「あっちゃん、おはよー!」
「おはよう!横断歩道は走らないようにな!」
「はーい!」
ランドセルを背負った子供達が、片手を上げて元気良く返事をする。
その光景に目を細めながら、篤史はチラッと腕時計に目を落とした。そろそろ午前8時だが、登校する小中学生の姿はまだ途切
れる事は無い。
「あ!」
その時、通学路の道路に車が進入してこようとしてきた。ここは午前8時半までは一般車両は進入禁止になっているのだが、
幹線道路への抜け道としてかなりの車が違反を犯しているのだ。
週に2回、ここに立つ篤史も、もう何度注意したかも分からない。今も商用車のワゴンタイプの車に駆け寄ると、童顔といわれる
顔に精一杯の威嚇を込めて叫んだ。
「今は進入禁止です!直ぐに戻りなさい!」
関谷篤史(せきや あつし)は、去年の春にこの町の交番に勤務するようになった、まだまだ新米の警察官だ。
当初は刑事に強く憧れてこの世界を選んだのだが、今では町のお巡りさんというのも結構重要な役目なのだと自負するようにな
り、今現在、誰よりもこの仕事に誇りを持っていると胸を張って言えた。
通常の交番勤務では、それほどの重要な事件というものは無い。
篤史は忙しいながらもある程度決まった日常を過ごしていたが、ほんの数ヶ月前からその生活は一変するようになった。
それは、とある事件のせいで知り合ってしまった、警視庁のある人物とその周りにいる人物のせいだ。
警視庁の警部なのに、性格もいいかげんでドスケベで、でも顔だけはやたらにいい男で、身長も体格も、篤史が欲しいと思って
いるものを十二分に兼ね備えている緒方竜司(おがた りゅうじ)と。
緒方に負けないくらいの長身に、短かく刈った黒髪に鋭い視線。 見た目は硬派なのに、緒方とは類友であるフリージャーナリスト
の本郷真紀(ほんごう まさき)に。
ノーブルな容貌に優しい眼差し。なのに、可愛い男の子が好きらしい近所の歯科医、深町駿介(ふかまち しゅんすけ)。
揃いも揃って我が道を行くといったタイプの男達に振り回され、篤史は忙しくて頭の痛い日々を送るようになっていた。
町のお巡りさんである篤史にとって町の安全、とりわけ子供の安全を守る事は大事な任務だった。
出来れば毎日この交差点に立っていてやりたいが、他にもパトロールのコースがあるのでそれも出来ない。
(みんなが標識を守ってくれれば良いんだけどなあ)
警官の制服を着た篤史が立っていても、強引に突破しようとする者がいるのだ、日本は法治国家じゃないのかと篤史ははあと溜
め息をついたが・・・・・。
「あっちゃん!」
「あっちゃん、おはよー!」
「あ、おはよう!」
元気な子供達の声で、篤史はハッと我に返る。
(溜め息ついてる場合じゃないって、俺!)
篤史は気持ちを切り替えると、再び顔を上げて交通整理を始めた。
朝の交通整理が終わった篤史は、交番に帰る為に自転車で走っていた。
既に通学時間は終わっているし、もちろん出勤時間もとうに過ぎているので、まだ店も開いていないこの時間帯では人影はまばら
だった。
「あっ」
そんな、交番へと急いでいた篤史は、視線の先にある一方通行の路地に車が入っていくのを見た。
黒のベンツという、ちょっと一般人にはハードルが高そうな車。もしかしたら、あの車の持ち主は一般人とは少し違う方かもしれな
いが、もちろん市民の公僕である篤史に怖いからという理由は無い。
「待て〜!!」
自転車を立ちこぎにして慌てて追い掛けた篤史は、ふとこの道は袋小路になっていることを思い出した。都心とは少し離れたこの
界隈はいわゆる下町と呼ばれる場所で、昔ながらの小さな道が入りくんでいる。知らない人間はよく迷い込むのだが、もしかした
ら今の車もそうなのだろうか?
(それでも、違反はやっぱり見逃がせないし!)
