田中三郎(たなか さぶろう)は走っていた。
今日で遅刻5回目だ。けして意図したものではなく、前の日夜更かしをしたわけでもない。
それでも、今年の春から准教授として三郎の講義に立っている人物は、1分の遅れも許さない完璧な人間だった。
 「・・・・・っ」
 学校の近くのバス停からずっと走り続け、キャンパスの中も、何事かと見てくる無数の目を一切無視して走り続けたが、教室に
着いたのは既に授業開始から3分過ぎていて・・・・・。
 「はぁ、はぁ、はぁ」
 汗だくになり、荒い息を吐き続ける三郎。
その息遣いさえ響くほどに静まり返った教室の中で、凛としたバリトンの声が響いた。
 「田中・・・・・三郎の方だな、遅刻」
 「まっ、待ってくださいっ、あのっ!」
 「・・・・・」
 「あのっ、俺!」
 「講義の後、私の部屋に来なさい」
どんな言葉にも一切耳を傾けない、氷の血を持つ男と噂されるその人に今は何を言っても仕方がないと分かった三郎は、はい
と小さな声で答えた。
(落第になったら・・・・・どうしよう・・・・・)
 改めて出席カードを出し、後ろの席に向かう三郎は、

 「気の毒・・・・・」
 「運が悪いって」

そう、囁く声を耳にし、思わず唇を噛み締める。
(そんなの、俺が一番よく分かってるって・・・・・っ)
それでも、色々と事情があるのだと、三郎は椅子に腰掛けながら溜め息をついた。






 三郎は今年、無事大学の2年に進学した19歳だ。
名前だけでなく、身長も175センチと平均的で、少しだけ痩せ気味かもしれないが、これといった特徴はない。顔も、良くも悪く
も無く、ただ肌だけは色白で綺麗だと言われたことがあるが、男としては喜ぶようなものではなかった。

 容姿的にはこれというものがない三郎だが、その家族形態は少しだけ変わっていて・・・・・両親だけではなく、祖父母も健在
で同居、出戻りの姉が2人の子供と戻ってきていて、三郎の下には4人の弟と妹がいた。
 自分を合わせての12人の大家族。本当ならもう20になろうという自分は家を出るのが普通だろうが、下は一番上でも今年
が高校受験の中学3年生で、後は皆小学生。姉の子供は幼稚園児の双子と、まだまだ手の掛かる年頃の子が多いというこ
とと、実家がラーメン屋をしているので、両親と祖父母共も忙しく、姉もキャリアウーマンとして働いているので、必然的に三郎が
世話をするしかなかった。

 家族が多いので、三郎は今の大学も奨学金を貰って通っていたが、1つでも単位を落とせばそれは取り消しとなってしまう。
今の成績を保つ勉強でもやっとなのに、これに加えて学費を稼ぐバイトなどしたら、とても家族の世話は出来ない。
 今までの遅刻も、幼稚園児の甥っ子が熱を出してお迎えに行ったとか、弟の進路相談とか、親代わりとして動き回っての代
償なのだが・・・・・それはあの准教授に言っても無駄なことだろう。
 それでも、どうしても小学校の教師になりたい三郎は学校に通い続けたくて、それには、どうしてもこの准教授の単位が必要
なのだ。
(とにかく、ちゃんと事情を説明して・・・・・泣き落としでもいいから許してもらおう)
講義を受けながら、三郎はそう思うしかなかった。



 講義が終わると、何時ものように生徒達に一瞥も残さず教室を去っていく准教授。
これだけ厳しく、そして愛想の無い彼の講義が人気があるのは、ひとえに講義の分かりやすさと面白さ、そして、少しばかり容姿
も関係しているだろう。
 「サブ、頑張れよ」
 「うん」
 「サブちゃん、しっかり!」
 「ありがとう」
 容姿的には目立たない三郎だが、長男気質で面倒見がよく、何時も穏やかな雰囲気をまとっていることから、友人は男女問
わず多い。
今から准教授の研究室に向かう自分を激励してくれる声に一々応えながら、三郎は重い足を引きずって歩く。嫌だなと思うもの
の、逃げられないのが辛かった。



