「ぼっちゃん、遅いですね〜」
「何時も帰って来る時間は過ぎてますよね?」
「伊崎、見に行かなくてもいいのか?」
「津山が付いていますから」
そう言いながらも、伊崎は事務所の壁に掛けてある時計を見上げる。確かに何時もより30分近く遅い感じがするが、楓に付
いている津山からの連絡はなく、何か変わったということは無いのだろう。
(いったい、何なんだ?)
心配と疑問が入りくんでしまって、伊崎は胸ポケットに入れている携帯を取り出そうとして・・・・・止めた。
「今日はみんな帰すなよ?」
朝、そう言って学校に行ったのは、ヤクザの組日向組の次男である日向楓(ひゅうが かえで)だ。
女以上に美しいと評判の容姿端麗な楓はもう直ぐ卒業式を迎える高校3年生だった。
普通ならば煙たがれ、避けられる立場にあるはずだったが、かなり昔から地元で地域と共存してきた日向組を悪く言う者は少
なく、その上、楓自身の魅力が否が応でも人を惹きつけた。
切れ長の目に、通った鼻筋、丸みを少し残した頬に、小さめの赤い唇。肌の色は真珠のようで、身体付きも華奢ながらしなや
かだ。
頭の上から足の爪先までが全て完璧な楓は、自分のその魅力を十分利用し、学校では天使のように清らかで愛らしい存在
に、夜の街では冷たく我儘な小悪魔に、その立場によって様々に顔を変化させていた。
そんな楓の一番近くにいるのが、日向組若頭、伊崎恭祐(いさき きょうすけ)といってもいいだろう。
楓とは違う種類の秀麗な美貌の主である伊崎は、幼い頃から楓の世話係として常に傍に付いていたが、楓の為に若頭という
地位になり、そして・・・・・お互いに多少の誤解はあったものの、今では熱い恋人同士だった。
しかし、ずっと楓だけを見つめてきた伊崎は、かなりの歳の差と立場の違いを自覚しているせいか、普段は一線を引いて接し
ているので楓はそれが不満らしい。
それでも、長い間ずっと想い合っていた2人は、今も幸せの最中だった。
若頭という地位に就任し、それなりの権限を持つことが出来るようになった伊崎だが、反面楓にずっと付いていることが出来な
くなった。
そんな楓に付くようになったのが津山勇司(つやま ゆうじ)だ。感情の起伏は乏しいものの、頭も切れて腕の立つ津山は適任
だと思っていた。まさか、そんな津山が楓に思いを寄せるようになるとは思わなかったが。
楓に好意を持っている津山を常に楓に付けているのは心配ではあったが、津山が楓の意思を無視して押し倒すということは
考えられなかった。
今も、こんな風に遅くなっていると聞いても、そういった意味での心配はしていない。むしろ、顔に似合わず喧嘩っ早い楓の行動
の方が心配だった。
伊崎や他の組員の心配をよそに、楓が帰ってきたのは何時も帰る時間よりも1時間遅い頃だった。
「ただいまあ〜!」
「ぼっちゃん!」
「楓さんっ」
「お帰りなさい!」
本来は直ぐに母屋に戻る楓だったが、今日はなぜか組事務所の方へとやってきた。
偏差値が良いと評判の高校のブレザーを着た楓は、心配して口々に名を呼びながら近付いてくる組員達ににっこりと笑って言
い切った。
「お前達、用意をしろ」
「用意?」
「?」
「楓さん、いったい何をしようとしているんですか?」
一同の疑問を代表して言った伊崎に、楓は分からないのかと首を傾げて見せた。
「今日は節分だろ」
「節分?」
「豆撒きをするぞ!ほらっ、準備、準備!」
幼い頃、ヤクザの家の子供だと言われて、楓はなかなか友達が出来なかった。
今思えば、一方で邪まな気持ちを抱いて楓に近付こうとして来る者は多かったが、子供らしい遊びを同世代の子供達と出来
