真剣な表情で生クリームを搾り出す水谷和弥(みずたに かずや)は息さえつめていた。
任されたバースデイケーキのデコレーションは、今回が初めてではないが、毎回失敗しないようにと緊張してしまう。
それは、やり直すということが面倒だというよりは、失敗するとせっかくの祝う気持ちにケチがつきそうで、それだけは申し訳ないと
思っているからだ。
「・・・・・っと、後は、このチョコのプレートをのせてと」
ほどなく、イチゴたっぷりのバースデイケーキは、和弥の想像通りに出来上がった。
「出来た!」
3歳の誕生日を迎える春香という女の子。箱を開けてこのケーキを初めて見た時、いったいどんな表情をするのだろうか。
(喜んでくれるといいんだけどな)
全く見知らぬ相手の、それでもめでたい出来事に自分が協力出来て嬉しい。
バースデイケーキを作るたびにこんな嬉しい気持ちになる和弥は、ちょうど来客を告げる扉の鐘の音を聞いても、顔から笑みが消
えないままに言った。
「いらっしゃいませ!」
「・・・・・」
「・・・・・っ」
しかし、その笑みはたちまち消え、次に和弥の顔に浮かんだのは眉間の皺だ。口元も、怒ったように真一文字になっていて、とて
も客商売の顔ではないと分かっているのに、どうしてもこの相手を前にするとこんな顔になってしまうのだ。
「・・・・・エクレアを2つ」
「・・・・・」
「エクレアを、2つ」
「・・・・・かしこまりましたっ!」
(自分で食わないくせに、金が勿体ねーとかって思わないのかよっ。・・・・・ったく、甘い物が苦手なくせに、毎回無駄使いしやがっ
て・・・・・いい加減、ここには来るなよなっ)
頭の中では様々な文句を言いながらも、この客のために決まった日にエクレアを2つ取り置きしている自分がいる。
また、それが悔しくて(別に言われたわけではないのだが)、和弥は少々乱暴にエクレアの入った小さな箱を男に突き出した。
「お待たせしましたっ、300円です!」
「・・・・・」
男は和弥の言動に怒ることなく・・・・・と、いうよりは、何時もの無表情でそれを受け取ると、和弥に向かって代金を差し出す。
レジの前に置けばいいのに、和弥が手を差し出すまでは同じ体勢だということも分かっているので、渋々右手を差し出せば、金を
わたすと同時にキュッと手を握ってきた。
「今日は一段と甘い匂いがする」
「・・・・・っ」
口数が少ないくせに、こんな言葉は平気な顔で言う男の神経が分からなくて、和弥はパッと男の手の中から自分の手を振り抜
くと、わざとらしく大きな声で言った。
「ありがとーございます!」
(もう二度と来るなっ!)
和弥の家はケーキ屋で、和也も高校を卒業して手伝うようになった。
まだまだ、和弥自身に任せてもらえるケーキは少なく、どちらかといえば接客の方へと借り出されることが多いが、父の作るケーキ
と、あの甘い香りが大好きな和弥は、こうして一緒に店に出れるだけで嬉しかった。
そんな和弥の家の店に、もう7ヶ月以上、ずっと通い続けている男。
今時、甘党の男は珍しくなかったが、ハンで押したように毎回同じ時刻、同じエクレアを同じ数だけ買っていく男のことが気になっ
て、和弥は何時しか男の来店を待っている自分に気がついていた。
いったい、どんな男なのか。
それは、1ヶ月ほど前に後をつけて分かった。男は隣町の行列の出来る老舗の和菓子屋《朱のや》の和菓子職人で、23歳の
和弥よりも2歳年上の、向井将孝(むかい まさたか)という名前だった。
どうして和菓子屋の男がエクレアを買いに来るのか。
垣間見た様子では自分ではなく他の者のために買いに来ているようで、和弥は悔しくて仕方が無かった。敵情視察のつもりなら
ばもういい加減止めればいいと思い、ある日感情が爆発してしまって、
「もう来るなよなっ、エクレアぐらい、どこの店でも置いてあるだろ!」
と、叫んでしまった。
これで、男はもう店には来ない・・・・・そう思って踵を返そうとした和弥の耳に、その時想像もしていなかった言葉が聞こえた。
「一目惚れしたから」
「半年前、店の子に頼まれてエクレアを買いに行って・・・・・そこで、ケーキを嬉しそうに試食している顔を見て、惚れた」
男に告白されるという経験を初めてしてしまった和弥は、その時にもうキスまでされてしまった。
見掛けはヤンキーっぽく、細身ながらも、とても女と間違えるような体格ではないと自覚している和弥は、向井の言葉をそのまま
鵜呑みにしたわけではなかった。
それでも、言葉数の少なそうな男が、どうして男である自分に惚れたかを説明してくれる様は、とてもからかっているようには見え
