西園寺&響編
カチャッと、僅かなドアの開く音がする。
まだ午後10時過ぎ、それ程遅い時間ではないのに、相手が自分のことを気遣っているのだということが分かり、そんな他
人行儀な気遣いに、西園寺久佳(さいおんじ ひさよし)は思わず眉を顰めてしまった。
(堂々と中に入ってくればいいものを)
「久佳(ひさよしさん)」
リビングの明かりがついていることで、自分がいるという可能性も考えたのだろう。愛しい相手は一瞬嬉しそうに顔をほこ
ろばせたが、直ぐにごめんなさいと謝ってきた。
「今日も、久佳さんに食事1人でさせちゃったでしょう?」
「・・・・・いや、私もさっき帰ったばかりだ」
「本当に?」
もちろん、それは嘘だった。
何時帰ってくるのか分からないので、午後7時には仕事を家に持ち帰る日々が続いているが、もちろんそれを言うつもりは
無い。
ただ、あまりにも毎日遅いので、身体の方が心配だった。
「大丈夫なのか?」
「ありがとう、久佳さん。でも、僕の選んだ仕事だから大丈夫。久佳さんも、仕事無理しないでね?」
自分のことよりも先ず人のことを気遣う相手がもどかしい。西園寺は出来るだけ表情に表さないようにしながらも、キッ
チンへと向かう後ろ姿がいちだんと細くなったのが気になった。
会社社長である西園寺が、両親を亡くした高階響(たかしな ひびき)を引き取ったのは4年ほど前だ。
始めから恋愛関係を望んでいたとは思わないが、共に暮らしていくにつれ、控えめで、健気な響を愛しいと思い始め、紆
余曲折はあったものの、お互い相思相愛の関係になった。
しかし、響は高校を卒業すると同時に、自身で決めた福祉関連会社へと就職をし、大阪へと単身で向かった。
響の意志を大切に、1年間、西園寺は我慢した。そして、ようやく響は東京へと戻ってきて、自分のもとから仕事に通うよ
うになったのだが・・・・・。
(労働基準違反だ)
西園寺がそう思ってしまうほどに、響は毎日忙しそうだ。
一時間半ほど掛かる通勤時間(バスと電車)のせいもあるかもしれないが、夜9時を過ぎることも多く、いっそ彼の勤める
会社の近くにマンションを買おうかとも思ったが、仕事の関係上一箇所にいるというものでもないので、どこに居住を決め
るのかも難しい。
西園寺の力をすれば、強力な株主となって発言することは十分可能だったが、それを響は望んでいないだろうということ
も分かっていた。
(また、久佳さんよりも遅くなっちゃった)
キッチンで簡単な夕食の準備をしようとした響は、流しの中が綺麗なことに気がついた。
「久佳さん、夕食・・・・・」
「外で食べた」
「・・・・・」
(・・・・・嘘だ)
優しい久佳が、何の連絡もなく外食をすることは考えられない。きっと、自分が帰ってくるのを待ってくれていて、彼は食事
を取っていないのだろう。
「・・・・・あの、僕、今からチャーハン作るけど、久佳さんも少しだけ付き合って?1人で食べるの寂しいし」
「・・・・・そうだな、1人の食事は侘しい」
東京に戻ってきて2ヶ月あまり。
施設が多いだけに、覚えることもやることも多くて、響は1日24時間という時間が足りなかった。
もちろん、会社も色々と考えてくれていて、本当は少し仕事の種類を絞った方がいいのではと言われたのだが、響は今
のうちに知識を吸収したいからと自分で願い出て、いろんな場所へと出向いていた。
大変だが、充実した毎日。しかし、大切な久佳に心配や我慢をさせているのは辛い。
響自身、ここしばらく身体を重ねることも出来なくて(疲れて、何時も眠ってしまう)、寂しいと勝手に思ってしまうこともあ
る。
それでも、後もう少し経ったら、一通りの仕事を回ったことになり、それからは専門の分野に取り組むので今よりは楽に
なるだろう。
後もう少し・・・・・久佳には我慢してもらうしかなかった。
(ごめんなさい、久佳さん)
「はい」
久々の響の手料理に、西園寺の表情は意識していなくても緩んだ。
響は片手が不自由とはいえ、出来るだけ自分のことはする人間で、今回の仕事の中でも様々なリハビリの仕方も習った
のか、僅かだが動くようにもなってきているようなので、少しはこの仕事を選んだ意味もあったかもしれない・・・・・西園寺の
認識ではそうだった。
「・・・・・美味い」
「本当に?」
「響の味付けは私に合っているからな」
「久佳さん、口が肥えているから、お世辞でも嬉しいな」
言葉通り、嬉しそうに笑いながら食事をする響を見つめ、西園寺は変わったなとしみじみと思った。
出会った頃は、庇護されて当然というような儚げな風情だったのが、今の響はとてもしなやかで強い様子が目に見えて分
かる。
世間に出て、色んなことを知って・・・・・もしかしたら、西園寺の手の中から飛び立つことも可能かもしれない。
(そんなことは絶対に許さないが)
「久佳さん?」
手が止まってしまった西園寺に、響が声を掛けてきた。
「響、仕事が好きか?」
本当に聞こうと思ったのは、仕事と自分のどちらを選ぶのだという女々しい言葉だが、さすがにそれを言うのは躊躇われ
た。過去、自分の方が何度もそう言われ、鬱陶しいと思っていたからだ。
しかし・・・・・響はそんな自分とは違う人間だった。
「仕事は、好きですよ」
「・・・・・」
「でも、それも、久佳さんと生きていく自分になれるために必要だと思うから。久佳さんがいなかったら、僕、こんなに頑張
れないと思います」
「響・・・・・」
「ありがとう。久佳さん、多分たくさん言いたいことがあるのに、僕のために黙っていてくれているの、分かってる。でも、もう
少し待って。もう少し経って落ち着いたら、たくさん久佳さんとイチャイチャしたい」
僕の方が、きっと我が儘なんだねと言う響の言葉を聞いた瞬間、西園寺は椅子から立ち上がった。
「久佳さん?」
「響」
たまらなく、響に触れたいと思った。
セックスというよりも、響の身体のどこかに触れて、自分の気持ちを伝えたい。響の身体に一番負担にならない方法はこ
れだけかもしれないと、西園寺は椅子に座っている響の後ろに立ち、
「んっ」
そのまま顔を上に向かせると、少しだけ驚いたように薄く開いていた唇にキスをする。
「んっ」
直ぐに、響は甘い声を漏らし、スプーンを握っていた手を、今度は自分のシャツへと回してきた。
(響・・・・・)
拒むのではなく、響からも求められていると感じ、西園寺はそのままキスを深いものへとしていく。
本当ならセックスに持ち込みたいが、明日は平日で、響はまた朝早くから仕事へ行かなければならない。
(・・・・・週末だな)
今週は、どんなに響が頼んできても、休日出勤はさせないぞと強く心に誓いながら、西園寺はキスのせいで身体の力
が抜けてきた響を強く抱きしめた。
end