パンのおっぱい
※ ここでの『』の中は日本語です。
「カヤン!おっぱいみえるっ?」
婚儀を数日後に控えたある日の昼前。
蒼との誓いの言葉の練習に向かっていたカヤンは、ドアを開けた瞬間飛びついてきた蒼に一瞬呼吸が止まりそうになった。
「ど、どうされたのですか!」
何事かと焦って聞き返したカヤンに、蒼は自分の胸元を指差しながら叫んだ。
「おっぱい!おっぱいなってるかっ?!」
「え・・・・・そ、ソウ様・・・・・それは・・・・・?」
目の錯覚かと、カヤンは何度も目を擦ったが、目の前にある光景は少しも変わらない。
「そ・・・・・れ・・・・・」
平らなはずの蒼の胸元が、ぷっくらと盛り上がっていた。
−−−
その日の朝、蒼は弾んだ足取りで向かっている先があった。
それは・・・・・。
「りゅーちゃん!きたよ!」
不思議な縁によって、ラファエラの家の召使だったリュイとクリフの子供、リュシオンを引き取ることになった蒼だったが、間近に迫
る婚儀の練習でなかなか宣言通り自分で世話をするというところまでは出来ていなかった。
それでも少しの休憩時間の合間には、こうしてリュシオンを預けている王妃付きの年配の側仕えの元に通って、蒼はまだ小さい
リュシオンの身体を抱きしめて話し掛けることを自分に課していた。
「りゅーちゃん、ソウよ?」
蒼が抱きしめて話し掛けると、リュシオンはまるでそれが蒼だと分かっているかのように声をたてて笑う。
「リュシオン様はソウ様がお好きなんですわ」
「え?ほんと?」
「ええ。ソウ様と一緒にいる時が、一番ご機嫌がよろしいのですもの」
「そっか〜、りゅーちゃんはおれすきか〜」
満面の笑みでリュシオンを抱きしめる蒼。
既に3人もの子供を育てた経験のあるその側仕えは、まるで蒼も子供のように思えるのか優しく笑っている。
すると、不意に小さなリュシオンの手が蒼の胸元をペタペタと触り始めた。
「な、なに?」
「ああ、お腹が空いたのでしょう」
その様子に、側仕えは側に置いていた籠の中から綺麗な布を取り出し、側の水差しの蓋を開けて中に浸け入れた。
「なにしてる?」
「わたくしはもう乳が出ませんので、こうしてお口に料理番に作ってもらった乳を含ませているのですよ」
「あ・・・・・」
側仕えが蒼から引き取り、そのまま抱き上げたリュシオンの口に布を含ませる。一瞬眉を顰めたものの、リュシオンはチュウチュウ
とその布を吸った。
(そっか・・・・・ここじゃ缶のミルクとか、哺乳瓶とかないんだ・・・・・)
ごく当たり前に思っていることも、自分がいた世界とこの世界では全く違うのだ。
「もうしばらくすれば、柔らかいものから召し上がるように出来ますけれど、もうしばらく乳は必要のようですわ」
「ちち・・・・・」
蒼は自分の身体を見下ろし、ペタペタと胸を叩いた。
当たり前だが、蒼には胸は無いし、母乳など出しようも無い。
「りゅーちゃん・・・・・おっぱいいる?」
「赤子は母親の胸を触ると安心するのではないでしょうか」
「・・・・・」
蒼は部屋に戻りながら、じっと考え込んでいた。
こんなことなら、元の世界の自分の部屋の中に放り出していたパーティー用の偽おっぱいを(蒼が自分で買ったのではなく、友人
が面白がって蒼にくれたもの)持って来れば良かったと今更ながら思ってしまった。
「おっぱい・・・・・」
男の自分では努力だけではどうにも出来ないことがある。
「ソウ様?」
その時、後ろから急に声を掛けられた蒼が振り向くと、そこには昼食の膳を運ぶ若い料理番が立っていた。
頻繁に料理を作りに行っている(摘み食いだけというのも多々あるが)蒼とはすっかり顔見知りになっている料理番達は、気安く
声を掛けてくれるのだ。
「あ・・・・・もう、こはん?」
「そろそろですよ?ソウ様、珍しくお腹の催促はないのですか?」
蒼と歳が近いこの料理番は笑いながら言うが、蒼はそれよりもその料理番が手に持っている物の方が気になっていた。
「それ、ぱん?」
「味はついていないものですよ。切って肉や野菜を挟んでお召し上がりいただ・・・・・」
「ちょーたい!」
「は?」
「それ、おれにちょーたい!!」
「こ、これだけでお召し上がりになるんですか?」
「たぺないよ!ても、いる!おねかい!」
もちろん、料理番が嫌と言うわけはなく、細長い焼きたてパンを1本貰う。
