朝のHRのために教室に向かった紺野雅人(こんの まさと)は、ふわぁと欠伸を噛み殺した。
(こんな寝不足な顔してちゃ駄目なんだけどなあ〜)
都内の公立高校、瑛林(えいりん)高校の日本史の教師である雅人にとって、この時期はめまぐるしいほどに忙しい。
2年生の担任なので受験関係でというわけではないのだが、そろそろ中堅として数えられている立場の雅人は卒業式の準備
や入試の準備など、日々の雑用に追われていたのだ。
 もちろん1人でやっていないが、何にでも全力投球の雅人はつい自身の許容量以上の仕事を抱え込んでしまい・・・・・今朝
も同居人に諌められたところだった。

 「自分自身の力を過信しない方がいい。一度立ち止まって後ろを振り向いてみたらどうだ」

 淡々とした口調。
何時も理路整然と意見を述べ、表情にも口調にもほとんど感情を見せない彼。
他人以上に自分にも厳しく、その職務にも誇りを持っている人。
 雅人には考えもつかないほど多忙で、重要な役を担っている彼の言葉はとても重く、同時に、他人には無関心な人が自分の
ことを気に掛けてくれていたのが嬉しくて、叱られているというのに顔が綻んでしまった。
 もう少し、余裕を持たなければ。
そう考えながら、雅人は教室のドアを開ける。
 「おは・・・・・」
 「鬼は外!」
 「うわっ」
 挨拶は最後まで言えなかった。それは、いきなり投げつけられたものに驚いたせいだ。
 「お、おに?」
伊達眼鏡をしているので目に当たることはなかったが、突然のことに何が何だか混乱していた。
そんな雅人の反応を想像していたのか、教室の中にいた生徒たちは歓声をあげ、さらに楽しげに腕を振り上げる。
 「コンちゃんはうちでいーぞー!」
 「はあ?」
思わず聞き返してしまった雅人に、さらに何かが投げつけられる。その何かを足元を見て確認した雅人は思わず叫んだ。
 「教室で豆まきするなー!!」




 「ごめんって、コンちゃん」
 「許してください!」
 「コン様!」
 首謀者3人を放課後居残りさせた雅人は、謝ってくる3人をじろっと見つめ、トントンと無言で机を叩く。
 「・・・・・ホントに反省文5枚も書くのかよ〜」
 「俺死ぬ〜」
口ではギャーギャー言っているが、一応手は動いているようだ。案外素直な彼らを見ていると何時までも怒り続けていることは
出来なかった。
 「本当に反省しているのか?」
 「「「してます!!」」」
 声が揃って、雅人は声を出して笑ってしまう。
 「よし」
 「え、じゃあ、書かなくてもいーのっ?」
 「明日までの宿題にしてやるから帰っていいぞ」
一応、朝の騒ぎは隣のクラスにも知られ、そこから学年主任にも話がいっているので罰の形は残さなければならないが、彼らに
とっての貴重な放課後の時間は解放してやろうと思った。
 何より、ここ最近の忙しさですっかり忘れていた世間の時間の流れを思い出させてもらい、雅人は少しだけ、彼らに感謝する
気持ちがあるのだ。
 「コンちゃん、バイバイ!」
 「月曜日な!」
 雅人の気が変わらないようにと、3人は焦って教室を飛び出していく。図体ばかりデカイが、こんなところは本当にまだ子供だな
と笑いながら、雅人も椅子から立ち上がった。
 窓から外を見てみれば、何時の間にか雪が降り始めている。
 「うわ・・・・・積もらないだろーな」
今年の冬はとても寒くて、つい先日は都内でもかなりの積雪があった。3年生の担任の先生たちは、『スベル』ということに敏感に
なってピリピリしていたくらいだ。
雅人は少しおかしかったが、自身が受験生の担任になったことを考えたら同情する気持ちの方が大きかった。
(・・・・・今日は早めに帰るか)
 買い物をしなければならないし、帰りの足が雪のせいで遅くならないように今日はさっさと帰らせてもらおう。
雅人はそう決めると、足早に職員室に向かった。




