Shy Boy








 「おはよう、いずみちゃん、はいこれ」
 「え?」
 朝、秘書室の自分の席に着くなり、新人秘書の松原いずみは、一番年嵩で秘書達の姉御的存在の加藤江里子
(かとう えりこ)から大きな包みを手渡された。
 「これ?」
 「今日が何の日か分からないの?バレンタイン。貴重な秘書室の男性には愛情を込めて、秘書室の女性全員から
ね、義理チョコだけど」
 「あ・・・・・今日だったんですか」
 「いずみちゃん、結構人気があるから今日は忙しいわよ」
 「そ、そんなこと無いですよ!専務や尾嶋さんの方が全然・・・・・っ」
 「あの2人は別格」
 「・・・・・そうですよね」
(やっぱり、専務はいっぱい貰うんだろうな・・・・・)
 「で、用意してるの?」
 「は?」
 「やあねえ、チョコよ。専務に渡すチョコ」
 「い、いえ」
 「やっぱりねえ。午前中外に出る用を作ってあげるから買ってらっしゃい。ほら、美味しい店リストもプレゼント」
 「・・・・・」
 「頑張ってね、いずみちゃん」



 自分のデスクに座ったいずみは、手渡されたチョコの袋とメモ用紙を交互に見つめながら溜め息をついた。
(やっぱり・・・・・渡した方がいいのかな)
本来は、女が男に愛を告白する為の行事だとは思うが、恋人同士のイベントでもあるのは知っていた。
学生時代のままごとのように付き合ったことがあった彼女からも貰ったことはある。
男同士である自分と専務の北沢慧(きたざわ さとし)が、いわゆる恋人同士といわれる関係だということはいずみも自
覚はしていた。
自分から告白もしたし、ある程度の関係まではいっている。
 そんな自分達の関係を考えて、いずみもずっとどうしようかと悩んではいたのだ。
(多分、俺が渡す方なんだろうなって思ってたけど、やっぱり買いに行くのは恥ずかしかったし・・・・・)
 華やかなバレンタインのチョコを買うのは多少の抵抗があったし、かといってコンビニで買うようなチョコは慧には似合わな
いような気がした。
男の目から見ても最上級な男の部類に入る慧には、本当に最上級なチョコが似合うのだ。
 「・・・・・」
(欲しがってるかな・・・・・専務)



 「朝からそのにやけた顔はやめて下さい」
 ロビーで慧を出迎えた専務秘書であり秘書室長でもある尾嶋和彦(おじま かずひこ)は、役員用のエレベーターの
ドアが閉まった瞬間に顔を顰めて言った。
 「ん?にやけてるか?」
 「崩れてます」
 「崩れてたっていい男だろ」
 「・・・・・あなたのその無駄な自信には感服しますよ」
 「何とでもいえ。俺は今日は怒らないから」
 尾嶋はあからさまな溜め息をついた。
慧の上機嫌の理由は、ほぼ正確に分かっているとは思う。
(イベント事には細かな人だからな)
 今日が恋人同士にとっては大切な日であるということは尾嶋も十分に自覚していたし、尾嶋自身、今朝は同居して
いる甥であり、最近やっと手に入れた恋人でもある洸(こう)からチョコレートを貰ったばかりだ。
もちろん尾嶋も今夜は洸を食事に連れ出すつもりだ。
 そんな自分達と同じ様に男同士でありながらも恋人同士である慧といずみが、今日この日に何事か約束をしていた
としてもおかしくは無かった。
 おかしくは無いのだが・・・・・こんな朝っぱらから何か色っぽいことでも期待しているような慧のニヤケ顔は、どう考えても
仕事に支障が出そうな感じだ。
(これまでの相手とはまるっきり違うなんて分かりやすい・・・・・)
 今まで並以上の華やかな女関係を誇ってきた慧。どんな美女相手でもかなりの余裕を持って接していたし、ましてや
仕事に影響するほどの感情のブレは無かった。
それが、本命をいずみと定めてからの慧の行動は、まるで今までの彼とは別人のように分かりやすい。
(その方がいいのは確かなんだが・・・・・)
今日1日ずっとこうなのかと思うと溜め息も零れてしまった。



 ロビーまでいずみが出迎えに来なくても、慧の機嫌が悪くなることは無かった。
それよりも今日という日を意識しているだろういずみのテレ具合が可愛くて仕方が無い。
(どんなチョコをくれるんだろうな)
 これまで、慧にとってのバレンタインは1年の中の一つの行事に過ぎなかった。
その時付き合っていた(遊んでいた女達も多いが)相手からチョコを貰い、その見返りとしてホワイトデーには何倍返しも
のブランド品や食事を与えた。
それに付随してセックスというものも介入してきたが、どちらにせよ慧には胸をときめかせる行事ではなかったのだ。
 しかし、今年はいずみという本命の恋人がいる。
性別は男だが、慧は自分でもそんなことが全く気にならなかった。
たとえ男でも、女以上に可愛い人間はいる。それは容姿だけでなく、性格も含めてだ。
そんないずみと初めて迎えるバレンタインに期待する慧の気持ちは、どんどん大きくなっていくばかりだった。



