「・・・・・」
 倉橋克己(くらはし かつみ)は、腕時計を見た。順調なフライトは予定通りの到着だ。
(まだ、ギリギリ店は開いているか・・・・・)
 一本早い便で帰京出来たので、なんとか間に合いそうだ。無意識のうちに口元に浮かぶ笑みに気付かないまま、倉橋は急
いでロビーを横切った。




 関東最大の暴力団『大東(だいとう)組』の傘下、『開成(かいせい)会』の幹部。
今まではその肩書だけだったが、この春から倉橋には、いや、倉橋の仕える主にはもう一つの名前が増えた。

 大東組、理事。

 まだ三十代の主にとっては異例の出世で、その分、期待や嫉妬も半端ではなく大きい。
一度はその候補に挙がりながらも策を講じて断った主が、二度目の推薦では引くことなくそれを受けた。そこには彼なりの思惑
もあっただろうし、何より倉橋がどうこう言うことではない。
 ただ、そうでなくても経済ヤクザとしてその名を轟かせていた主が、さらに理事になったことによってさまざまな仕事が増えたこと
は確かだった。
 開成会の組員の数は少ない方ではなかったが、大東組の仕事を任せられるものはまだ少なく、そのしわ寄せはかなりの確率
で倉橋の肩に圧し掛かっていた。
 『何時もすまない』
 『気になさらないでください』
 主・・・・・開成会の会長であり、大東組の理事である海藤貴士(かいどう たかし)の労いの言葉は倉橋の疲れやプレッシャ
ーを一気に蹴散らしてくれ、彼の功績を一つでも多く積み重ねるために日々奔走した。
 倉橋にとって、海藤は生きていくための道標だった。
大学時代、後輩として出会った、どこか自分と似ている彼が突き進んでいく未来に、自分も必死でついてきた。
 今では様々なことに目を向けることが出来、思いがけない感情まで抱けるようになったが、それらはすべてこんな自分に手を差
し出してくれた海藤のおかげだと思っている。彼のために自分が出来ることは何でもするつもりだった。




 大東組関連の仕事では、国内さまざまな場所に出向く機会も増えた。
海藤自らが動くこともあったが、倉橋はそれらの仕事を選別し、海藤の出張を出来るだけ少なくしようと努力していた。
 それは、この東京に彼の一番大切な人がいるからだ。
海藤は感情を表に出す方ではないが、それでも倉橋は彼が何時もその人を想い、気遣っているのを感じ取っている。
言葉には出さないからこそ、自分が何とかしなければ・・・・・そう思い、今回も自分だけが四国と関西を回ってきた。
 その間、5日間。
日々忙しさに追われていたが、何とか役目を終え、6月1日に帰ってくることが出来た。
(選ぶ時間、あるだろうか・・・・・)
 物に執着しない自分が、唯一何時間も考えてしまう大切な物。
数日前からずっと考えてきたが、実際に物を見てやはり違う方がと気持ちが変わってしまうこともありそうだ。だからこそ、少しでも
早く帰ってきたのだが。
 「・・・・・」
 時間は迫っている。
倉橋は5日前に東京を立つ日のことを思い出した。








 「え〜っ、どうしても行かなくちゃいけないの〜?」
 「ええ。大東組の組長からお預かりしたものもありますし」
 淡々と告げる倉橋に恨めしげな視線を寄越してくるのは、同じ開成会の幹部である綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)だ。
甘く整った華やかな顔を、今は渋く顰めて、じとっと倉橋を見据えてきた。
(・・・・・仕方がないじゃないか)
 何時もなら、多少文句は言うものの、仕事に関しては物分かりのいい綾辻がここまで不貞腐れているのにはわけがある。
数日前の5月20日、倉橋は大東組の総本部長に呼び出され、日付が変わってから事務所に戻ってきた。それが、綾辻には
不満だったのだ。
 「大体、克己の誕生日も本部長に取られちゃったのよ?」
 「取られたなんて・・・・・それは少し違うと思いますけど」
 彼が、倉橋の誕生日など知るはずもなく、たまたまその日に所要が重なっただけのはずだ。
 「本当?何も変わったことなかった?」
 「ええ、何も・・・・・」
なかったと言おうとした倉橋はふと口を噤んだ。
 「克己?」
 「あ、いえ・・・・・」
 そう言えば、夕食時にワインを出された。
酒に弱く、何より仕事で来ているという気持ちが強かったので何とか断ろうとしたが・・・・・。
 『特別に選んであるものだ。君の口にも合うと思うが』
 その言葉通り、あまりアルコール分が強いとは思えず、珍しくグラス半分ほど飲んだくらいだった。
(もしかしたら、あれは・・・・・)
気のせいと言えばそれまでだが、若くして総本部長にまで上り詰めた人物だ、どんな些細なことでも頭に入っているのかもしれ
ない・・・・・と、思ってしまった。
 「何かあったのね?」
 倉橋の表情の変化を覚った綾辻が、恨みがましい視線を向けてくる。
 「・・・・・何もありませんでした」
 「克己」
 「仕方がないじゃありませんか。子供でもあるまいし、誕生日を気にして仕事を断るなんてありえません」
 「私は、あるんだけど」
常識的なことを言ったつもりだが、綾辻にこんな表情をされるとなんだか自分が悪いことをしてしまったような気分になってしまう。
倉橋も、せっかく自分の誕生日を特別に思ってくれている綾辻の気持が嬉しくないはずではないので、前々からずっと考えてい
たことを提案してみた。
 「私の誕生日は不可抗力でしたが、あの・・・・・来月のあなたの誕生日は・・・・・」
 「克己っ?」
 途端に、綾辻の顔が輝いた。
そうでなくても、倉橋の目から見れば眩しい彼の容貌が、さらに輝いて見える。
 「私の誕生日は一緒にいてくれるのねっ?」
 「・・・・・は、い」
 倉橋にとっては、自分の誕生日などよりも周りの大切な人の誕生日の方がはるかに大切だ。それは、海藤のものであったり、
彼の大切な人のものであったり、そして・・・・・。
(あなたの生まれた日も、私にとってはとても大切な日なんですから・・・・・)
 普段はなかなか態度や言葉で綾辻への思いを表わせないが、特別な日だったらそれを理由に彼に対して何か出来ることが
嬉しい。
 そんな倉橋の思いをわかってくれたのか、綾辻は濃厚なキスの後楽しみにしていると上機嫌で言ってくれた。








