(・・・・・いた)
仲谷修史(なかや しゅうじ)は、何時も乗る快速電車の何時もの場所にいた人物を見付けて思わず顔を綻ばせた。
周りよりも頭一つ分くらい高い身長に、自分のようにスーツに着られているのではなく、きちんと着こなしている身体つき。
今時のモテル顔よりは少し精悍で十分男らしい彼は、電車が動き出すと視線を彷徨わせて・・・・・修史を見つけるとにっこりと
笑い掛けながらこちらに歩み寄ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
満員電車とまではいかないものの、それなりに混雑している車内を移動してくるのはかなり大変なことだろう。
しかし、ぶつかって怪訝そうな顔をするOLも、いい男が申し訳なさそうに謝ると途端に表情を緩める。
むしろ引き止めたそうにしているくらいなのに、相手はそのまま真っ直ぐ修史の元に来てくれるのだ。
「何時も早いな」
「清重(きよしげ)さんこそ」
躊躇い無く名前を言えるようになるまでどのくらい掛かったか。
修史は目を細めて笑い掛けてくれる清重に何とか笑みを返しながら、鮮明に覚えている半年ほど前の出来事を今日も思い出
していた。
半年前。
丁度社会人になってから2年目に入るという3月直前、修史は急な部署移動を命じられた。
それは修史の失態ではなく、本当に人手が足りなくなってしまった上での移動のようで、どちらの部署の部長にも急にすまないと
謝られた。
自分がそれほど優秀だとは思っていない修史は、頭を下げてもらって返って申し訳なく思っていたが、新しい部署で3月末に入っ
てくる新入社員よりも先に覚えなければならない仕事は山積みで、毎日朝早くから夜も残業という日々が続いていた。
そんな時、朝の通勤電車で、修史は痴漢に遭ってしまったのだ。
初めは寝不足の為になかなか気付かなかったが、やがて意図的に尻に触れてくる手にハッと顔を上げた。
次に、これは女と間違えられたのかとも思ったが、スーツのズボンを穿いている上に、手は尻から前に伸びてきても少しも躊躇うこ
とは無かった。
快感なんか、感じるはずが無かった。
怖くて、恥ずかしくて、声を出すことも出来なかったし、身じろぎをすることも出来なかった。
ただ、早く次の駅に着いて欲しいと、それだけを考えていたが・・・・・。
「大丈夫?」
その時、不意に声を掛けられた。
顔を上げると、電車の窓に、修史よりも遥かに身長の高い若い男が映っている。
「このまま動こう」
「え・・・・・」
途惑う間もなく、修史は男に肩を抱かれるようにして近くの出入り口のドア付近まで連れて行かれた。
少し空間が空いていたそこで、修史は男と初めて向かい合った。
「騒がない方がいいかと思って・・・・・捕まえた方が良かった?」
周りに聞こえないように小声で言ってくれる男に、修史は慌てて首を横に振った。
「い、いえ、あ、ありがとうございました」
男の身で痴漢に遭うなど恥ずかしくて、さりげなく助けてくれた男に感謝する。
狭い空間で、それでも頭を下げようとした修史に、男が頭上で苦笑する気配がした。
「いいよ、そんなの」
「あの、でも・・・・・」
「いい思い出じゃないことは、早く全部忘れた方がいい」
そう笑う顔が、とても印象に残った。
翌日、修史は再び男の姿を見つけて、改めて礼を言った。
かえって悪かったと笑ってくれた男とは、自分が電車を降りるまでの30分間話をすることが出来た。
男の名前は清重駿生(きよしげ としき)。
修史よりも3歳年上で、かなり有名な大手の外資系の会社に勤めているということ。
海外転勤から戻ったばかりで、今は一先ず実家にいて、会社に近いマンションを探している最中だということ。
タクシーや車よりも時間に正確な電車で通勤しているということ。
聞き上手で、話し上手。
引っ込み思案な自分とは正反対だ。