 買い物は済ませた。
夕飯の用意もしたし、後は同居人を待つだけだ。
 「・・・・・あ、止んでる」
 心配していた雪も今は止んだようでホッとしていると、玄関先のインターホンが鳴った。
エントランスからの連絡がなく、直接ここまで来られる人間は1人しかいない。
雅人はエプロンをつけたままパタパタと玄関先に向かったが、鍵を開ける前にドアは外から開かれた。
 「お帰りなさい!」
 「・・・・・ただいま」
 満面の笑顔で出迎えると、一瞬目を見張った同居人・・・・・宇佐見貴継(うさみ たかつぐ)はちゃんと応えてくれた。
一緒に暮らしていく上での、最低限のマナーとしての挨拶はすること。それは最初の約束だった。
 「塚越(つかこし)さんも、お疲れさまでした」
 「ありがとうございます」
 宇佐見の補佐らしい塚越は、毎日こうして律儀に玄関先まで宇佐見を送ってくれる。警視庁組織犯罪対策部第三課の警
視正という立場の宇佐見は、なにやら随分と大変な立場らしい。以前、かなり柔らかい表現だったが、命を狙われることもある
のだと塚越から説明を受けてびっくりした。
 そんな相手と同居することに戸惑いがまったくなかったわけではないが、一方では何とかなるんじゃないかと楽観的に考える。
見掛けはともかく、自分も男なのだ、守られるばかりではない。
 「それでは、私はこれで」
 「・・・・・」
 何時ものように塚越は一礼して言う。
それにただ頷くだけで応答した宇佐見は玄関を上がり、雅人は塚越を見送ってドアの鍵を閉めるというのがいつもの日課なのだ
が。
 「塚越さん、お時間ありますか?」
 雅人は帰ろうとした彼を呼びとめた。何時もとは違う雅人の行動に、塚越は咄嗟に別の意味を考えたらしい。
 「何かあったんですか?」
 「雅人」
何時の間にか、宇佐見も引き返して来て険しい眼差しを向けてくる。
なんだかシリアスモードの2人の顔を交互に見ながら、雅人はちょっと待ってくださいと言い置いて奥へと戻り、テーブルの上に用
意していたものを手にとって再び玄関へと戻ってきた。
 塚越は雅人が持っているものに目をやると、思わずと言ったように笑みを浮かべる。
 「私が鬼役でしょうか?」
 「違いますよ」
雅人は、いまだにわけがわからないという(表面上はあまり変化がない)様子の宇佐見を振り向いて言った。
 「鬼役は、一家の大黒柱がするって決まってますよね?」
 「・・・・・鬼役?」
 「鬼も、ちゃんとうちに入れてあげますから」
 スーパーで買ってきた豆の袋に付いていたプラスチックの鬼の面を差しだし、雅人は突っ立ったままの宇佐見の腕を掴んで部屋
の中に誘う。モデルルームのような綺麗なマンションの中で豆まきするのもなんだか楽しそうだなと、雅人自身が一番楽しんでいる
かもしれなかった。




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 「・・・・・節分」
 2月3日がそう呼ばれていたことは知っている。ただ、実家では家政婦が形だけ豆をまいていて、義父も母もまったくそんな行
事に関心はないようだった。
 元々、一年の行事もほとんど家族で行ったことはない。ただし、正月だけは盛大で、後継ぎである宇佐見は何時も窮屈な思
いで義父の隣に立ち、親戚や客に挨拶をするのが義務だった。
 「・・・・・」
 宇佐見は手渡された鬼の面をじっと見る。コミカルなその鬼の面を、自分が本当につけるのだろうか。
 「用意、されないんですか?」
雅人に誘われて留まった塚越は、既に手に豆の入った紙のマスを持っている。どうやらこれも付いていたらしい。
 「・・・・・したことがない」
 「鬼役を、ですか?」
 「豆まきを、だ」
 自分の実家が少しおかしいことは自覚していた。それを他人に話すことが恥ずかしいことだというのも自覚していたが、宇佐見
は今、自分が何をしたらいいのかわからず、我知らず塚越に助けを求めた。
 「私は豆を投げなくていいのか?」
 「鬼ですからねえ」
 「・・・・・抵抗した方がいいんだろうか」
 「豆をぶつけられたらすぐ逃げ出した方がいいんじゃないですか?」
 「・・・・・そうだな」
 なぜ、雅人が急に豆まきをしようと思い立ったのかわからないし、よりにもよって一番の大役である鬼を自分に任せた意味もよ
くわからないが、宇佐見は雅人に嫌な思いをさせたくはなかった。
どこか、人間として欠陥がある自分に、共に暮らし始めてから、雅人は色々な初めてを経験させてくれたり、感じさせてくれたりす
る。
 それがどんなに貴重なことか・・・・・。
(豆を投げられたら、逃げればいい)
間違ったことだけはしたくないが、それを雅人に聞くのも躊躇われた。雅人に対しては完璧な自分でいたいのだ。
 「・・・・・」
 宇佐見はコートを脱ぎ、スーツ姿のまま鬼の面を顔につけた。
 「よくお似合いです」
 「嫌味か」
 「正直な感想です」
マイペースな塚越の言葉に面の下で眉を顰めた時、
 「お待たせしました!」
元気の良い声と足音と共に雅人が戻ってきた。
 「あの、塚越さん、お多福の面つけますか?」
 「それは、あなたがどうぞ。この部屋の住人ですので」
 「じゃあ」
 テーブルの上に残されていた白いお多福の面を手に取った雅人が、楽しげに面をつけ始める。童顔の雅人にはそんな格好も
合っているが、雅人から自分はいったいどう見えるのか気になった。
 「雅人」