 トントン

 たっぷり3分はドアの前に立っていた三郎は、思い切ってドアをノックする。
どうぞと、あのバリトンの声がして、一度大きく深呼吸をした三郎は、失礼しますと小さな声で言ってドアを開けた。
(・・・・・汚い、部屋)
 何時もスーツをきっちりと着こなして、書く文字も整然としているのだが、初めて見た研究室の中はまるで子供が暴れた後のよ
うな散らかりようだった。
(か、片付けたい・・・・・)
 綺麗好きというわけでもないが、狭い家の中でどれだけ快適に過ごせるかということを常に考えている三郎は、自然と収納上
手になっている。この、あまりにも散らかった部屋の中を片付けたいと純粋に思ったが、
 「どうぞ」
 「あ、はい」
 再度促され、三郎は何とか踏み場所を探して奥に行くと、椅子に座っている准教授、杉崎桂一郎(すぎさき けいいちろう)
の前に立った。

 杉崎・・・・・講義を受ける時に初めて知ったその名前。
講義の倍率が高いのと同時に、離脱率も高いことが気になったが、どうしても三郎の勉強したい分野だったので、何とかその講
義を取った。
 杉崎は今年33歳になるらしい。
この若さで准教授になるのはかなり優秀か、あるいはかなり強固なコネを持っているかのどちらかだろうが、三郎自身はあまり興
味は無かった。要はどんな勉強を教えてくれるのかが大事なのだ。
 ただ、初めて教壇に立った彼を見た時は、そのあまりの容姿の良さに思わず口を開けてしまったのも確かだった。
身長は軽く180センチを越えていて、体付きもしなやかな筋肉が付いているだろうにスリムだった。黒髪に、フレームスの眼鏡の
奥の目は切れ長で、鼻も、唇も完璧な位置で、どうして彼がテレビや雑誌に出る職業ではなく、大学にいるのかが分からなかっ
たくらいだ。

 同級生の女の子達はその容姿に色めきたったが、その華やかな雰囲気は1日目の講義から崩れてしまった。

 「香水をつけるなんて、自分がミルク臭い子供だと思っているからか」
 「肌を露出するのもいいが、私は体だけに栄養が行ったような子供に興味は無い」
 「私の顔ばかり見て講義を聞かないつもりなら、悪いが今直ぐ教室を出て行ってくれ、空気が悪い」

・・・・・などなど、言い寄ってくる女生徒達をことごとく撃退し、その後に厳しい対応を見せ付けた彼を、生徒達は『冷血の麗人』
通称、R2(アールツー)と呼んでいる。
 男である三郎は彼の美貌やスタイルをどうこうは思わなかった。ただ、平凡過ぎる自分から考えたら、随分恵まれた人もいるの
だなあと他人事のように思っていただけだ。
(そんなR2と、こうして向き合ってるなんて・・・・・)
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・田中」
 「は、はい」
 「私は、どんな理由があろうとも、遅刻という結果を覆すつもりは無い。それは君も分かっているだろう?」
 「は、はい」
(見逃してくれてもいいって思うけど・・・・・)
 内心でそう思うものの、三郎は殊勝に杉崎に頭を下げた。
 「すみませんでしたっ」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
少しの沈黙の後、杉崎は一応と言葉を付け足してくる。
 「何時も真面目な君が、どうして遅刻が多いのか。一応話は聞いておこう」
 一応ということは、単位をくれないという結果は変わらないのかもしれない。どうしたらいいのだろうと思いながら、三郎は一応自
分の家庭環境から説明を始めた。



 「・・・・・なるほど」
 少し長い説明になってしまったが、それでも杉崎は黙って最後まで聞いてくれた。
自分の不真面目さが原因ではないのだと伝えることが出来ただけでもいいのかも・・・・・。この杉崎が、一度口にしたことを覆す
ことはないだろうと分かるので、三郎はもう一度深々と頭を下げた。
 「今日は申し訳ありませんでしたっ」
 「・・・・・私は、個人を贔屓しない」
 「は、はい」
 「だが、個別に理由を聞き、それが私の納得することだった場合、それでも落第にしてしまうほどに私は冷たい人間ではないつ
もりだ」
 「え・・・・・」
それは、もしかしたら今回の遅刻は無かったことにすると、そういうことなのだろうか?
 「ただし、そういう場合はそれぞれ誠意を見せてもらっている。田中、君は5回目の遅刻を帳消しにする代わりに、何をする?」







