その日、非番だった関谷篤史(せきや あつし)は、久し振りに買い物をする為に電車に乗った。
普段は自転車が主な交通手段なので、高校を卒業してから電車に乗ることはめっきり少なくなってしまった。
(この時間帯って結構多いんだな)
 土曜日の、昼少し前。
空いているだろうと思っていた電車は意外にも込んでいた。ぎっちりと、身動きが出来無いという通勤時間のようなことは無いもの
の、座ることは到底無理だ。
元々性格的に、席があいていたとしても直ぐに誰かに譲ってしまう篤史は、むしろ初めからこうして立っている方が気楽だった。
(髪も切りたいよな〜。思い切って今日行こうかな)
 乗降口の窓ガラスに映った薄い自分の姿を見ながらそう思った時、
 「・・・・・?」
(な、んだ?)
篤史は下半身に違和感を感じた。
明らかに、誰かの手が、自分の尻に、触れているのだ。
(う、嘘だろ?俺、女には見えないよな?・・・・・気、のせい?)
 篤史の服装は、普通のシャツにジーパン姿だ。
最悪、女装していたら分からないが(もちろん、仕事の一環としてだ、けして自分の趣味ではない)、今の自分は誰がどう見たって
男・・・・・年齢は若く見られるかもしれないが、男でしかないはずだ。
 篤史はその感触がもしかして気のせいなのかもしれないと思い直そうとしたが、どう考えても尻の丸みを確かめるように触れてくる
のは誰かの手・・・・・しかも、感触からすれば女ではなく明らかに男だ。
(う、嘘だろ、痴漢に遭っちゃってるのか、俺〜!)
情けなくて、動揺して、篤史は握っている吊り輪をギュウッと握り締めてしまった。





 関谷篤史(せきや あつし)は、去年の春にこの町の交番に勤務するようになった、まだまだ新米の警察官だ。
当初は刑事に強く憧れてこの世界を選んだのだが、今では町のお巡りさんというのも結構重要な役目なのだと自負するようにな
り、今現在、誰よりもこの仕事に誇りを持っていると胸を張って言えた。

 通常の交番勤務では、それほどの重要な事件というものは無い。
篤史は忙しいながらもある程度決まった日常を過ごしていたが、ほんの数ヶ月前からその生活は一変するようになった。

 それは、三ヶ月近く前に、とある事件のせいで知り合ってしまった、警視庁のある人物のせいだ。 
警視庁の警部というその人物は、篤史の憧れる刑事像とはまるで違う・・・・・性格もいいかげんでドスケベで、でも顔だけはや
たらにいい男で、身長も体格も、篤史が欲しいと思っているものを十二分に兼ね備えていた。
・・・・・緒方竜司(おがた りゅうじ)。どうやら男はやり方は問題だが、かなり優秀な人物らしい。
 会うなりキスもされてしまったことは今だ消せない汚点で、その上緒方の知り合いというフリージャーナリストの本郷真紀(ほんご
う まさき)にも変に気に入られて、さらにまた、近所の歯科医、深町駿介(ふかまち しゅんすけ)にも迫られて、平和なはずだった
篤史の日常は途端に賑やかに、慌しく変わってしまっていた。





(くっそ〜、何にも出来なかったなんて、警察官失格じゃないか!)
 結局、篤史は次の駅までずっと尻を触られたまま、声を出すことも出来なかった。
本来ならば積極的に痴漢を摘発しなければならないのに、あまりの驚きと、同時に男なのに痴漢をされてしまったという恥ずかし
さで、どうしても声を上げることが出来なかったのだ。
 買い物も出来ず、髪も切りに行けなかった篤史は、いったい何のために休日に出掛けたのだと、先程からデスクに向かったまま
何度も大きな溜め息を付いていた。
 すると・・・・・。
 「どうした、悩ましげな顔して」
 「・・・・・っ」
 「そんな顔も可愛いが、下手に晒しているとまた変なのが寄って来るぞ」
 「・・・・・もう、来てますけど!」
 「どこに?」
 「ここに!」
顔を上げた篤史はピシッと指差して目の前の人物を指した。
 「おいおい、人を指差したら失礼だろ」
 「失礼って感じる神経あるんですか?あなたが」
 「生意気言っちゃって・・・・・お仕置き」
そう言うと、面前に突き出した篤史の人差し指をいきなり掴むとそのまま口に含んで舌で舐める。
 「ひゃあ!」
驚いた篤史は思わず手を引くと、大事な制服で濡れた指を拭いながら顔を真っ赤にして叫んだ。
 「何セクハラしてるんですかっ、緒方警部!」