なくて、和弥は情けないが・・・・・その場から逃げてしまった。
それから、男はもう自分の思いを隠さずにいる。
もちろん、男が和弥の父や兄に対してそれを言うことは無いが、対応する和弥の顔をじっと見たり、その手に触れたり。真面目そ
うな外見からはとても想像出来ない積極さに、和弥は自分が負けそうだという危機感を募らせていた。
男が何と言おうと、自分が好きなのは女の子であって(今は忙しくて彼女もつくれないが)、男に恋愛感情を抱くはずが無い。
それに、どう考えても自分よりも頭半分は背が高く、体付きだっていい向井を自分が押し倒すことなど、とても出来ないような気
がする。
すると、必然的に自分が受身になるわけで・・・・・。
「うわあ!」
そこまで考えた和弥は、思わず手にしていた百円玉を床に落としてしまった。
「煩いぞ!」
途端に、奥から聞こえてくる父の怒鳴り声。
「わーたって!」
「和弥!客の前でその言葉遣いはないだろっ!」
以前、向井が店先にいない和弥の所在を聞いたり、最近の2人の様子をみて、父も兄も向井を友人だろうと認識しているらし
い。
「向井さん、悪いね、口の悪い弟で」
「いえ」
「和弥も少しは向井さんを見習えよ?2歳しか離れていないのにこんなに落ち着いてるんだぞ」
「・・・・・煩い」
そんなことはないと口を酸っぱくして言っても、何を照れてやがるとからかわれるだけだし、先週は、とうとう自分が和菓子屋の職人
であると告白し、手土産の和菓子まで持ってきた向井の株は、まだまだ使いものにならない自分よりも高いようだった。
「大丈夫か?」
「ばっ、て、手が、滑っただけだ!」
今のやり取りや、自分の動揺する姿も見ているというのに、向井の表情に全く変化は無く、そのまま床に落ちた百円玉を拾って
くれる。
いい男の無表情はなんか怖いと思う反面、こんなにも感情の揺れ幅が狭いと、本当に自分に好意を寄せてくれているのだろう
かという疑問もあった。
(少しは照れたりとか、焦ったりとかしてもいいって・・・・・って、俺、何考えてるんだっ?)
相手に恋愛感情が無い方がいいのに、反対に探してどうするんだと自分自身がさらに焦りまくる。
そんな和弥を少しだけ目を細めて見つめた向井は、またなとだけ言って店を出て行った。
「・・・・・ウソ、帰ったよ、あいつ」
(・・・・・淡白過ぎないか?)
向井を見ていると、恋愛をしているという高揚感など少しも感じられず、それなのに、告白された自分だけが毎回動揺し、焦っ
て、醜態を晒しているのだ。
こんなのはフェアじゃないと、和弥は強く感じた。
頭で考えるよりも行動するタイプの和弥が悩むのは1ヶ月が限界だった。
「よし!」
久し振りの休みの日、和弥は今度は自分から向井の所に訪ねていくことにした。何時もは自分のテリトリーの中に向井が入って
きて、その一挙一動に自分だけが焦るのは面白くない。
さすがの向井も、いきなり和弥が店を訪ねたら動揺するだろうし、一度その姿を目にして満足したら、その場で、金輪際自分に
係わるなと言ってやろうと思っていた。
「・・・・・わ、今日も行列だよ」
さすがに朝の仕込みの時間に行ったら悪いし、昼時もせっかくの休みを邪魔するつもりはない。
そんな風に、なぜか向井の都合を考えてやって、実際に和弥が向井の勤めている店、和菓子屋《朱のや》に行ったのは昼の2時
過ぎだった。
反対側の道路の電柱の影から見ても、店の外まで10人近くの行列が出来ている。昼の一番暇であろう時間帯にこの客の数
なら、相当に儲かってるだろうなと下世話なことまで考えてしまった。
(どうする・・・・・このまま店に乗り込むか?)
いきなり向井の名前を言って呼び出すことは出来るだろうか?
いや、その前に、洋菓子と和菓子の違いはあるが、自分も職人の末端に名を連ねていて、自然にその目は観察するものになっ
てしまう可能性がある。商売敵の偵察と思われても面倒な気がした。
「ん〜」
(そう考えると、あいつって度胸がいいな)
それとも、実際に後をつけて確認するまで、彼が和菓子職人だと気付かなかった・・・・・あの餡の匂いに気付かなかった自分が
ボケているのかと、和弥はこんなところでもさらに落ち込んでしまった。
「どうするよ、俺・・・・・」
「・・・・・ね?警察呼ぶ?」
「でも、そんなに悪人面してないわよ」
「でも、もう1時間も同じとこに同じ格好で、じっとこっちを見てるのよ?きっと誰かのストーカーだって」
「・・・・・」
(ストーカー?)