篤史が車の消えた道へと入っていくと、丁度向こうから車がバックで出てきた。どうやら通り抜けない道だと分かったらしい。
「止まれ!」
篤史は自転車を降りて手を振った。
「止まるんだ!」
さすがに警官の服を着ている篤史を無視出来なかったのか、それとも狭い道に立ちはだかっている篤史が邪魔だったのか、車は
篤史の数メートル手前で止まり(轢かれてしまうかとドキドキしたが)、運転席と助手席から男が1人ずつ降りてきた。
運転席の男は篤史よりも年上だろうがまだ20代のようで、着ているスーツも少し安っぽい。だが、助手席から降りてきた男は30
代後半らしく、さすがにスーツも着こなしていた。
そんな2人に共通しているのは・・・・・。
(やっぱり・・・・・そっち系か)
篤史はさすがに内心怯む気持ちが無いわけではなかったが、それでも自分は警察官なのだという気持ちを奮い立たせてきっぱ
りと言った。
「こ、ここは進入禁止です!」
「・・・・・で?」
「で、って、だから、違反なんで・・・・・っ」
若い男は何を言うんだと不遜な態度で篤史を見下ろす。体格は負けているが気概だけは負けないと、篤史は震えそうになる手
をギュッと握り締めた。
「違反なので、免許を提示してください」
「・・・・・」
「見えなかった」
「え?」
「そんな標識見えなかったな。別に事故を起こしたわけじゃないんだ、このまま行っても良いだろう」
「そ、そんなこと出来る訳ないだろっ!」
「・・・・・お巡りさん」
思わず叫んでしまった篤史に、次に話しかけてきたのは年長の方の男だった。
さすがに運転手の男よりも穏やかな話し方だが、その声は遥かに低く威圧的で・・・・・篤史はらしくも無く肩を揺らしてしまう。
(俺っ、しっかりしろ!)
「な、なんでしょうか」
「これで、分かりますね?」
男は上着の内ポケットから分厚い財布を取り出すと、全く数を数えないまま一掴みの札を差し出した。
「・・・・・なんですか」
「罰金よりも多いんだ、構わないだろう?少し急いでるんでこのまま失礼するよ」
「・・・・・っ」
(これで違反から目を瞑れって言うのかっ?)
確かに進入禁止の反則金は数千円で、今篤史の目の前に差し出された金額(多分、2、30万位か)と比べるとはるかに安い
ものだ。
しかし、篤史が言っているのは罰金を払えということではなく、違反した事を認めて反省しろという事で、これだけの金を貰ったから
後は良いということではない。
むしろ、警察官である自分を買収する気かとカッと頭に血が上り、今まで怖いと思っていた男に向かって思わず食って掛かった。
「警察官を買収出来ると思うなよ!」
「買収?こんなはした金、小遣いみたいなもんじゃないか?」
「違反を揉み消してもらおうなんて、立派な買収行為だ!」
「・・・・・ふ〜ん」
「・・・・・っ」
男の口元が上がった。
そっち系の人間にしては人相が悪いと言えないほどに整った容貌だが、それでも暢気にカッコいいなどと言える余裕も無い。
ずっと男が近付いてくるごとに無意識に後ずさってしまった篤史の背は、やがて止まったままの黒塗りの車にぶつかる。
(き、傷付けたら・・・・・っ)
更なる因縁を吹っかけられたら困ると慌てて車を振り返った篤史は、運転席から僅かに見えた後部座席に誰かが座っているのが
分かった。
初めは、若い男と出てきたもう1人の男が地位のある人物だと思っていたが、どうやらもっと大物が車の中にいるようだ。
(そうだよな、親分が車の外に出てくるなんてあるわけないか)
ようやくそう思考がそちらに向かったが、どちらにせよ自分が今ピンチなのは変わりない。
(ど、どうする・・・・・っ?)