 「冷たいな〜、篤史。水道の水じゃなくって、せめてミネラルウォーター出してくれ」
 「それも十分飲める水です!」
 きっぱりと言い切った篤史は、交番にやってくるなりセクハラをしてきた男を睨みつけた。
古びた交番の、古い事務用椅子に、嫌味たらしく長い足を組んで座っているのは、最重要要注意人物の緒方だ。
本来、交番勤務の篤史よりも遥かに忙しいはずの警視庁の警部が、なぜ頻繁にこうしてこの交番に来れるのか分からないが、
篤史は自分がこの男の部下でなくて本当に良かったと思った。
もしも自分がこの男の下に付いていたら、仕事以外の余計なフォローをかなりしなければいけないような気がするし、セクハラだっ
て所構わずされそうだ。
(あ・・・・・)
 そう思った篤史の脳裏に、先程まで考えていた痴漢のことが再び思い浮かび、自然と眉が寄ってしまった。
 「どうした?」
 「・・・・・」
 「篤史」
 「だから、名前で呼ぶのはやめて下さいってば」
口は直ぐに反論が飛び出すが、それも物思いにふけていればそれほどきつい口調にもならない。
そんな篤史をじっと見ていた緒方は、不意に立ち上がると座っている篤史の後ろからガバッと抱きついた。
 「なっ、何するんですか!」
 「言わないと、このままどこまでするか分からないぞ?」
 脅す言葉を低く甘い声で言いながら、緒方は篤史の耳をパクッと噛んだ。
 「うわあ!」
噛まれたのも舐められているのも耳なので、ピチャッという艶かしい水音が嫌でも鼓膜に響いてしまう。
篤史は必死で身を引こうとするが、緒方の拘束はビクとも揺らがなかった。
 「いいのか、篤史、このまま進んでも?」
再度そう言われ、
 「わ、分かった!言います!」
結局、篤史は降参するしかなかった。



 恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら、篤史は昨日電車の中で痴漢に遭ったことを告白した。
明らかに男だと分かる痴漢に触られた上(まだ痴女の方がましだ)、抵抗も出来なかったことを小さな声で言い終わると・・・・・。
 「そりゃ、仕方ねえな」
 「・・・・・は?」
思い掛けない緒方の反応が返ってきた。
 「仕方ないって?」
 「お前はそそるから。分かる奴が見りゃ、なまじの女よりもよっぽどいいんだって」
 「・・・・・それって、セクハラ発言です」
(だから言いたくなかったんだよ!)
見るからに男・・・・・それも極上にいい男の部類である緒方には、小さな頃から可愛いとしか言われたことの無い自分の気持ちな
ど分からないだろう。
言うんじゃなかったと唇を噛み締める篤史の耳に、更に緒方の言葉が届いた。
 「でもま、面白い話じゃねえな」
 「・・・・・」
 「俺も、自分のもんを見ず知らずの奴と分け合うなんてごめんだし」
 「お、緒方警部?」
 「いっちょ、懲らしめるか」
 「え?」
いったいどこからそういう話になったのか、篤史は妙に楽しそうな緒方を怪訝そうに見つめた。





 そして、次の土曜日。
有給を取った篤史は、先週と同じ時間に同じ電車に乗り込んだ。
込み具合はほとんど同じだが、篤史の心境としては複雑だ。
(本当に緒方警部いてくれるんだろうな)

 「一度泣き寝入りしたら、また狙われるからな。同じ電車に乗れば、絶対に触ってくる」

 緒方の言葉ももっともだと思うが、もしかしてもう一度触られるようなことになるのかと思うと篤史は怖くて不快でたまらない。
先週と同じ様に窓ガラスに映る自分の顔を見ていれば、先週とは全く違う強張った表情をしていた。
(・・・・・)
 「・・・・・っ」
 不意に、誰かが自分の真後ろに立った気配がした。
(ま、まさか・・・・・)
 「先週も、いたよな?」
 「!」
まだ若い感じの声が耳元で聞こえた。篤史の全身に寒気が走って、反射的に身体が逃げそうになる。
 「もう一度触って欲しくなったんだろ?・・・・・なあ、次の駅で一緒に降りようぜ」
 「・・・・・っ」
(うわっ、お、緒方警部!)
涙目になった篤史が焦ったように視線を巡らすと、直ぐ近くに見慣れたいい男が立っていた。
 「お、緒方・・・・・さんっ」
ここで警部と言ってもいいのかどうか、一瞬躊躇った篤史ににやっと笑い掛けると、緒方はそのまま篤史の後ろにいる男の耳元に
口を近づけた。
 「何勝手に人のもんに触ってるんだ?」
 「!」
 息を飲む気配がして、今まで篤史の尻に触れていた手が遠退いた。
篤史は直ぐに後ろを向き直ったが、そこに立っていたのはどうやら20代半ばくらいの、普通にスーツを着たサラリーマンの男だった。
(こいつが、痴漢?)
あまりにも普通な感じの男に驚いている篤史をよそに、緒方は男の退路を塞いだまま楽しそうに言葉を続けた。
 「お前男専門か?こいつが女じゃないっていうのは、少し触れば分かるだろ?」
 「な、何だよ、お前ら・・・・・俺を脅す気かっ」
 痴漢は立派な犯罪だ。
捕まれば社会的地位も失うし、もちろん処罰も受けるだろう。
しかし、青褪めた男に向かって緒方が言ったのは、ごく一般的な・・・・・いや、とても警察官の言葉とは思えないものだった。
 「い〜や。俺の見えないとこで罰くらっても面白くねーだろ」
 「お、緒方、さん?」
 「篤史、お前、被害届出せるか?」
 「あ・・・・・」
 篤史はようやく気が付いた。
痴漢は現行犯逮捕が鉄則で、そこには当然被害者がいなければならない。
しかし、男で、しかも警察官である篤史が痴漢の被害届を出すのはかなりの勇気がいるし、もしかしたらどこぞのマスコミが面白
がって騒ぎ立てるかもしれない。
(そ、そんなの困るし!)
 ただ、このまま男を解放してしまえば、第二、第三の自分のような被害者が出てしまうかもしれない。
それだけは警察官としても許せなくて、篤史は矛盾する思いをどうしたらいいのか、思わず縋るように緒方を見つめてしまった。
そんな篤史の視線を受け止めてくれたらしい緒方は、少しだけ目を細めて篤史に笑い掛けると、そのまま痴漢男に低い声で言っ
た。
 「悪いが、このまま野放しにも出来ないんでな、少しばかり痛い目をみてもらうぜ」
 「むおっ!!」
 突然、男の呻き声が車内に響く。
しかし丁度トンネルの中に入ったせいで騒音が激しく、直ぐ側の乗客達はなんだという不思議そうな顔で周りを見ていたが、誰も
真っ青になって脂汗を垂らす男の存在に気付くことはなかった。