作業場から店に菓子を持ってきた向井は、その言葉に思わず足を止めてしまった。
「お前っ、しつこいんだよ!ストーカーかっ?」
少し前、恋しいと思った相手からぶつけられたあんまりな言葉は、さすがに向井も忘れてはいなかった。
別に、自分のしていることがストーカー紛いなこととは思っていないものの、相手がそう思うほどにはしつこいのかもしれない。
確かに、絶対恋人にはなれないと言い続けている相手に、ずっと会いに行っている自分は諦めが悪いのかもしれないが、今ま
で誰に対しても感情が大きく揺さぶられなかった自分にとって、初めて近付きたいと思い、もっと知りたい、一番傍にいたい、その
唇に触れたいと思う相手を簡単に諦めることは出来なかった。
それに、最近は相手も自分のことを意識しているのか、目を合わせると顔を赤くするし、視線が合うと、ソワソワと落ち着きなく
揺れるのだ。
元々、体臭かと思うほどに匂ってきた甘いクリームの香りは、ますます強くなってきて・・・・・向井は、自分にはまだチャンスがある
のではないかと思っていた。
「どうしたんだ?」
少しだけ、元気で生意気で、それでいて可愛い想い人のことを思い出した向井は、意識を切り替えてアルバイトの少女に話し
かけた。
実際に変な奴が店の前にいるのなら、対処しなくてはならないだろう。
「あ、向井さん」
少女達は話しかけてきた向井の姿にホッと安堵したように緊張を解き、、直ぐに来てというように服を引っ張って玄関先に連れて
行った。
「ほら、あっちの電柱の影に誰かいるでしょ?1時間くらいあのままなの、変だと思わない?」
「電柱の影?」
その言葉に視線を向けた向井は、Tシャツにジーパンという軽装の男の顔を見て、反射的に扉を開けて外に飛び出した。
「む、向井さん!危ないわよ!」
「ん?騒がしい?」
反対側の道路といっても10メートルも離れていない。だからこそ、店の様子が少し変わったことに気付いた和弥は、なんだろうと
思わず身を乗り出して・・・・・。
「・・・・・げっ」
いきなり開いた正面のドアから、職人姿の背の高い男・・・・・向井が走ってくるのに気が付いた。
(か、隠れっ、ば、場所が〜っ!)
店の中がよく見える場所だと選んだそこは他に隠れるものも無く、和弥はただ馬鹿のように向井が駆け寄ってくるのを見ているしか
出来ない。
「和弥」
やがて、少しだけ息を荒くした向井が目の前に立ち、和弥は内心動揺しながらもよ、ようと片手を上げて見せた。
「・・・・・どうしたんだ?」
「ちょ、ちょっと、通り掛ったからさ、ちょうどお前の店だなって思って・・・・・」
「・・・・・」
(ベタな言い訳過ぎたか?)
自分に会いに、わざわざここまで来たんだろう・・・・・きっと向井は不敵に笑いながらそう言うだろうと思っていたのに、和弥の予想と
は違い、向井は嬉しいと小さく呟いた。
「・・・・・え?」
「餡子嫌いの和弥が、こうして店にまで来てくれるなんて・・・・・気紛れでも嬉しい」
「おっ、俺は、本当にっ、通り掛っただけで!」
「ああ、分かってる。でも、ちょっと寄っていかないか?和弥に作りたての俺の菓子を食べて欲しい」
「ええっ?」
口では殊勝なことを言うくせに、和弥を引っ張っていく手の力は痛いほど強い。
(こ、こいつが無理矢理・・・・・っ、そ、そうだよっ、無理矢理!)