「お巡りさん、名前は?」
「・・・・・ど、どうして?」
「そんな制服来て、まさか偽物ってわけじゃないんだろ?だったら、名前ぐらい言えるな?」
立場的には篤史の方が上のはずなのに、歳が上だからというわけではないだろうがどうしても押されてしまう。
しかし、ここで名前を言わないのもおかしいだろうと、篤史は震える声を抑えて言った。
「関谷、篤史だ」
「関谷篤史、ね」
「・・・・・」
(教えない方が良かったり、して・・・・・)
「・・・・・あっちゃん」
少し、面白そうな口調で名前を呼ばれ、篤史は立場を忘れて思わず叫んでしまった。
「あ、あっちゃん、言うな!」
「・・・・・お巡りにしては可愛い顔してるじゃないか」
自分の方へと伸びてくる男の手を呆然と見つめていた篤史は、その手が自分の顎に触れた瞬間思わず目を閉じてしまう。
その時、
「気安く触んなよ」
軽い口調のその声に、篤史は思わず振り向いた。
「ど、な、ええっ?」
丁度、一方通行の標識がある辺りに立っていた人物・・・・・それは、篤史がよく知る、そしてあまりお近付きになりたくない相手
・・・・・緒方竜司だった。
とても刑事に見えない緒方は昼の街中よりも夜の繁華街が似合うフェロモンたっぷりの男だ。そうでなくても仕事に関しても不真
面目な緒方が(これで刑事として優秀だとはとても信じられないが)こんなに朝早くからこんな町中にいるとは思えなかった。
(ゆ、幽霊?)
本当にそこに立っているのかと何度も瞬きをしていると、篤史の心中を察したのか緒方が苦笑しながらゆっくりと近付いてきた。
「おいおい、足はあるだろ?」
「・・・・・ほ、ホントだ」
(確かに足はある、けど・・・・・)
「緒方警部、こんなに朝早く・・・・・もしかして朝帰りですかっ?」
篤史の事をあれ程口説いてくるくせに、篤史が知らない所ではかなり遊んでいるのかもしれない。
面白くなくて、それ以上にそう思っている自分がショックで、篤史は思わす今取調べ中の(相手はそう思ってはいないかもしれない
が)男を置いて緒方を睨み上げた。
そんな篤史を、楽しそうに見下ろしている緒方の顔は寝起きとは思えないほどに相変わらずカッコいい。
無意識の内に見惚れてしまった篤史は、
「おい」
置いていかれた形の車の男に声を掛けられて、パッと緒方から飛び退いた。
(お、俺、何考えてたんだ?)
今は違反をした男達を取り調べる事が先だと思い直した篤史は身体の向きを変えようとしたが、そんな篤史の前に立ちふさがっ
た緒方が年長の男に向かって言った。
「粕谷(かすや)、お前らが朝っぱら動くから、俺まで担ぎ出されてんだよ」
「・・・・・緒方さん」
「え?」
(緒方警部、この人知ってるのか?)
篤史の驚いた表情に、緒方が目を細める。
「俺は、こいつら相手が本職」
「こ、この人達・・・・・」
(ぼ、暴力団担当だったんだ)
緒方と知り合って数ヶ月、彼が警視庁の警部だという事は早いうちに分かったものの、よく思い返せば彼が何の担当なのか知ら
なかった。いや、聞いたのかもしれないが、聞き逃していたのかもしれない。
彼が警視庁の警部だという事だけでも驚きだった篤史は、考えれば彼の事をあまりよく知らなくて・・・・・。
(わざと黙っていたわけじゃないだろうけど・・・・・)
篤史の驚きを面白そうに見ていた緒方は、やがて男・・・・・先程緒方が粕谷と呼んだ男を振り返った。
「今日は何の集まりだ?」
「・・・・・別に、たまたまここを通っただけですよ」
「お前のボスを連れてか?」
そう言いながら、緒方は車の後部座席の窓ガラスをドンッと掌で叩く。真っ黒のスモークを貼った中は全く見えず、篤史にはその気
配も感じられないが、先程とは違った緊張感がその場を支配しているのを肌でヒシヒシと感じていた。
篤史の交番の管轄内には暴力団事務所は無く、これまで暴力団が関係した事件も無かった。そういう存在がいるとは頭の中
では分かっていたものの、身近には感じていなかった・・・・・そういうことかもしれない。
(こ、怖いとか、思うはず無いけど・・・・・)
「粕谷、中にいるのは若頭の松江(まつえ)だな?」
「・・・・・それが、何か?単に車の中にいたとしても何の問題もないでしょう?持田(もちだ)」
「は、はいっ」
粕谷に名前を呼ばれ、若い方の男が直立不動になった。
「お前が道を間違えて違反を犯したんだ。このお巡りさんの言う通りにしろ」
「はいっ」
「・・・・・っ」
(な、何だあ?)