なかった楓は、その代わりのように組員達に遊んでもらっていた。
お正月に、子供の日。七夕に、お月見、クリスマス。
当然、節分も組員を鬼に仕立てて楓は思い切り豆をぶつけていた。
成長した楓のことを考え、父は高校に入学した年には大きな行事(クリスマスや正月)以外はしない方が良いだろうと決めた
のだが、楓は子供の日は自分の小遣いでかしわ餅を買ってきたし、七夕には竹と短冊(竹は楓のファンという先輩からもらったら
しい)を用意した。
イベントを楓も楽しんでいるということが、まるで親兄弟と同じような思いを(それ以上の思いの者も多々いるだろうが)楓に対
して抱いている組員には嬉しいようだった。
「ああ、今日は3日でしたね」
「朝、恭祐が何も言わなかったから忘れていると思ったよ。ほら、豆」
そう言って楓が津山を振り返ると、津山は黙って机の上にスーパーの袋を置いた。
「ちょうど行きつけのスーパーの前に豆売りの男がいてさ、ウインク一つで3つもオマケをして貰ったんだ」
「・・・・・楓さん」
「いいじゃん、向こうがあげるって言ったんだし」
自分の美貌の威力を熟知している楓は、くれる物は遠慮なく貰うという主義だ。もちろん、それを引き換えに相手が何か要求
してくる時は容赦しないが(楓の周りが見逃さない)、それ以外の無害なものには全く躊躇をしない。
「楓?」
「おかえり、楓」
「あ、父さん、兄さん、ちょうど良かった、はい、これ」
楓の声を聞きつけたのか、奥から出てきた父で既に引退している雅治(まさはる)と、現組長で兄の雅行(まさゆき)に、楓は
にこにこ笑いながら鬼の面を差し出す。
反射的に受け取ってしまったらしい雅行は、強面の顔に僅かな困惑を浮かべた。
「おい、俺が鬼か?」
「普段鬱憤溜まっているみんなが、こういう時しか兄さんに対抗出来ないじゃん。なあ?」
「・・・・・」
楓は同意を求めて組員達を振り返るが、組長の前でそうですと率直に言える勇気などない組員達は、皆ざわざわと騒ぐだけで
返事をしない。
そんな情けない組員に対し楓は眉を顰めたが、直ぐに気を取り直したかのように兄を振り返って可愛らしく微笑んだ。
「お願い、強い鬼って、父さんと兄さんしか思いつかないんだもん」
「楓・・・・・」
「楓・・・・・」
共に、親馬鹿、兄馬鹿の2人だ。
思わずつられるように頷き掛けたが、その2人を止めたのは伊崎だった。
「鬼は私がします」
「えーっ」
「その家の長が豆をぶつけられるのはあまり良いものではないですから。去年までだって若い者にさせていたんですし、私でも良
いでしょう?」
自分の意見が却下された楓は不満そうだったが、雅治と雅行はどことなくホッとした表情だった。
可愛い楓の言うことはどんなことでも聞いてやりたいのだが、さすがに組員達に豆をぶつけられるのは長としての沽券に関わって
しまう。
「いいじゃないか、楓。こいつらの鬱憤晴らしには伊崎が最適かもしれないぞ」
「なに、それ」
兄の言葉に楓は頬を膨らませるが、雅行はそれには答えずにチラッと伊崎を振り返る。
「そうだよなあ、伊崎」
「・・・・・上の者に対する不満はあるでしょうけどね」
(何を考えているんだか・・・・・)
意味深な雅行の言葉に、伊崎は表面上は穏やかに答えた。しかし、その全身は突き刺す視線を意識して強張っている。
多分・・・・・雅治は自分と楓の関係に気付いている。気付いていて・・・・・知らないフリをしているのだ。それはけして2人の関
係を認めたという事ではなく、その事実を事実として認めないということだというのも・・・・・分かっている。
(これは、前途多難だな)