 「センセ、これどこに置くんですか?」
 「右の棚」
 「じゃあ、この資料の写真はどこですか?」
 「机の一番下の引き出しにまとめてある」
 「分かりました」

 三郎は大きなダンボール箱を抱えて、一週間前までは床も見えなかったはずの研究室の中を身軽に歩いた。
(片付けは苦手っぽいけど、決断は早くて助かるな)
山と積まれた資料やレポート。しかし、三郎が訊ねれば、いる、いらないの決断は杉崎はとても早く、思った以上に片付けはス
ムーズに進んでいた。
(でも、これで本当に再チャンスがもらえるのか?)
 三郎にすれば、掃除は習慣になっている日常生活の中の一つで、これが本当に遅刻を帳消しにする手段になるのか分から
なかったが、毎日のように研究室に寄って片付ける自分を黙って受け入れてくれるので嫌ではないのだろう。
それに・・・・・。
 「センセ、これ」
 「・・・・・なんだ?」
 「何時もコンビニ弁当みたいですから、たまには拙い味の手料理でもどうかなって。あ、2つ作るのも3つ作るのも一緒ですから」
 「・・・・・」
 卵焼きに、煮物に、魚肉ソーセージの炒め物。俵型のおむすびの中は、梅干しとカツオ。
弟からは「おばさんっぽい」と言われる弁当だが、パンやコンビニ弁当を買うよりもはるかに安く済むので、三郎は中学の時から自
分で作っていた(さすがにその時は、おむすびがせいぜいだったが)。
 「えっと・・・・・いりませんか?」
 「・・・・・これは賄賂じゃないな?」
 「は?賄賂って、こんなものじゃとても賄賂にはなりませんよ。1人分、せいぜい150円くらいだし」
 「・・・・・」
 しばらく弁当をじっと見ていた杉崎は、やがていただきますと丁寧に言ってからそれを口にし始める。
美味いも、不味いも言わないが、綺麗に食べてくれたので少しは口に合ったのかもしれないと思っていたが、翌日、1万円を渡さ
れ、弁当作りを依頼された時、この人は家庭的なものに飢えているのかなと・・・・・ふと、思ってしまった。



 講義が終わると、三郎は直ぐに机の上を片付け始める。
今日は午後3時から、杉崎は学部会議があるということで、その前に少しだけでも片付けを進めたいと思った。
杉崎は何も言わないが、三郎は主のいない部屋に勝手に入るのは気が引ける。講義を取っている准教授の研究室だからとい
うわけではなく、なんだか、よその家に1人で入っていくようで、居心地が悪いのだ。
 「あ、サブ、またR2のとこ?」
 「うん」
 「お前、人がいいからさ、もしかしてこき使われてるんじゃないか?」
 「そんなことないって」
(外から見れば、そんな風に見えちゃうのかな)
 同じ杉崎の講義を受けている者は、三郎が単位をちらつかされて、こき使われているように見えるらしいが・・・・・確かに、最初
はそうなのかなと自分でも思ったが、今の三郎の意識は違う。おこがましいが、少しは忙しく、どこにも隙の無い杉崎の息抜きに
はなってるんじゃないかなとも思っていた。
 もちろん、単位のことは気になるものの、今ではあれだけ汚かった研究室が見違えるように綺麗になっていく光景を見るのは嬉
しいし、作った弁当を綺麗に食べてもらえると、何だか安心出来て・・・・・。
(年上なんだけど、なんだか弟が1人増えたって感じ?)
 「あ、サブ、いいのか?時間」
 「わっ、ごめんっ、お先に!」
 こんな生活が何時まで続くかというのは分からない。ある日突然、明日からは来なくていいと言われるかもしれない。
それならそれで、その日まで出来る限りのことはしよう・・・・・三郎はそう思っていた。