優しげだといわれる自分の容姿とは全く逆の、男らしく整った顔と堂々とした体躯。
何時しか、修史は清重に憧れるようになり、電車の中で話せる30分間の時間をとても貴重なものに思うようになった。
「え?マンション見付かったんですか?」
「ああ、やっと。早めに引越しはしたいんだけど、なかなか時間が取れなくてね。もうしばらくはこの電車に乗ることになるかな」
「そ・・・・・ですか」
(引っ越しちゃうのか・・・・・)
いずれはと、思っていた。
自分とは収入も立場もまるで違う清重が、何時までも早朝の満員電車に乗っているわけがないのだ。
それでも、それが現実に見えてしまった時、修史は思った以上にショックを感じている自分に気が付いた。
そして、ようやく自分の気持ちに気が付いたのだ、清重に恋をしているということを・・・・・。
マンションが見付かったと聞いてから1ヶ月近く経った。
何時が最後になるかと思いながら、今日も修史は笑顔で清重に歩み寄った。
「おはようございます」
「おはよう。ん?なんか今日は嬉しそうだな、何かあったのか?」
修史の些細な変化にも気付いてくれるほどに見てくれているのかと思うと嬉しい。
修史はにこっと笑って頷いた。
「やっと、仕事も落ち着いたし、会社の近くにアパートが見付かったんです。もうこれで電車通勤しなくても良くなると思うと嬉し
くて」
「・・・・・引っ越すのか?」
清重の声が僅かに低くなったような気がする。
しかし、多分それは気のせいだろうと、修史は頷いた。
「痴漢のこと、友人に言ったら心配してくれて・・・・・彼が探してくれたんです」
1日1日、清重と離れなくてはならないことを考えるだけで悲しくなった。
同じ男同士、想いを告げることはもちろん出来ないが、会うことさえ叶わなくなってしまったら・・・・・自分はそれこそ立ち直れなく
なりそうなほどに落ち込むだろう。
そうなる前に、これ以上清重を好きになる前に、そっと自分から身を引いた方がかなり精神的には楽な気がした。
自分が引っ越しせいで、清重とも会えなくなるのだ。
彼が、自分から離れたというわけではない。
気持ちの切り替えだが、それが修史にとっては一番いい方法のような気がした。
これで、ゆっくりと彼を諦める時間が持てるのだ。
「そっか・・・・・」
「今度の日曜日に引っ越すんです。だから、これに乗るのは今日で最後・・・・・今までありがとうございました」
修史が頭を下げると、清重は眉を顰めたまま首を横に振った。
「礼を言われることは無いけどな」
「でも、助けてもらったし」
「直ぐには動かなかった」
「色々、楽しい話もしてもらいました」
「・・・・・俺の方こそ、相手をして貰っただけだけどな」
「それでも、ありがとうございました」
この言葉を、もう何度も練習した。
初めは言うたびに泣きそうになったが、本番の今日はどうやら自分は笑えているようだ。
清重にとっても、いずれは忘れるだろうが、自分のことをいい思い出だと思っていて欲しかった。
初めて誰かを好きになったのは、中学生になった時だった。
もちろん相手は女の子だったが、その頃から大人しい自分とは違い、クラブ活動でも活躍し、クラスでも一番の人気者の明るい
少女だった。
好きだとは、言わなかった。
ただ、時々話す何気ない日常会話を、宝物のように大切に思っていた。
きっと、自分はあの頃と変わっていないのだろう。
臆病で、卑怯で、どうせという言葉で全てを諦めてしまっている。
ただ、今回の恋の相手は男の清重だ。
諦める前に、絶対に叶わない恋なのだ。
「あ・・・・・」
何時の間にか、電車は何時も修史が降りる駅に着いた。
今日が自分の人生の中で一番大切だと思える時間でも、日常生活は何時もと変わらずにそこにある。今ここで降りて、会社に
向かわないといけない現実が待っている。
「あの・・・・・じゃあ」
