沢渡&和沙編
沢渡俊也(さわたり としや)は黙ったままカップを口にする。
豆にまで拘るマスターの入れるコーヒーは絶品で、この店のものを飲めば他の店では飲めないと思うほどに気に入っていた
はずなのだが、なぜか今はほとんど味がしない。
それは、多分目の前の光景のせいだろう。
「・・・・・皺」
カウンターの中のマスターが、笑いを含んだ声を掛けてきた。
その声に顔を上げた沢渡は、チラッと眼差しを向けて・・・・・どういうことと彼に聞いた。
「ん?」
「あれ」
「あれって・・・・・今までだってあったじゃないか」
「・・・・・酷過ぎる」
そう言った沢渡は、マスターからまた視線を前方に移した。
そこでは、ここの店でバイトをしている沢渡の恋人で、マスターの甥でもある杉野和沙(すぎの かずさ)が、注文の品を
運んでいるのだが・・・・・それだけならいいのだが、サラリーマン風の2人組にしつこくデートに誘われているのだ。
「ねえ、休みの日、2時間でいいからさ。映画見に行こうよ」
「え、いえ、僕は・・・・・」
「和沙君はもう成人したんだっけ?それだったら美味しいお酒の店に案内したいな」
「お、お酒はちょっと」
「・・・・・」
(もっと、はっきり断りなさい、和沙)
本当は、このままつかつかと歩み寄って、和沙の腕を引っ張って来たいところだが、ここは和沙のバイト先という彼のフィ
ールドだ。子供でもない彼を自分が指図するのもおかしいと、沢渡はずっと我慢していたのだが、それも目の前のサラリー
マンで3組目だとすると、さすがに眉間に皺が寄ってしまう。
悪いわけではない和沙を責めそうになってしまう。
「ここのところ、特に頻繁かな」
「・・・・・本当?」
「最近、仕事が忙しくて迎えにしか来なかっただろ?お前の姿がない時は、結構声を掛けられているぞ。まあ、俺がい
るから露骨なことはしないが」
「・・・・・」
そんなことは和沙は話さなかった。多分、自分に心配をかけないためだろうが、こういうことこそ恋人である自分に話して
くれるべきだと思う。
(今日は苛めそうだな)
「でも、多分お前のせいだぞ」
「・・・・・俺?」
どうして自分のいない時の責任が自分にあるのだと聞き返せば、マスターは少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「先々月の旅行から、時に酷くなったんだ。それでも身に覚えがないのか?」
「・・・・・」
その言葉に、沢渡は口をへの字に歪めた。
先々月、和沙と初めての旅行をして、恋人になって数年、ようやく身体を繋げることが出来た。同性はもちろん、異性
ともセックスの経験がなかった和沙の身体は真っ白で、とても辛そうだったが健気に沢渡を受け入れてくれた。
その様が可愛くて、愛しくてたまらなくて、経験が豊富なはずの沢渡も緊張した一夜だったが・・・・・それから、まだ片手で
数えられる回数だが、和沙と身体を重ねた。
やはり緊張はするようだし、痛みもあるみたいだが、それでも、かなり身体が馴染んできたようで、最近は感じるという意
味も分かってきたようだ。
それにつれ、和沙もだいぶ自分に甘えてくれるようになり、今が本当に蜜月なのだと沢渡は嬉しく思っていたのだが。
(それ、か)
沢渡の複雑な表情に、自分の言葉の意味が通じたのが分かったらしいマスターが、カップを拭きながら小さな声で言葉
を続けた。
「叔父としては、お前達2人の間に何があったのか、あまりちゃんと聞きたくないんだが・・・・・分かる奴には分かるんじゃ
ないか?和沙の雰囲気が変わったのが。これまでは様子見だったのが、男相手の恋愛も出来るんじゃないかって、まあ、
お前からしたら面白くない話だろうが・・・・・あ、ご苦労様」
「沢渡さん、いらっしゃい」
その時、ようやく客から逃げてきた和沙が、本日初めての笑顔を向けてくれた。
沢渡が来たことには気付いていたのだが、なかなか客との会話を中断することが出来なくて遅くなってしまった。
「お疲れさん、和沙」
「沢渡さんこそ、お疲れ様です。今日は早いんですね」
「やっとプロジェクトが一段落したから。和沙の働く姿が見たかったし」
「・・・・・」
自分だったら、たとえ沢渡の働いている姿を見たくてもはっきりと言うのは恥ずかしい。こうして、口に出して言ってくれるこ
とがどんなに大変なことか、臆病な自分の代わりに言葉を尽くしてくれる沢渡は本当に優しい人だと、和沙は思った。
「ねえ、和沙」
「はい」
「最近、モテルみたいだね」
「え?」
「さっきも、遊びに誘われたんだろう?」
あえて、デートとは言わなかったが、和沙の可愛い顔が困ったように変化する。彼が、あの誘いを楽しいものだと思って
いなかったことが分かっただけでもよしとした。
(いや・・・・・牽制は必要か)
これからも、仕事をしている限りは店に頻繁に来れないかも知れない。
大学ももちろん心配だが、大人の男が集まるこの店の客の方をもっと警戒しなければならないだろうと、沢渡は自分の
横顔に注がれる嫉妬の視線にその気持ちを強くする。
「和沙」
「え・・・・・んっ」
いきなり和沙の腕を引っ張った沢渡は、カウンターの椅子から身を乗り出すようにして和沙の唇を奪った。店の中には
数人の客がいて、その瞬間にザワッと空気が揺れる。
重ねるだけではあまりに子供っぽいし、かといってあまり濃厚過ぎれば和沙の足腰が立たなくなるので、その辺の加減
が難しかったが・・・・・。
「んぁ」
唇を離した時、和沙の顔は真っ赤になっていた。しかし、そこに非難するような光がないように見えるのは自分の気の
せいなのだろうか。
「怒った?」
「・・・・・」
「和沙」
「・・・・・怒って、ません」
「ありがとう」
寛大な恋人の言葉に目を細めた沢渡は、そのまま和沙の身体を抱きしめる。
驚きと嫉妬の入り混じった視線が、先程よりも強く自分に突き刺さるものの、この幸福の前ではまるで気にならない。
そんな、少しだけ身体を強張らせる和沙をそのまま抱きしめ続けた沢渡の耳に、マスターの呆れたような声が届いた。
「全く・・・・・どっちが子供だか」
(・・・・・その通り)
この恋愛に関しては大人ではないのだと、沢渡は自分の心の中で呟いた。
end