伊崎は、何時までも楓との関係を周りに秘密にしておくつもりは無い。それには、楓の父や兄である相談役と組長にもそれを
伝えなければならないということだが、彼らの掌中の珠ともいえる楓を貰い受けるには半殺しにされる覚悟も甘いかもしれない。
(それでも、楓さんを諦めるつもりは無いが)
「よし!みんな用意出来たかっ?」
「おー!!」
しばらくは面白くなさそうな顔をしていた楓だったが、兄と父に説得されてどうやら気分を変えたらしい。手に持った枡の中に買っ
た大豆を大量に入れ、組員達を振り返って叫んだ。
所用や仕事でいない組員を除いて、今ここにいるのは26人。それに、楓と雅治、雅行がいる。
「恭祐っ、準備はいいかっ?」
「はい」
鬼役の伊崎は、豆を買った時に付いていたらしい面を着けて振り返った。
「じゃあ、いくぞっ?鬼は外!!」
楓が伊崎に向かって豆をぶつけた。愛情ある痛み・・・・・と、いうよりはもう少し痛かったが、その瞬間の楓の楽しそうな顔を見た
ら全く痛みも感じない。
だが・・・・・。
「鬼は外!」
「鬼は外!」
「鬼は出て行きやがれ!!」
「鬼の野郎!!」
いきなり、大豆の嵐が襲い掛かった。
「・・・・・っ?」
伊崎は急いで事務所の中から広い庭へと逃げる。
「あっ、恭祐っ?」
「待てっ、鬼野郎!」
「逃げるのかっ、鬼め!」
楓が追い掛けるより先に、組員達が・・・・・主に若い連中が必死に後を追い掛けて豆をぶつけてきた。
楓のような愛情のある投げ付けではなく、力任せの、どちらかといえば憎しみさえ感じさせるようなそれに、伊崎は逃げながらも
疑問が湧いてきた。
(いったい、どうしたんだ?)
「鬼は出て行け!」
「自分ばっかり、楓さんとイチャイチャしやがって!」
「俺達だってっ、楓さんともっと仲良くしたいのに!」
「自分ばっかりずるいぞ!!」
「・・・・・!」
(なんだ、こいつらはっ)
豆撒きでは絶対に聞かないような言葉がぶつけられる。そこでようやく、伊崎はこの豆をぶつける力の強さが分かった。
長年楓の世話係をしてきた伊崎は、恋人という関係を除いても楓の特別だった。今は津山が楓の世話係として付いているも
のの、それでも楓が先ず頼り、笑顔を向けるのは伊崎だ。
組員達は、みんな伊崎が羨ましかった。
年嵩の組員達は、幼い頃から知っている楓を自分の子供のように可愛いと思っているのだが、若い組員達にとって楓は手が届
かない、それでも自分達にとっては特別な存在だった。どんな女よりも綺麗で、子供のように我が儘で、それでも世間からはみ
出した自分達を大切に思ってくれている。
好きにならない方がおかしいだろう。
「くそっ!」
そんな、楓にとって特別な存在でいる伊崎が羨ましいと普段から思っている彼らは、こんな正当な理由(節分の豆撒き)があ
る時にこそ日頃の鬱憤を晴らそうと、かなりの本気を込めて豆をぶつけてきているのだ。
「鬼は外!」
「鬼は外!!」
「ははっ、恭祐っ、母屋にも行けよ!みんな、鬼を追い出せ!」
「はい!」
いっせいに叫んだ組員達は、楓の許可を貰ったと嬉々として伊崎を追い掛ける。
「逃げろよっ、恭祐!!」
何時に無く張り切る組員達を見て楽しそうに笑っている楓は、今伊崎がどんな事を思いながら逃げているのか全く分かっていな
いだろう。
「お前ら!鬼はきっちり追い出せよ!」
さらに、組長である雅行がはやし立てる。
「・・・・・っ」
(後で教育しなければならんなっ)
伊崎は敷地内をくまなく走りながら、この後の始末はどうつけようかと考え続けていた。
その後の組員達がどういう教育を受けたのか・・・・・それは楓は全く知らない、日向組の極秘事項である。
end