているとは思うが、たかが痴話喧嘩で有希の優しい心を痛めるなど、今後は絶対にさせないつ
もりなので少々強い口調になってしまった。
「だ、だって・・・・・」
「なんだ」
「・・・・・だって、シエンが悪いんだ!女の人にキ、キスなんかさせるからっ!!」
「えっ?シエン王子がっ?」
「・・・・・」
ようやく聞いたらしい蒼の出奔の原因に有希は目を丸くしたが、アルティウスはそこでまた1つ意味の分からない言葉を耳にして
有希を振り返る。
「きすとは何だ?」
「あ、え、えっと・・・・・口付け、です」
目元を赤くして答える有希の姿が初々しく、アルティウスは思わず頬を緩めてその身体を抱き寄せようとしたが・・・・・。
「俺っ、悪くないもん!」
そう言葉を続け、有希の腕をしっかりと抱きしめた蒼を見て、アルティウスは頬が引き攣りそうになりながらも、全てを知っている余
裕で呆れたように大きな溜め息をついてみせた。
「お前は馬鹿か」
早駆けで手元に届いたシエンからの火急の書状を目にしたアルティウスは、余計な問題を背負わされたことに対して苦々しい
表情になってしまった。
ある理由で蒼がバリハンの王宮を出奔し、どうやらエクテシアに向かっているとのこと。
その身柄の安全と、迎えに行くまでの保護を求められ、アルティウスはそのまま書状を放り出してしまいたくなった。
相手は友好国の国の皇太子妃で、自分の妃でもある有希と同じく《強星》と呼ばれる存在だ。
その上、有希とも親交があるので保護をするのは当たり前なのかもしれないが・・・・・有希と蒼の親密さを好まないアルティウスに
しては面倒なことだとしか思えなかった。
大体、女との口付け一つで腹を立てるなど、一国の皇太子妃がするような行動ではない。
いや、シエン本人も、蒼にそんな場面を見られる失態を反省しなければならないと思ったが、既にこちらに向かっている蒼の状態
を知って無視をすることも出来ず、アルティウスは仕方なく(蒼に気付かれないように)護衛兵を差し向け、問題なく王都へやって
くる手筈を整えたのだ。
「シエンがお前に見せてしまった口付けは、相手の女が勝手にしたことなのだろう?妾妃がおらず、子もまだ成していないシエ
ンの目に留まれば、正妃にはなれなくとも十分な地位を持てるからな」
「・・・・・」
蒼もそれは分かっていたのか、アルティウスを上目づかいに睨んでいるものの口は挟まない。
「その後、その女にはシエンが断りを入れたそうだ。大切な妃はただ1人しかいらぬとな。それは誰のことだ?ソウ」
「ア、アル・・・・・」
「ユキに泣きつく前に、シエン本人に訴えれば話が早かったのだと思わぬか?そのように砂にまみれた格好で、何日も旅をして
ここまでやって来るとは・・・・・本当にお前は落ち着きが無い」
「なっ、なんだよ!」
「全く・・・・・お前のような子供のどこが良いのかは知らぬが、その行動力だけは褒めてやってもいい。ソウ、シエンのことが本当
に嫌ならばこのまま我が国に滞在することを許そう。《強星》が我が国に2人・・・・・それこそ、最強の国ということだ」
シエンを捨てることが出来るかと言いながら、アルティウスは蒼を見つめる。少しだけ口元を歪めているのを隠そうとしたが、どうや
ら蒼はアルティウスの表情に気付かないようだった。
(俺が、この国に・・・・・?)