 「な、何をしたんですか?」
 次の駅で男がヨロヨロと逃げ出すのを見送った篤史は、本当の事を聞くのが怖かったが・・・・・訊ねた。
すると、緒方は吊り輪を持っていない左手を目線まで上げて軽く振ってみせる。
 「ちょっと、握ってやっただけだ」
 「え?」
 「右手じゃないだけましだろ?」
 「・・・・・」
(い、痛そう・・・・・)
何を、どう握ったのか、篤史は細かく聞くことは止めた。あの痴漢男の真っ青な顔と引けた腰を見れば、それが左手だったからとい
う意味などないように思える。
(ま、あ、あれで痴漢は止めるだろうな・・・・・多分)
それどころか、男さえ止めるんじゃないだろうか・・・・・そう考えてしまった篤史は思わず首をプルプルと振ったが・・・・・。
(・・・・・え?)
 なぜか、下半身に再び違和感を感じた。
(え?だ、だって、痴漢はさっき・・・・・)
確かに電車を降りていったのを見たが、篤史の尻を撫でる手は止まらない。
いや、以前よりも執拗に、尻たぶだけではなく割れ目にさえもすっと指先を走らせるその行為はずっと濃厚で、篤史は怖くなって思
わず目の前の緒方の腕を掴んでしまった。
 「お、緒方さんっ」
 「ん?」
 「う、後ろ、後ろに・・・・・っ」
 「後ろ?お前の後ろには誰もいないだろ?」
 「・・・・・は?」
(そ、そういえば・・・・・)
篤史の身体は乗降口の隅にあって、その左右と後ろに人が入る隙間など無い。
あの痴漢男から次の駅まで逃げられなかったのも、半分はその立ち位置のせいだった。
(え?じゃあ・・・・・これ・・・・・)
 「!」
 今だ触れている手。
ニヤニヤ笑いながら、篤史を見下ろしている緒方。
その2つが結びついた時、篤史はカッと顔を真っ赤にして、思い切り緒方の足を踏みつけた。





 −翌日ー



 「あんなの、恋人同士のちょっとしたプレイだろ」
 「・・・・・」
 「その前に、俺、あいつの気持ち悪いの握っちゃったし」
 「・・・・・っ」
 「ちょっとした口直しっていうか・・・・・」
 「・・・・・仕事の邪魔です、痴漢魔緒方警部」

 昨日、電車の中に緒方を置き去りにして帰った篤史は、自分の布団の中で悔し涙を流した。
(何が悔しいって・・・・・感じちゃったことだよ!)
触っているのが痴漢だと思った時にはあれほど嫌悪感を感じていたのに、その手が緒方のものだと分かった瞬間、自分のペニスが
僅かに反応してしまったのだ。
それが悔しくて、動揺して、緒方の足を踏みつけて逃げ出したのだが・・・・・。
(絶ーっ対に、知られちゃ駄目だ!)
 絶対に顔を見られたくないと思った篤史は、緒方が交番にやってきた直後からずっと机に座りっぱなしだ。
 「篤史」
 「・・・・・」
 「あっちゃん」
何を言われても、どう呼ばれても、絶対に顔を上げないと決めていた篤史の耳に、楽しそうな緒方の声が聞こえた。
 「溜まってるんなら手伝ってやるぞ?俺の指はゴールドフィンガーだからな」
 「へ、変態!」
堂々とそんな事を言う緒方が信じられなくて思わず顔を上げた篤史の目に、にやっと悪戯っぽく笑う・・・・・悔しいほどにいい男の
顔が映った。



 「真っ赤な顔して・・・・・本当に可愛いな、お前は」





                                                                      end