 それなのに、今回唐突な命令での出張。
さすがにすぐに返答出来なかった倉橋をその目で見たせいか、綾辻は文句を言わずに仕方がないわねと苦笑してくれた。
 許してくれたからといってそのまま何もしないということは出来ず、出張中も時間が空けばプレゼントを探したが、慣れない土地
では簡単に見つけることは出来なかった。
 こうして遅くなっても1日に東京に戻ってきたのは、目をつけていた店が閉まるまでに行きたいという思いがあってこそだ。
 「・・・・・」
普段から早足の倉橋だったが、今はその比ではない。タクシーを早く捕まえなければと焦る気持ちそのままに足を急がせて外に
出ると、
 「・・・・・雨か」
降り始めたばかりらしい雨に気づいて足を止めた。
 飛行機の中から見た空は雲が多いように感じたが、雨が降っているといった様子もなかったはずだ。
事務所に帰るまでは十分持つだろうと思っていたのだが、どうやら天気はこちらの思い通りにはなってくれないらしい。
本来なら迎えの組員が待機している自分は雨に濡れることなどなかったはずだったが、倉橋はあらかじめ迎えを断っていた。
第三者がいると、少し困るからだ。
 急がなければ、タクシーがなくなってしまうかもしれないと再び歩き出そうとした時、不意に視界を何かが過った気がした。
 「!」
荷物が取られると思った瞬間に手を伸ばし、手を掴んで後ろ手に捻ろうとしたが、上手くかわされて手が空を切った。
そればかりではなく、反対に手首を取られてしまい、倉橋はすぐに相手を振り切ろうとして顔を上げ・・・・・。
 「あ・・・・・」
その相手を見て、あまりの驚きに間抜け面を晒してしまった。
 「ど、して・・・・・?」
 帰京の時間は知らせなかったはずだった。
 「私の情報網を甘く見ないでね〜」
 「・・・・・」
その言葉に慌てて後ろを見てしまう。
 「や〜ね、誰も付けさせたりしてないわよ」
 「で、ですが」
 今日、この時間で帰るというのは、昼過ぎになって決まったことだった。組に知らせたのは飛行機に乗る一時間ほど前で、そん
なにも急な予定変更をどうして綾辻が知っていたのだろうかと不思議でたまらない。
 倉橋がまだ驚きから覚めない気分で綾辻を見つめていると、茶色がかった瞳が悪戯っぽく細められた。
 「それよりも、克己、何か言うことない?」
 「い、うこと、ですか?」
 「ええ」
 何かを楽しそうに待っている綾辻に、倉橋は何とか意識を集中して考える。
彼がここにいる理由は改めてゆっくりと聞くとして、まずは出迎えてくれた綾辻に一番に言わなくてはいけないことは・・・・・。
 「ただいま、帰りました」
(ま、間違ったか?)
 口にした瞬間、綾辻が驚いたように目を見開いたのに気付き、倉橋は焦って俯いてしまった。
つい、帰った挨拶をしなければと思ったのだが、綾辻のこの反応では全然間違ってしまったことを言ってしまったようだ。顔が熱く
て、耳まで赤くなっているのではないかと恐れ、とにかく綾辻の視界から出来るだけ逃げようと背を向けようとしたが、
 「もーっ!」
 「あっ」
いきなり叫んだかと思うと、倉橋は長い腕の中に閉じ込められていた。
 「あ、綾辻さんっ、離してくださいっ」
 タクシー乗り場に続く歩道には、思ったよりも多くの人影がある。ビジネスマンらしき男性や、旅行帰りらしい若い女性のグルー
プなど、彼らはみな興味津々といった様子で自分たちを見ている気がする。
いや、それはきっと気のせいではなく事実だ。
 「離してください・・・・・っ」
 大きな声を出したり、激しく抵抗したらそれこそ目立ってしまう。倉橋は羞恥を押し殺し、綾辻にされるがままに棒立ちになり
ながら小声でそう言った。
 「いや」
 「・・・・・っ」
 「克己があんまり可愛くて死にそうなの」
 「な、何を言っているんですかっ」
 自分のどこが可愛いのだ。180センチを超える身長のある男の自分をそんな風に思う人間なんて綾辻以外絶対にいないだ
ろう。
そんな言葉で誤魔化されないぞと思い、倉橋は綾辻の爪先を踏む。痛みはそんなになかっただろうが、倉橋が怒っていることに
ようやく気付いてくれたのか身を離してくれたが、それでも腰からは両手を離さないまま楽しげに言った。
 「ただいまって、言ってくれたでしょ?てっきり、おめでとうって言ってくれるかなって思ってたからびっくりしたの」
 「・・・・・あ」
(私は・・・・・馬鹿だ!)
 倉橋は唇を噛みしめた。
何のために早く帰京したのか・・・・・それは綾辻の誕生日プレゼントを買うためだ。その綾辻に会って一番に言わなければならな
いのは祝いの言葉のはずなのに、いくら焦ったからと言って普通の挨拶をしてしまった。
 恥ずかしくてたまらず、倉橋はとにかく綾辻から距離を取りたかったが、綾辻はそんな倉橋の動きを許さなかった。
 「からかってるわけじゃない」
 「・・・・・」
 「自分が克己の帰る場所になっているんだって思うと・・・・・たまらなく嬉しかったんだ」