 面をつけた宇佐見が振り向くと、雅人は一瞬目を見張った後、プッと盛大に噴き出した。
 「あははっ、ははっ」
 「・・・・・」
 「す、すごく、似合わない〜っ」
塚越は似合っていると言っていたが、雅人の目にはおかしく映るらしい。今の自分の姿を鏡で見ていない宇佐見は不安になり、
無意識のうちに面に手を触れる。
今すぐにでも確かめたいが、このまま雅人に背を向けてもいいものだろうか。
 「だ、だって、スーツ姿の鬼って〜っ」
 「・・・・・服か?」
 「鬼って、シマシマのパンツ姿が定番でしょ」
 「・・・・・」
 「あ、別に、そこまでしなくてもいいんですよ?ただ、すっごくお面と服がアンバランスだなって思って」
 まったく頓着せずに笑い飛ばす雅人の言葉には裏の意味などないのだろう。そのことに内心ホッとした。
 「それに、宇佐見さんがカッコいいって知ってるから、鬼の面をつけててもなんだか重なって見ちゃって。ごめんなさい」
 「・・・・・いや、いい」
その上、さりげなく褒められて内心うろたえた。笑ったことを謝る雅人に誤魔化すように短く答えると、ようやく笑いが収まったのか
雅人が改めてリビングを振り返る。
 「ベランダの窓も全部開けたんで、思いっきり豆を外にまきますから。宇佐見さんは頑張って逃げ回ってくださいね」
 「わかった」
(逃げればいいんだな)
 「じゃあ・・・・・」
 雅人は、豆を掴んだ。

 「鬼もうちー!!」

かなりの大声。
 「・・・・・っ」
そこは、『鬼は外』と言うはずだ。さすがにその言葉は耳にしたことがあるので指摘しようとしたが、満面の笑みで豆をぶつけてくる
雅人はまったく気にしていないようだ。
 「福はうち!」
 それに便乗したかのように、塚越もしっかりと豆をぶつけてくる。小さな豆だが、地味に痛い。
(こいつ・・・・・日頃の恨みをぶつけてないか?)
何時もこき使う自分に対して持つ個人的な感情をぶつけてきているとしか思えないが、さすがにここで言い返すのは大人げない
というか・・・・・。
 「鬼もうち!!」
 「福もうち!!」
 雅人と塚越、2人は休みなく豆をぶつけてきて、宇佐見は文字通り部屋中を逃げ回った。
全力、ではないはずだが、こんなふうに駆け回るなんて何年ぶりのことだろうか。普段のジムでの体力作りとはまったく違う運動に、
宇佐見は次第に息があがる。
 こんな、たかが袋一杯ほどの豆をまき、逃げるだけなのに、歳がいもなく気持ちが弾む自分がおかしかった。
それを押し殺そうとしても、目の前で楽しそうに笑っている雅人を見るとどうしても頬が緩んでしまい、何時の間にか本気で豆まき
を楽しむ。
 仕事場では、けして見せない顔。
義父や母には、きっとこれからも見せることはない顔。
(雅人しか、いらない)
 他の誰も必要はないんだと思おうとした宇佐見は、
 「瑛林の2年C組の奴らにも、福よ来い!」
雅人の声にハッと顔を上げた。
どうして、ここにいない者のことを考えてやるのだと、不満な表情が顔に現れたのだろうか。雅人はこちらに顔を向けて言った。
 「どうせなら、たくさん願った方がいいじゃないですか」
 「・・・・・」
 「宇佐見さんだって、今年一年、無病息災を願う人がいるでしょう?」
 「そんなもの・・・・・」
 いないと即座に否定しようとした宇佐見の頭の中に、優しげな面影が浮かんでくる。
既に想いは過去のものになっていたが、それでもあの優しい笑顔が悲しみに彩られないことを願う、特別な存在が・・・・・。
 「・・・・・そうだな」
 少なくとも彼や、こんなふうに何時も自分に付き合う塚越の平穏ぐらいは願ってやってもいい。
宇佐見は雅人が持っていたマスに手を入れて豆を一掴みすると、空いているベランダに向かって軽く投げる。
 「福よ、来い」
来年もこうして雅人といさせて欲しい。
言葉には出来ない思いものせて、宇佐見は雪が舞い始めた夜空を見上げた。




