恋愛初心者








 カレンダーをじっと見つめながら、慧はしみじみと呟いた。
 「男っていうのは・・・・・難しいな」
その言葉を敏感に聞き取った秘書である尾嶋は、何を言うのかと怪訝そうな視線を慧に向けるが、何かを一生懸命考
えているらしい慧は気付いていないようだ。
 「飯だけじゃ味気無いしなあ」
 「・・・・・」
 「かといって、宝石やらブランドもんには興味が無さそうだし」
 「・・・・・」
 「こういう時、男はなあ」
 「専務」
 「ん〜?」
 「それは独り言ですか?それとも、まさかとは思いますが、私に相談されているんですか?」
 「・・・・・もっと早く気づけよ」
 「それは・・・・失礼しました」



 同族会社とはいえ、31歳の若さにして大企業の専務という立場にある北沢慧(きたざわ さとし)の可愛い恋人は、
同じ会社に勤める専務秘書(見習い)の松原いずみだ。
それまで幾人もの女達と、それも同時に付き合ったりもしてきた慧がたった1人に・・・・・なにより男に掴まってしまうとは
自分自身も考えていなかったことだった。
 今だ、その身体の全てを手に入れているわけではないが、それでも日々いずみに惹かれている自分がいる。
触れる手や、重ねるだけの唇にドキドキするなど、遊び人を自認してきた自分には信じられないほど初々しい気持ちだ
が・・・・・。
だからこそ、全てが手探りで、慧は滑稽なほど足掻いているしかなかった。



 「バレンタインのお返しですね」
 優秀な秘書は、慧が全てを言う前に理解して口を開く。
慧は頷いて、溜め息をついた。
 「女ならやるものも決まってるが、男に何をやるかなんて・・・・・」
 「松原君は、時計やブランド物に興味がないですからね」
 「お前は?甥っ子に何か買ってやるのか?お前もそれなりに経験豊富だからな」
慧とは違い、尾嶋は生粋のゲイなので、それなりの経験も豊かだろうと、純粋な好奇心も含めて訊ねてみると、尾嶋は
呆れたような溜め息を付きながら言った。
 「私の経験は参考になりませんよ」
 「どうして」
 「私は相手に合わせて、それぞれが好きなもの、合うものを選んでいますから。女のように一律にブランド物ならいいだ
ろうということはないんですよ」
 「お前なあ」
 「体験人数が豊富なのと、恋愛経験が豊富なのは違いますよ」
 「・・・・・」
 確かに尾嶋の言うのは慧の痛いところをついているので反論することも出来ない。
仕方がないと、慧はまた1人で考え始めた。



 「スケジュールの変更は無いそうです」
 「・・・・・」
 「専務?」
 「分かった」
 「はい。失礼します」
 そして、3月14日当日。
この日になっても今だ何を贈るか決めていない慧は、朝のスケジュール確認でやってきたいずみの後ろ姿をじっと見つめ
ていた。
(何の日か気付いていない・・・・・ことはないよな)
多分、いずみは自分自身も義理チョコをくれたであろう秘書課の女性達にお返しをするだろうし、今日がどういう日かは
分かっているだろう。
その上で、何も言わないのはきっと慧のお返しに期待していないか・・・・・いや、自分がお返しを貰うこと自体全く頭の
中には無いのかもしれない。
恋愛の駆け引きというものをしないいずみの行動に裏は無いはずだ。
(それもまた寂しいな・・・・・)
 仮にも恋人同士なのだ。少しは期待したり、そうでなければ何も無いのかと拗ねたような表情をしても可愛いくらいな
のにと、慧は自分勝手な思いに内心眉を顰めている。
 「・・・・・いずみ」
 そんな気持ちがあったからか、慧は部屋から出て行こうとしたいずみを思わず呼び止めた。
 「はい?」
 「・・・・・」
 「あの・・・・・何ですか?」
 「いや、いい」
 「?失礼します」
実際に引き止めても、何を言っていいのか分からない。
まさか『何か欲しい物はあるか』とは、余りにカッコ悪くて聞けない。
 「・・・・・」
 部屋の隅に立っている尾嶋が、僅かに笑っている気配がする。
慧は面白くない気分のまま、数字だらけの書類に視線を落とした。