 そんな慧の機嫌は、時計の針が午後を回り始めてから少しずつ下降線を辿っていった。
 「尾嶋」
 「はい」
 「いずみは?」
 「松原、ですか?」
わざわざ言い換えた尾嶋は、入れてきたコーヒーを慧の前に置きながら事も無げに言った。
 「会長に呼ばれまして、昼前からそちらに」
 「じいさんにっ?」
思い掛けない返答に、さすがの慧も思わず声をあげてしまった。
慧の祖父であり、この会社の会長でもある俊栄は、男であるいずみを孫である慧の許婚に指名したほどのいずみ贔
屓で、沖縄で改めで自己紹介して以来、時折いずみを呼び出した。
 会長とはいえ、今は自宅にいることが多い俊栄の目的が、仕事ではなく単にお気に入りのいずみと遊ぶ為だというこ
とは分かりきっている。
苦く思いながらも、いずみを見つけてくれたのは俊栄である為、無下には出来なく従っていた慧だが、今日に限ってはど
う考えても自分といずみの邪魔をしているとしか思えない。
 「尾嶋」
 「今から行かれても会長はいらっしゃいませんよ。夕方にはロスに行かれるはずなので、今頃は空港です」
 「・・・・・勝ち逃げのつもりか」
慧は苦々しく呟いた。



 いずみが秘書室に戻ったのは、既に就業時間も近い午後5時少し前だった。
 「全く・・・・・参っちゃった」
いきなり俊栄に呼び出されて自宅に行ったいずみは、結局美味しい料亭に連れて行かれたり、ゲームセンターに行った
りと、全く仕事ではなく遊んで1日を過ごしてしまった。
俊栄と過ごしていると、本当に自分の祖父と遊んでいるような気がして、全く仕事をしていないことを申し訳なく思うの
だが、それでもこの楽しい時間は捨てがたい。
 それに、今日は・・・・・。
いずみは、専務室のドアの前に立つと、一度大きな深呼吸をしてからノックをした。そして、尾嶋が教えてくれた通り一
呼吸おいてからドアを開ける。
 「失礼します」
 一礼して顔を上げたいずみは、じっと自分を見つめている慧と目が合った。
少し怒っているような・・・・・どちらかというとふてくされたような顔の慧に、いずみはもう一度頭を下げて言った。
 「今日は1日席を外してしまって、申し訳ありませんでした」
 「・・・・・会長の命令だからな」
 「あ、あの、それで・・・・・」
 「用がそれだけなら下がっていい」
 「・・・・・」
 「聞こえなかったか?」
 「・・・・・専務・・・・・」
(怒ってる・・・・・)
 専務秘書見習いの自分が、勝手に会長の俊栄の命令に従ったのが気に食わなかったのか、何時もならば優しい眼
差しでからかってくる慧の態度は硬く冷たい。
いずみはギュッと拳を握り締めたが、これだけはと思いながら勇気を出してゆっくりと慧に近付いていった。
 「これ・・・・・貰っていただきたいんですけど・・・・・」
 「・・・・・これは・・・・・」
 「今日、会長にお付き合いして頂いて、買いました。俺1人じゃ、お店にも入れなかったし・・・・・。すみません、勝手
に押し付けて・・・・・」
江里子から渡された店のリストのメモを俊栄に見られてしまったいずみは、嬉々とした俊栄に引っ張られるようにして店
に入ることが出来た。
 いずみにとってはまさに今が今日のメインイベントだが、これ程に機嫌の悪い慧の傍に居ても仕方が無い。
 「失礼します」
今日はもう帰って、明日もう一度謝ろうと思ったいずみだが、部屋を出る前にグイッと腰を掴まれた。
 「いずみ、すまないっ」



 大人気ない真似をしてしまったことを慧は後悔していた。
きっと、今日1日は自分のことなど忘れて俊栄と楽しく過ごしていたんだろうと思い込んで、まるで子供のように八つ当た
りしてしまったが、いずみの頭の中にはちゃんと自分の存在があったのだ。
 「いずみ」
 「・・・・・」
 「いずみ」
 何度か名前を呼ぶと、いずみはそっと手を伸ばして慧の服を掴んできた。
 「・・・・・ごめんなさい」
もう一度、囁くように謝るいずみを、慧はその身体を返して正面に向ける。
 「俺にだけ?」
 「・・・・・他に、あげる人なんていません」
 「そうか」
その言葉だけで、今日1日の面白くなかった時間が全て消えた。
 慧はいずみの頬に唇を寄せ、そのまま唇を重ねていく。普段ならば仕事中は駄目だと拒否するいずみも、今日だけ
は特別なのか素直に受け入れてくれた。
 「今日は、一緒に過ごそう」
口付けを解いて耳元で囁く慧の言葉に、少し躊躇った後で微かにいずみは頷く。
恋人同士の時間は、やっと今から始まるようだ。




                                                                end





慧&いずみ編です。
久しぶりにこの2人を書きましたが、相変わらずな感じです。
この後、いよいよいずみと最後までと思った慧ですが、急にロス行きがキャンセルになった俊栄に捕まって、不本意ながらも
3人でのバレンタインになってしまいます(笑)。
なかなか進まない2人ですねえ。