蒼はアルティウスの言葉に愕然とした。
シエンを捨てることなど、蒼は全く考えていなかった。ただ、勝手にキスされたシエンが許せなくて、その後も、女性に対して穏や
かな態度を崩さなかったシエンが分からなくて、モヤモヤとした感情を持て余してしまっていた。
相手の女性が友好関係の国の姫であることは分かっていたし、シエンが国同士の関係を悪化させないように大人の対応をし
ているということは頭の中では理解出来ていた。
それでも蒼が我慢出来ずに王宮を飛び出してしまったのは・・・・・シエンとその姫があまりにも似合っていたからだ。
男である自分が隣にいるよりもずっと、シエンの傍にいることが相応しい相手。シエンが自分に対し、申し訳なさそうな顔をしたこ
とも何だかモヤモヤして、気付けば蒼は有希に会いに行こうと思ってしまった。
同じ立場である有希に会えば、自分の中のモヤモヤの正体も分かる気がした。
(そんなこと考えてたら、砂漠の旅も怖くなかった・・・・・)
いや、厳密に言えば、蒼は1人ではなかった。
「ところでソウ、お前と共に来たあの不躾な男達は何だ?ユキを見るなりいきなり抱きつきおって!ユキの取りなしが無ければ
切って捨てるところだっ」
「あ・・・・・っと、ごめん。出て来る時見つかっちゃって、ついてくるって言われたんだ」
「バリハンの民ではないだろう?言葉も少しおかしかった」
「アブドーランの人。セルジュとアルべリックっていうんだけど」
「名前など聞かずとも良い。二度とユキに近付くなと伝えおけ。その禁を破れば、直ぐ様手打ちにするとな」
「・・・・・分かった」
砂漠を旅する時は随分と助かったが、有希に会うなり抱きついてしまったナンパな態度はアルティウスの怒りに触れたようだ。
それでもその場で剣を抜かれなかったことは良かったが。
(シエンとのことも面白がっていたし・・・・・セルジュは根っからのお祭り好きなのかも)
溜め息をついた蒼は、目の前にいる有希とアルティウスを見つめた。
以前は、暴君であるアルティウスの激情に引きずられているような雰囲気が強かった有希だったが、今はお互いがお互いを想い
合っているという様子が良く分かる。
2人の仲の良さを見れば、余計にシエンのことを思い出して苦しくなってしまった。
(黙って出てきて・・・・・悪かったかな)
とっくに、蒼が王宮を抜け出していることは分かっているはずだし、どこにいるのかもとうに分かっているはずなのに、未だ音沙汰
が無いということはシエン本人が自分に呆れたのかもしれない。
「どーしよ・・・・・」
もしかしたら、このままあの姫を妾姫にしたりするかもしれないという不安が急激に膨らんでしまい、蒼は泣きそうな気分になって
しまった。
蒼が怒りから不安に意識を切り替えたことを敏感に感じ取った有希は、そっとその手を握り締めた。
「大丈夫ですよ、きっと迎えに来てくれます」
「・・・・・でも、俺バカって言った」
「そ、それでも、シエン王子が蒼さんを好きなことに変わりないですよ」
「伴侶に暴言を吐く妃などいらぬと言うかもな」
「アルティウスッ」
その言葉が冗談だと有希は分かるが、蒼にとってはそれさえも不安をかきたてる大きな要素になってしまったらしい。ますます泣き
そうな表情になった蒼の肩を抱きしめながら、有希はアルティウスに向かって小声で諌めた。
「変なことを言わないで下さい」
「ふん」
「・・・・・もう」
今日は久しぶりの政務の合間に2人で遠駆けに行こうと約束をしていた。
そこに蒼が現れて約束がうやむやになってしまい・・・・・どうやら、アルティウスはそれも根に持ってしまっているらしい。
(僕達の時間なら、何時だって取れるのに)
確かに王、王妃である自分達は日々忙しいものの、共に暮らしているので時間は何とか捻出出来る。
それよりも、滅多に会わない蒼のことの方が有希は心配で、ついそちらを優先してしまったこともどうやら面白くないようだ。
「アルティウス、シエン王子に連絡を取って。しばらく蒼さんはここに・・・・・」
「その必要はない」
「え?」
有希の言葉を途中で遮ったアルティウスが声を掛けると間もなく扉が開き、
「ソウッ」
「シ、シエンッ?」
