慧&いずみ編





 ドアがノックされた。
この部屋に直接入ってくる人間は限られているので、北沢慧(きたざわ さとし)は顔を上げないまま書類の上でペンを動
かし続けた。


香西物産(こうさいぶっさん)という超一流企業。会長以下、親族がずらりと役員を務める香西物産の中で、慧は31歳
の若さにして専務という役職にあった。
親族会社だからというわけではなく、慧自身国内トップの大学を卒業後、海外の有名な大学をスキップで卒業した程の
頭脳の持ち主で、その類まれなカリスマ性と、強いリーダーシップ、それ以上に、素晴らしい容姿の持ち主の御曹司は、
間違いなく時期社長だといわれていた。

 しかし、そんな前途洋々な慧も、最近は情けない姿ばかりを晒してしまっている気がする。
それも、一番カッコイイ姿を見て欲しいと思っている相手に限って・・・・・。



 「お疲れ様です」
 中に入ってきたのは、まだ専務秘書見習いという肩書きが取れていない、松原いずみ・・・・・まだ社会人1年生の彼は
正真正銘の男であるが、慧がやっとの思いで手に入れた愛しい恋人だった。
 「ああ、すまないな」
 差し出されたカップのコーヒーに口をつけた慧は、はあ〜と溜め息をついて空を見上げると目を閉じた。
 「・・・・・いずみ」
 「松原です」
 「約束、破ってごめん」

 「今日の夕食は美味しいパスタを食べに行こう」

そう約束をしたはずだったのに、海外の取引先のトラブルで、こちら側の責任者である慧は席を外すことが出来なくなって
しまった。



 そして、ただ今午前1時過ぎ。

 ようやく30分ほど前に先方から連絡があり、電話やメールで色々打ち合わせをして、つい5分前・・・・・電話を切ったと
ころだった。
社長への報告書類にサインを入れればようやくこのトラブルは解決というところだが、今からではろくな店は開いてないだろ
う。
 「帰っても良かったんだぞ」
 「だって、お、私は、専務秘書ですし」
 「超過勤務だ。残業代、たっぷり出してやるからな」
 「専務だってすっごい残業じゃないですか!俺なんか、ただ掃除当番の表作ってたくらいで仕事なんかしてなかったし!」
 「・・・・・」
 正直ないずみの言葉に、慧は張り詰めていた緊張が緩やかに解けていくような気がしていた。
やる仕事が無かったのに、こんな時間まで一緒に残っていてくれた・・・・・それは、暗に慧を待っていただけだと言っている
のも同じだろう。
 「あ〜、疲れたあ〜」
 「昼からずっとここに缶詰だったんですから」
 「よりによって今日なんてなあ・・・・・」
接待予定が無く、急ぎの仕事も無い日を選んだつもりだった。

 「過去の行いのせいですよ」

そう言って皮肉気に笑た秘書室のボスは、もうとっくに帰宅しているはずだ。
慧は時計を見上げ、とにかくいずみを送っていこうとイスから立ち上がった。
 「いずみ、帰るぞ」
 「あ、あの」
 「ん?」
 「あの・・・・・お腹、空きませんか?」
 いずみは少し躊躇った後、思い切ったように口を開いた。
 「美味しいって評判のラーメンの屋台があるんですって。イタリアンじゃないけど、一緒に食べませんか?」
 「いずみ・・・・・」
スーツの上着に腕を通そうとした慧は、思い掛けないいずみからの誘いに一瞬動きが止まってしまった。
(俺を・・・・・誘ってくれるのか?)
何時も強引に誘うのは自分の方で、いずみはただそれを受け入れるような形だった。それが嫌だとは思ったことはないが、
こうしていずみの方から誘ってくれると、自分の想いが一方通行ではないと感じることが出来る。
 「あの・・・・・やっぱり屋台とかじゃ、や・・・・・ですか?」
 なかなか返事をしない慧に不満なのかと思ったのか、いずみがどうしようかと視線を揺らした。
 「まさか!喜んでいくぞ!」
 「せ、専務?」
 「何杯でも俺が奢ってやるからなっ」
 「そんなに、何杯も食べれませんよ」
その勢いに笑ったいずみは、にこにこ笑って慧のコップを持った。
 「じゃあ、専務も行くって伝えますね」
 「・・・・・も?」
 ・・・・・何かが、引っ掛かった。
 「それって・・・・・」





 「当然、私にもたっぷりの残業代をくださいますよね」

 いきなり開いたドアから現われたのは、もう当然帰ったと思っていた秘書室長で専務秘書の尾嶋和彦(おじま かずひ
こ)だった。
慧の反応が予想通りだったのか、ニヤニヤと意地悪く笑っている。
 「・・・・・帰ったんじゃないのか?」
 「見習いが残っているのに、秘書が帰れるはずがないでしょう。ほら、帰り支度されたら行きますよ」
 「尾嶋さんの知ってる屋台、すっごく美味しいんですって!楽しみですねっ」
いずみは楽しそうに笑って言う。
全く裏表の無いその笑顔に、慧は降参と心の中で手を上げるしか出来なかった。





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