やはり、顔は見ていられなかった。
こんなに人がたくさんいる中で泣く事はとても出来ない。
電車を降りたらトイレに入ろう。
せめてそこまでは我慢しようと決めた修史はそのままペコッと頭を下げ、急ぎ足で電車を降りた。
「・・・・・っ」
(は、恥ずかしいっ)
泣くのを我慢し過ぎて顔が真っ赤になっている気がする。
火照った頬を押さえながら俯いた格好で階段を下りようとした修史は、
「!」
いきなり、強い力で腕を掴まれた。
「・・・・・っ」
振り向いたそこには・・・・・。
「え・・・・・き、ちが・・・・・う・・・・・」
この駅で降りるはずのない清重がそこにいた。
少し怒ったように、そしてどこか焦ったようなその表情に、修史は何とかそれだけを口にした。
「悪かった」
「・・・・・え?」
唐突に、清重が謝ってきた。
「お前を追い詰めたくて引越しのことを言ったのに、まさか逃げようとするとは思わなかった」
「き、清重さ・・・・・」
「引越しはもうとっくに済んでる。それでも、お前に会う為に、お前の乗る駅から同時に乗って、その次の駅で降りてたんだ。馬
鹿だと笑ってもいいんだぞ」
いったい、清重は何を言っているのか、修史は混乱した頭では考えることが出来なかった。
それでも、清重は掴んだ修史の腕を離さないままに言葉を続けた。
「痴漢に遭って、涙目でいるお前を見て欲情した。男をそんな対象に見たことがなかったから、俺自身も自分の気持ちを確か
める為に時間を掛けた」
欲情?
「知れば知るほど、控えめで大人しいお前が気になって、俺を気遣ってくれる眼差しや言葉が嬉しくなった。好きだと確信した
のも、それほど時間は掛からなかったよ」
好き?
「でも、お前の気持ちが分からなかったから・・・・・好意を持たれていることは感じていたが、それが恋愛感情かどうかは分から
なかったから、思い切って仕掛けてみたんだ、この電車には乗らなくなるって。そう言えば、お前から告白してくれるかもと思ってい
た」
告白?
「でも、それは俺の傲慢だったな、すまなかった。もうお前と会えなくなるかもしれないって思った時、もうプライドなんか考えられ
なかったよ。・・・・・修史、お前が好きだ」
「う・・・・・そ」
「嘘じゃない。これっきり会えなくなるなんて我慢出来ない。会社や名前だけじゃなくって、携帯の番号や家も知りたい。お前を
もっともっと知りたい」
「・・・・・」
「素直じゃなくて、悪いな」
言葉が、出ない。
信じられないことばかり言われて、どうしていいのか分からない。
想像したこともない、清重からの想い。
通勤途中の駅のホームで、人数は少ないながら客も駅員もいるという現実の中で、その言葉だけが夢のような感じだった。
「修史」
「・・・・・」
「修史、お前も、俺のこと・・・・・好きだろう?」
頷いても、いいのだろうか。
後で、あれは違うのだと、思い切り笑われてしまわないだろうか。
「・・・・・」
それでも、涙で曇る視界を見上げれば、そこには見たこともないような自信なさげな清重の姿がある。何時もは自信たっぷりの
彼のそんな表情に、修史はポロポロと零れる涙を止める事が出来ない。
もう、構わなかった。
これが後で夢だと分かったとしても、こんな風に幸せな思いを感じられたのだ。
伝えることも、持ち続けることも、諦めなければと思った想い。
言えるだけで、幸せかもしれない。
「・・・・・好きです」
その瞬間に目に飛び込んできた清重の嬉しそうな笑顔を、自分はきっと忘れることはないだろう。
「俺も、好きだ」
想い続けることを許されたと、修史の頬にもようやく小さな笑みが浮かぶ。
今度は、2人で想い合うという時間が始まるのだ。
end
サラリーマン同士の恋話です。
キスも交わしていない純情話を、急に書きたくなったんですよね。
読み返したら少し照れくさいですけど(笑)。