旅装束も解かず、真っ青な顔でそこに立っていたシエンは軽くアルティウスに目礼すると、そのまま有希と蒼のもとへと歩み寄って
きた。
「ご心配をお掛けしました、ユキ」
「シエン王子、蒼さんは」
「分かっています・・・・・ソウ」
「・・・・・っ!」
シエンが手を伸ばすより先にその身体に飛びついた蒼は、強くしがみつきながらごめんなさいと大声で謝罪していた。
「全く、人騒がせな」
突然の出来事に茫然としていた有希の肩を抱きしめたアルティウスはそう毒吐いた。
蒼が王宮を飛び出して直ぐにシエンはそれに気付いたらしいが、同行者の存在があったせいか、誤解のもとになった姫への対応
を先ず優先したようだ(蒼に杞憂を持たせないためらしい)。
同時に、蒼の行く先に見当を付けていたシエンはアルティウスに書状を送って蒼の保護を頼み、数日遅れて後を追ってきたの
が、先程到着した。
扉の影で蒼の言葉を聞いていたのだろう、シエンはその身体を抱きしめながら謝罪を続けていたが、アルティウスからすれば自
国で済ませろと言いたかった。
「・・・・・良かった、シエン王子が来てくれて」
「ユキ」
振り向いた有希の瞳は真っ直ぐ自分に向けられた。
「・・・・・アルティウスも、僕が王宮を出たら追いかけてくれる?」
「馬鹿を言うな。そもそも、私がお前を腕の中から離すわけが無い。シエンのような腑抜けと一緒にするな」
「そんな言い方・・・・・。アルティウス、僕だって男だし、何かあったら我慢なんかしないかも」
蒼さんがいるしと言う有希の言葉が戯言だと分かっていたが、アルティウスは有無を言わせずに強く身体を抱き込む。仮定の話
でも、有希が自分の傍から離れることなど考えたくはなかった。
「そのようなことをしてみろ。その足に鎖をつけて、四六時中私のもので身体を貫き続けてやるぞ」
「ア、アルティウスッ」
甘く濃密な枷をその身体に付けるのもいいかもしれないと喉の奥で笑うアルティウスに、腕の中の有希の身体は震えていた。
「本当に申し訳ありませんでした、ソウ。いくら不可抗力とはいえ、あなたに不快な思いをさせてしまった。今後このようなことのな
いよう、あの姫にも、そして他の国々にもはっきりとした通達を出しました」
妾妃がおらず、子もいない自分に自国の姫をと言って来る者は、蒼には伝えていなかったが相当数あった。
今までは自分や周りが蒼だけと決めているからと改めて言葉で言うことも無かったが、今回のことで蒼が王宮から出奔したことは
シエンにとっても大きな衝撃になった。
もちろん、当の姫には丁重に断りを入れたし、今までこちらにそれとなく申し出をしてきていた国に対しても、自分は蒼以外の者
を身の内に入れることはないときっぱりと伝えた。それをしてからでないと、蒼を迎えに行けないと思ったからだ。
蒼に同行していたのがセルジュだということは不安であったものの、行く先が有希の元だと確信出来ていたからこそ、何とか急く
心を抑えることが出来た。
それでも、こうして腕の中に蒼を抱きしめるまでは心配で不安で仕方がなかったが。
「私はソウ以外の者をこの腕に抱くことはないし、子を産ませるためだけに誰かを傍に置くこともしません」
「シ・・・・・エン」
「愛しているのはあなただけです、ソウ」
「・・・・・も」
俺もと、小さな声で答えてくれた愛しい存在をしっかりと抱きしめる。
蒼が傍にいなかった何日間もの空白を、シエンはここでようやく埋めることが出来たと思った。
「良かったですね、蒼さん」
「うん!まあ、シエンが俺以外に目をやることはないって信じてたけどなっ」
「本当にそうですよ」
「せっかくここまで来たんだし、有希、もう少し遊んで行っていい?」
「嬉しいです!料理も色々教えてくれますか?」
「もちろん!」
「迎えに来たのならばさっさと国に戻ったらどうだ」
「そうしたいのは山々ですが。ソウがせっかく喜んでいるので」
「・・・・・ふんっ、目障りだ」
「あんなに愛らしいソウの姿が目に映らないとは、アルティウス王、目が悪くなられたのですか?」
どうやら、夫同士と妻同士では、その親交の深さにも深い違いがあるようだ。
早く愛する者と2人きりになりたい夫達と、久しぶりの親しい者との再会をもう少し楽しみたい妻達の攻防は、ようやく4人揃った
今から本格的に始まりそうだった。
end