けして自分の意思で行っているわけではないと、和弥は自身に言い訳をしながら・・・・・向井の手を振り払うことも出来ずに店に
向かってしまった。
「なんだあ、向井さんの友達だったんだ」
「それなら遠慮しないで店に入ってくればいいのに〜」
向井と共に店に入ると、店の制服である着物を着た少女達が笑って出迎えてくれた。どうやら、じっと店をうかがっていた自分を
不審者だと思っていたらしい。
今から思えば確かにそうだが、さっきまでは全く気付かなかったと、和弥は直ぐにごめんと頭を下げた。
「いいえ〜・・・・・あ、もしかして!」
「え?」
1人の少女が和弥に近付いてきて、いきなりその胸元に顔を寄せてきた。
見掛けとは違って硬派な和弥は異性との接触に慣れておらず、反射的に身を引いて顔を赤くしてしまう。
しかし、少女はそんな和弥の反応よりも、自分が気付いた事実に意識が行っていた様だった。
「やっぱり!クリームの匂い!」
「・・・・・え?」
「向井さんがよく行っているケーキ屋さんでしょっ?」
「え、あ、うん」
「ね〜?甘い物が苦手な向井さんが、ずっと食べてるエクレアのお店の人なんだ。やっぱり、ケーキ屋さんはクリームの甘い香り
がするんですねえ〜」
「ほんとだ!男の人じゃないみたい〜」
「ね?」
ちょうど客が切れた時で、和弥は少女達の暇つぶしの相手になったようだ。
ただ、周りを取り囲んでくる楽しそうな少女達とは違い、和弥は甘いと言われた自分の匂いが気になった。男のくせにそんな甘い
香りがするなんて(それもクリームの匂いだ)、ちょっと恥ずかしいのではないだろうか?
(そういえば、向井もそんなこと言ってたし・・・・・自分じゃ全然分かんないんだけど・・・・・)
家族で店を切り盛りしているので、当たり前だが、皆同じ匂いだ。お互いを指摘することもなかったと思いながら、和弥はそんな
自分が恥ずかしくなって俯きかけたが・・・・・。
「・・・・・そこまで」
「え〜っ!」
「和弥、こっち」
まるで、和弥を少女達から救うように声を掛けてきた向井が、そのまま奥の作業場に連れて行ってくれる。
ちょうどそこも休憩時間なのか、甘い餡子の匂いが漂っているものの、人影は無かった。
「そこに腰掛けて待っててくれ」
「う、うん」
ここで嫌だと言って逃げ出すのは、あまりに子供っぽいと思った和弥は、向井に言われた椅子に座ると、早速生地を練り始めた
その手先を見る。
(・・・・・あ、この匂い・・・・・)
初めは強烈に餡子の匂いだけを感じたが、何時しかそれが向井が何時も纏っている匂いだということに気が付いた。
クリームの匂いの自分と、餡子の匂いの向井。なんだかとても普通じゃないが、職人だという特別な感じもして、和弥は何時しか
真剣に向井の作業を見つめていた。
一つ一つ手作りをする和菓子は、本当に神経を集中しなければ失敗作になってしまう。微妙な温度、それも指先の温度だけ
でも味が変わってしまうもので、向井は何時も真剣に作業に取り組んできた。
特に、今から作る菓子は餡子嫌いな和弥に食べさせるものだ。今自分が出来る最高のものを・・・・・そう思いながら手を進めた
向井は、やがて一つの和菓子を和弥の前に差し出した。
「うわ・・・・・らしくない」
最初に聞こえた言葉は、そんな可愛くないものだ。
「そんなゴツイ手で作ったなんて思えないよな」
まさか、和弥のイメージで作ったなどとは言えず、向井は黙ったまま和弥がそれを食べるのを待った。
「・・・・・」
「・・・・・」
(やっぱり・・・・・駄目か)
皿を手にしたまま、和弥はいっこうに食べようとはしない。やはり、和菓子はどうしても嫌いなのだろうか。
なんだか、自分も受け入れてはもらえないような気がして、向井は僅かに眉を顰めたが・・・・・。
「・・・・・可哀想で、食えないって」
ポツリと聞こえた声に、思わず顔を上げると、自分に向かっては何時も顰め面をしていた(わざとだというのも分かっていたが)はず
の顔に、照れくさそうな笑みを浮かべた和弥が自分を見た。
「このウサギ、可愛くて食べらんないよな。命を吹き込めるって・・・・・お前、ちゃんと職人なんだな」
「・・・・・っ」
和菓子職人の自分に対して、これ以上の褒め言葉などあるだろうか。
「えっ、ちょっ・・・・・んっ」
湧き上がってきた感情のまま、向井は座っている和弥に覆い被さるようにして唇を重ねる。一瞬だけ、逃げようとした和弥の背中
をしっかりと抱きしめると、思い掛けなく華奢な身体は自分に預けてきて・・・・・。
(甘い・・・・・)
何時もクリームの匂いがする和弥からは、今は酩酊するほどの甘い匂いがする。
早く、この甘い存在の全てを、その、心も身体も手に入れたいと思いながら、向井は今しばらくその唇を味わうことにした。
「職場で何てことするんだっ、この馬鹿!!」
その数分後、そんな罵声と共に、和弥の容赦ない平手打ちが向井の頬を打ったことは・・・・・余談である。
end
和菓子職人&ケーキ職人の話。
続きをというリクエストを幾つか頂いたので、再び登場させました。