                                                                       end






































 「あ、そこにも落ちてますよ」
 「・・・・・」
 「あ、ここも」
 雅人の言葉通り、屈みこんで床に散らばった豆を一粒一粒拾っている宇佐見。
(・・・・・写メを撮って待ちうけにしたいくらいだな)
職場の人間に話したって、絶対に信じてもらえない光景だ。まあ、こんなに楽しいことは人に言うつもりはなく、自身の心の中だけ
で楽しむつもりだった。
 「・・・・・」
 塚越は自身も同じように豆を拾いながら2人の様子を探っていた。
何時ものように宇佐見を自宅マンションまで送り届けた時、彼の同居人である雅人から誘いを受けて節分の豆まきに誘われた。
子供がいない家庭でも豆まきなどするのかと少し驚いたが、せっかくの誘いを断ることはなかった。
(あんな顔を見られるなんて)
 宇佐見は節分自体は知っていても豆まきをしたことはなかったようで、戸惑いながら雅人に促されて動く姿がなんとも楽しく、塚
越は笑みを噛み殺すのが大変だった。
 別に、馬鹿にして・・・・・と、いうわけではない。
今までの宇佐見なら、こんな行事を進んですることなど考えられなかった。良い意味でも悪い意味でも他人や世間に無関心な
宇佐見は、ささやかな季節の行事のことなど頭の片隅にもなかったはずだ。
 それが、雅人という存在によって、外へと目がいくようになった。鬼の面をかぶり、周りと同じようにこの節分の日を楽しむほどに、
彼の気持ちは随分柔軟になったということだろう。
 「これ、歳の数だけ食べるんですよ」
 「・・・・・豆だけをか?」
 「80歳とか、90歳になったら大変ですよね。あ、一緒にいる人間が食べたらいいのか」
 自問自答する雅人の言葉に、宇佐見の頬が緩むのが見えた。
自分の場合を想像し、その時まで雅人が側にいてくれることを想像したのだ。最近、こうして思いが表に出る宇佐見が妙に可愛
くて、塚越は笑いをかみ殺す。
 「・・・・・同じ味だったら飽きるだろう」
 「味のバージョンを変えないといけませんねえ」
 「そうしてくれ」
 気真面目に返答した宇佐見に、堪え切れずプッと噴き出してしまった。
すると、ようやく2人は塚越の存在に気づいたように視線を向けてくる。宇佐見の眼差しが仕事の時以上に厳しくなってしまったの
に気づいたが、塚越はいい機会だなと思って気になっていたことを口にした。
 「紺野さん、なぜ『鬼もうち』なんですか?」
 「え?だって、鬼には家の中にやってくる悪いものを追い払ってもらわなくちゃいけないし、今回鬼は宇佐見さんにやってもらった
じゃないですか。大黒柱を家から追い払うわけにはいかないでしょ?」
 「・・・・・」
 わかったような、わからないような。
こういう場合は形だけでも『鬼は外 福は内』と言うべきではないかと思ったが、雅人の感覚では鬼=宇佐見で、その宇佐見の
ことを気遣って『外には追い出さない』ということらしい。








 どうやら、これ以上ここにいるのは無粋のようだ。
 「私はそろそろお暇します」
 「え、帰っちゃうんですか?夕飯食べて行かれませんか?」
 「・・・・・」
雅人がせっかくそう言ってくれるが、チラッと見た宇佐見の眼差しを見れば答えは決まっている。
 「私も、家で豆をまかなくてはなりませんので」
 「あ、そうですね。引きとめてすみません」
 「いいえ。楽しい時間にお誘いくださってありがとうございました」
 玄関先まで揃って見送ってもらい、塚越は靴を履いてからもう一度頭を下げる。
 「お疲れさまでした。気をつけて帰ってくださいね」
 「ありがとうございます」
ドアを開け、閉める時にもう一度振り返った。
閉まる直前に宇佐見の手が雅人の肩に掛かったのが見え、塚越は笑みを浮かべたまま口の中でごゆっくりとと、健闘を祈った。




                                                                      end