「ありかと!!」
大事そうにそれを胸に抱いた蒼は、急いで部屋に戻った。
−−−
「で、では、それは・・・・・」
「りょーはし、まるいとこきった!おっぱいみえる?さわって!」
「ちょ、ちょっと、待ってください!ソウ様!」
カヤンの手を掴み、パンで作った偽の胸に触らせようとした蒼だったが、
「・・・・・何をしているんですか」
怪訝そうな、それ以上に呆れたような声に、2人は固まってしまった。
「シエン」
「お、王子」
入口に立っていたシエンは、カヤンの手を掴んで自分の胸元に持っていっている蒼と、膨らんだその胸元を交互に見つめた。
「それは・・・・・どうしたんですか?」
「おっぱい!りゅーちゃん、おっぱいほしいみたい!おれ、おとこ、たから、にせおっぱいつくった!とー?」
「・・・・・カヤン」
「王子、私も今聞いたばかりです」
何時もは冷静なカヤンが、この時ばかりはさすがに情けなさそうに呟いた。
「りゅーちゃん!」
偽の胸を着けた蒼が、ギュッとリュシオンを抱きしめる。
何時もと同じ様に喜んだリュシオンだったが、違和感に気付いたのだろうか、膨らんだ蒼の胸をポンポンと叩いた。
「全く、ソウの考えることは何時でも突拍子がない」
そんな光景を見つめ、シエンは溜め息をつきながら呟いた。
蒼から詳細を聞いた時、シエンは直ぐにその偽の乳房を取るように言った。リュシオンの為とはいえ、蒼に擬似女のような真似を
させたくなかったからだ。
「私は今のソウのままが、一番ソウらしいと思いますよ?」
確かに、まだ赤ん坊のリュシオンには母親と言う存在が必要なのかも知れないが、蒼が無理にその母親になろうとしなくてもい
いと思ったし、母乳が欲しければ宮内にも、街にも、子供を生んだばかりという女は大勢いるのだ。その者達に頼んで分けてもら
えばいいだろう。
(一生懸命なのは分かるが・・・・・)
多分蒼は、母親にならなければと思いつめているのだ。
偽の乳房も、その象徴として考えたのかもしれない。
(そんなものが無くても、リュシオンはきっとソウを慕うはずだろう)
シエンが思わず嫉妬してしまうほどの愛情を注いでいるのだ。慕わないはずがないだろう。
そんなシエンの説得に、渋々ながらも頷いた蒼だったが、それでも、どうしても一度試してみたいと言いはり、蒼はシエンと共に再
びリュシオンのもとを訪れた。
が、どうも蒼の思いついたこの偽の乳房は気に入らなかったのか、リュシオンはあ〜あ〜と言いながら、どんどんと胸元を叩き続
ける。
「あ」
布で押さえていただけの偽の乳房は、リュシオンの思い掛けない力でとうとう下にずらされた。
そして、それで安心したのか、何時ものペッタンコの蒼の胸元に顔を埋め、直ぐに安心したように眠りにつく。
「りゅーちゃん・・・・・おっぱい、いやみたい・・・・・」
眠ってしまったリュシオンを側仕えに渡しながら呟くと、女は笑いながら蒼に言った。
「きっと、パンの匂いが嫌だったのではないでしょうか?リュシオン様はソウ様が大好きだから、ソウ様の匂いをちゃんと覚えてられ
るのですよ」
「・・・・・おっぱい、いらない?」
「リュシオン様に必要なのは、乳房よりもソウ様の愛情ですわ」
部屋に戻りながら、蒼は自分の胸元に視線を向けた。
布で包んで胸元に当てている為あの場で偽乳房を外すことは出来ず、腹近くにポコンとずれた状態のままだ。
「シエン」
「はい?」
「シエンは、おれにおっぱい・・・・・いる?」
「は?」
「おれ、おっぱいない・・・・・それても、いい?」
「ソウ・・・・・」
自分が男だということに誇りは持っているものの、実際に蒼を抱く立場のシエンからすれば、やはり豊かな乳房の女の姿がいい
のかもしれないと妙な不安が頭を過ぎったのだ。
突然の蒼の言葉にさすがのシエンも絶句したようだったが、直ぐにプッとふきだすと、そのまま蒼の身体を強く抱きしめた。
「柔らかな乳房があるソウも可愛いと思いますが、私は少年の身体のソウもとても愛していますよ」
「・・・・・シエン」
「ソウがソウであれば、どのような姿でも愛おしい」
今度こそシエンの言葉に納得したのか、蒼は吹っ切れたように笑って頷く。
その日の昼食で、蒼作【パンのおっぱい】は、蒼自身の胃袋の中に消えることとなった。
end