許してくれよ。

怖々目を向けた先の綾辻の顔は情けない表情をしていて、男っぽい言葉とのギャップがかなりある。
(私なんかの、あんな・・・・・言葉で?)
 それこそ、綾辻に対する賛美の言葉は数多くあるし、きっと、誕生日の今日は彼は多くのプレゼントをもらっていると思う。
そんな中で、こんな言葉を嬉しいと言われ、倉橋は羞恥からじわじわと気恥ずかしいような嬉しさに襲われてしまった。
 倉橋の雰囲気が変わったのを感じ取ったのか、綾辻は拘束を解いてそのまま手を握り、あいた方の手で鞄を取ってしまうと、
駐車場の方へと歩き始めた。
 「車、待たせているんじゃ・・・・・」
 「お迎えは私1人よ」
 「あなた、だけ?」
 「だって、お邪魔虫がいたらキスも出来ないもの」
 「・・・・・いなくても、しませんよ」
動揺してばかりでは悔しいので何とかそう言い返したが、綾辻はその反応さえ予想していたかのように楽しげに笑いながら軽く
手を引っ張り、その拍子に倉橋は綾辻の背にぶつかった。
 「可愛くないこと言うと、キス以上のこともしちゃうわよ」
 「な・・・・・っ」
 言ったと同時に、密着した倉橋の耳たぶに濡れた感触がしたかと思うと、そのまま軽く噛まれてしまう。
ピチャッという音が妙に大きく響いて首を竦めれば、顔のすぐ横に鞄があった。
 「あんまり、可愛い顔を他の男に見せちゃいやよ」
 何度可愛くないと訴えても、どうやら綾辻の目にはフィルターが入っているらしい。
文句を言おうとして口を開きかけた倉橋は、ふと気付いて口を噤んだ。今日が何の日か唐突に思い出し、まだ自分から祝いの
言葉も言っていないのだ。
 恥ずかしいなどと言ってはいられなかった。
 「・・・・・綾辻さん」
 「克己?」
何時もと違う反応に、綾辻が少しだけ真面目な声で訊ねてくる。そんな彼に向い、倉橋はじっと視線を合わせてゆっくりと言っ
た。
 「・・・・・誕生日、おめでとうございます」
 海藤によって生かされた自分は、綾辻によって生きる喜びを知った。
愛しい彼の生まれた日に、この言葉を贈らないではいられない。プレゼントより何より、倉橋はこの思いを伝えたいとじっと綾辻
を見つめていると・・・・・。
(・・・・・赤くなった)
 ゆっくりと逸らされた綾辻の目元が赤くなったのがはっきりと目に映った。
こんなことで動揺する綾辻がなんだか可愛くて、倉橋は少しだけ笑う。
 「・・・・・可愛いですね、あなた」
 「・・・・・っ、言うわね」
 覚えていなさいと呟かれたことは聞かなかったことにしよう。
何を買っていいのかわからなかったプレゼントも、本人を連れていけばきっといいものが見つかるような気がする。倉橋はまだ握
られたままの手に、今度は自分の方から力を込めた。





                                                                      end






綾辻さんの誕生日編。
これでもこの2人には十分色っぽいはず。