 三郎が杉崎の研究室に通うようになって三週間経った。
 「田中」
 「はい?」
もうすっかり綺麗になった棚を、今度は種類別にきちんと分類していた三郎は、杉崎に名前を呼ばれて振り向いた。
相も変わらず、端正でありながら無表情な顔。しかし、ここのところずっと間近で接してきただけに、三郎は杉崎が困惑している
というのが感じ取れた。
(何だろ?)
 「私は、困っている」
 「え?」
 「君の単位のことだ」
 「あ・・・・・」
 はっきりとそう言われ、三郎はきちんと杉崎の前に立った。
 「個人個人に特別な配慮をしないのが私の信条だ」
 「はい、それは始めに聞きました」
聞いた当初は厳しいなとか、頭が固いとか思ったものの、今ではその公平さが何だか杉崎らしくていいと思っている。公平にとい
うのは、口で言うよりも随分と難しいものなのだ。
それゆえ、三郎は杉崎が今何を困っているのか判るような気がして、自分から彼の重荷を取ってやりたいと思ってしまった。
 「今まで、ありがとうございました、センセ」
 「田中」
 「俺、単位、諦めます。遅刻5回でアウトっていうのは最初から聞いていたことだし、理由があったとしても、それを守れなかった
のは俺が悪いんですから」
 「・・・・・」
 「センセとしばらくこうして会うようになって、センセの言っていることの方が正しいと分かりました。我が儘言って、本当にすみませ
んでした」
 杉崎といると、自分が極平均的な人間から、少し抜け出したような気になった。始めから平凡だと諦めるよりも、一つでも自
分のいいところを伸ばしたい。それは、何時か本当に教師になれたら、きっと役に立つような気がした。
 「明日からはここに来ませんから。センセ、飯だけはちゃんと食ってくださいね」







 それから、さらに二週間経った。
今の三郎はどの講義にも遅刻しないように頑張っていたし、杉崎は相変わらず無表情で教壇に立っていた。
弁当代の残りは、彼が不在の時に思い切って研究室の中の郵便入れに入れたが、気付いてくれたのかどうかは確認していな
いので分からない。
彼の研究室に行けないというのが少し寂しい気がしたが、自分が通い続けると杉崎を困らせるだけだろう。そう思った三郎だった
が・・・・・。
 「田中」
 講義が終わった後、いつもならそのまま教室を出て行く杉崎が、顔を上げて三郎を呼んだ。何十人もの生徒がいる中で、平
凡な三郎の顔をきちんと見付けて、だ。
 「は、はい」
 「話がある、研究室に」
 「あ、はい」
(・・・・・単位のことかな)
正式に単位が落ちると伝えられるのだろうと三郎は覚悟を決め、杉崎の後を追って研究室に向かった。



 「田中です」
 「どうぞ」
 中からの返答にドアを開けた三郎は、思わずあっと声を漏らしてしまった。
(き、汚い・・・・・)
つい二週間ほど前にはあんなに綺麗だった研究室が、今は以前よりももっと散らかっている。いや、よく見ればその散らかりようは
わざとという感じがして・・・・・三郎は戸惑ってしまった。
 「あの・・・・・センセ?」
 「田中、私は困っている」
 「はあ」
 「君が来ないと部屋はこんなにも汚れるし、食事も・・・・・美味くない」
 「・・・・・」
 「公私混同はしたくないが、君にはまたここに通ってきて欲しいんだが」
 思い掛けない杉崎の言葉に、三郎は目を瞬かせた。
 「あの、俺、また来てもいいんですか?」
 「私がそう言っている。単位のことは、学期末の補習の得点次第で考えたい。それでも構わないか?」
 「は、はい!」
 元々は単位のために杉崎の元に通っていたくせに、今では彼に必要とされているという事実の方が嬉しくて、思わず三郎の頬
に笑みが浮かんだ。
 すると、その顔をじっと見ていた杉崎が、不思議だなとポツンと呟く。
 「君の容姿は特に秀でていないが・・・・・可愛く見えるな」
 「はは、可愛いなんて変ですよ。お世辞言わなくっても、センセの好きな甘い卵焼きの弁当、早速明日から作ってきますから」
変かと言いながら首を傾げる杉崎は、普段全く感情を見せないだけに妙に可愛く感じてしまう。
(明日から、また弁当3つ作らないとな)





 早速明日からの予定を考えている三郎と、自分の気持ちが良く分からないまま考え込んでいる杉崎。
2人の関係は、しばらくは平行線のまま進んでいくことになるのだが、三郎も杉崎も、お互いがお互いの大切な存在になるのだと
いうことを、今はまだ全く気付くことはなかった。





                                                                      end






考えれば、教師×生徒を今まで書いてなかったなと思いまして、チャレンジしてみたんですが、全くBLっぽくないまま終わってしまいました(汗)。

もう一回、書きたい気がしてます。