先程まで、全く自分達が悪いという態度を見せなかった男達が、緒方の出現で180度態度が変わってしまった。
違反を認めてもらう事はもちろん大切だが、だからといってこの態度の変化を無条件で受け入れるのは多少の抵抗感があった。
(俺が、俺だけじゃ、頼りないってこと、だよな)
悔しいと思う。
警察官として、いや、同じ男として、完全に負けたような気がして、篤史は緒方の顔が真っ直ぐに見れなかった。
交通の違反キップを持っていなかった篤史は、その男を連れて近くの交番まで行って手続きをした。
車と他の男達はその場に残した状態だったが、緒方がその場に残っていてくれたので逃げる事はなかった。
全てが終わり、交番の自分の机の椅子に座った篤史は、どっと疲れて深い溜め息をつく。
「どうした?」
「・・・・・」
すぐ隣の先輩の椅子に腰掛けた緒方が、まるで篤史に見せ付けるように長い足を組みながら声を掛けてきた。
仕事の手伝いをしたんだからとお茶を要求され、今回は追い返す為の出がらしのお茶を出すわけにもいかず、それでも薄めのコ
ーヒーを入れて出した。
口を付けた緒方は一瞬篤史の顔を見たが、文句を言わずにそれを飲んでいる。
「・・・・・」
「・・・・・」
無視をした方がいいかもしれないが・・・・・。
「・・・・・ざいます」
「ん?」
「・・・・・」
「何を言ったのか聞こえないなあ」
「・・・・・ありがとうございました!!」
あの場面で緒方が出てきてくれて助かったのは事実だ。ここで礼を言わなければ後々ずっとネタにされるかもしれないと、篤史は
椅子から立ち上がってペコッと深く頭を下げて言った。
「助かりました!」
「・・・・・本当に?俺、出ない方が良かったんじゃないか?」
「・・・・・いえ、多分、俺だけじゃ・・・・・」
(あのまま、絶対に丸め込まれていたか・・・・・脅されて黙ったかもしれない・・・・・)
警察官としてのプライドを持っているつもりだが、まだまだ自分は弱い・・・・・。
「・・・・・っ、ちょっと、失礼します」
情けなくて、泣きそうだ。
それでもそんな顔を緒方には見られたくなくて、篤史は奥の控室に駆け込んだ。
篤史の後ろ姿を見送りながら、緒方は薄いインスタントコーヒーを口にした。
(可愛いな、本当に)
男としてのプライドをきちんと持っているのに、それでいて可愛いというのは貴重だ。
(あいつらのせいで朝っぱらから呼び出されたが、たいしたことでもないらしいしな)
篤史が若い男と交番に向かった時、残った緒方は粕谷から情報を聞き出した。本部へのタレコミは結構大きな話だったが、聞
けば近々行われる法事の話のようだった。多分、それは嘘ではないだろう。
「・・・・・ま、朝から篤史と会えたからいいか」
珍しく弱々しい篤史も見れたことだし、この後、もしかしたら楽しい展開になるかもしれない。
(そう簡単にいかないところが面白いんだがな)
多分、緒方がそんな事を考えているとは全く思いもしていないだろう。
ドアが開く鈍い音を聞きながら、戻ってくる篤史にどんな誘い文句を囁こうかと、緒方はワクワクしながら視線を向けた。
end