 その日はずっと落ち着かないまま時間が過ぎていき、そろそろ退社時間も近付いてきた。
今日は金曜日なので残業する者達も多くはないだろう。
 「失礼します」
 その時、ドアのノックと共にいずみが姿を見せた。
 「・・・・・どうした?」
今日は一日中精神的に疲れてしまっていた慧の口調は自然と冷淡なものになっていて、にこやかに部屋の中に入っ
てきたいずみは少し途惑ってしまったかのように足を止めてしまった。
 「あ、あの・・・・・」
 「・・・・・」
 「お、尾嶋さんが、専務がお腹が空いたみたいだから軽く摘めるものをって言ってきたので・・・・・」
 「・・・・・」
 「丁度、俺、クッキーを持ってたから・・・・・」
 見ると、いずみの言葉を裏付けるように、その手にはトレーにコーヒーとクッキーがのっていた。
(・・・・・お前が俺にくれてどうする・・・・・)
慧は大きな溜め息をつく。
それは自分自身に向けてついたものだったが、いずみはたちまち顔を曇らせて慌てて頭を下げた。
 「すみませんっ、直ぐ代わりのもの持って来ますからっ!」
 「いずみっ」
 部屋を飛び出そうとするいずみを、慧は立ち上がって慌てて呼び止めた。
 「お前、怒ってないのかっ?」
 「は?」
 「今日、俺はお前に何もやってないぞ!」
 「は、はあ」
いずみは慧が何を言おうとしているのか全く分かっていないようだ。
始めから説明するのも恥ずかしかったが、いずみに謝らせるつもりもなかった慧は渋々自分の不機嫌の理由を話した。
 「・・・・ホワイトデー、ですか」
 「ああ。俺はバレンタインにお前からチョコを貰ったのに、今日お前に何の贈り物も用意していない。ずっと考えていた
が思いつかなくて・・・・・いや、それは言い訳になるな」
 「・・・・・」
 「すまない、いずみ」
 「・・・・・俺、気にしてないですよ?」
 黙って慧の話を最後まで聞いていたいずみは、本当に嬉しそうに笑いながら言う。
どうしてそんな風に笑ってくれるのか分からない慧はただ立ち尽くすしか出来なかったが、いずみはトレーを慧の机の上
に置くと、トンッと慧の胸に子供のように抱きついた。
 「物よりも、専務がそんな風に真剣に考えてくれたことが嬉しいです」
 「い、いずみ・・・・・」
 「ありがとうって、言葉だけで十分ですよ?」
 「・・・・・っ!」
 慧は反射的にいずみを抱きしめた。
ここまで誰かを愛しいと思う感情が自分に生まれるとは思わなかった。
(じいさん・・・・・感謝する・・・・・っ)
男の許婚などと勝手に決めた祖父のことを、自分がまだ遊ぶ為の理由にするつもりだった慧。しかし、いずみの事を知
るに連れて、どんどん惹かれていくことを自覚した。
その気持ちは冷めることなくどんどん大きくなっていって、多分今では自分の方がいずみの事をより想っているだろう。
遊びの恋愛の時は本気になった方が負けだと嘯いていたが、本気の恋愛をすればそんな事など関係なくのめり込んで
いくのだと分かる。
 「いずみ・・・・・返事はOKだからな」
 「はい」
 笑みを含んだいずみの答えに、慧も笑いが零れた。
そして、嬉しくなった慧は、つい浮かれて余計な一言を言ってしまった。
 「いい機会だから、今夜全部俺のものになるか?」
 「・・・・・っ!まだ早いです!」
思わずといったように叫んだいずみは、慌てて慧の胸を突き飛ばすと部屋を出て行く。
その素早い動きに一瞬呆気に取られた慧だったが、次第に声を出して笑い始めた。
 「・・・・・ったく」
それは、ノリで言うにはいずみにとっては重大な問題だったようだ。
しかし、今夜の食事ぐらいは頷かせてみせると、慧は秘書室で顔を真っ赤にしているであろういずみを捕獲しに、ゆっく
りとした足取りで部屋を出て行った。




                                                                end





慧&いずみ編です。
このカップルは、慧の方がどんどん本気度が上がっていって、いずみの周りでワタワタしているイメージです。
何時になったら、大人の関係になれるのでしょうか(笑)。