想定外
腕時計を見下ろしていた江坂は、不意に鳴った携帯の音にも視線を向けないままだ。
それは護衛の者の電話の音で、直ぐに出た男は短く答えて電話を切った。
「今校舎を出られたようです」
「・・・・・」
その言葉に、江坂は顔を上げる。運転手が素早く下りて回ると、後部座席のドアを開けた。
「何分掛かる」
「5分も掛からずに門を出られると思います」
「・・・・・」
江坂は返事を返すことも無く、ただ門から流れてくる人波に視線を向けている。
長身でノーブルな美貌の江坂が、運転手付きの高級外車の側に立っているのはひどく目立ち、擦れ違う者は一様に
目を奪われていた。
特に女達はいかにも声を掛けたそうにして視線を向けてくるが、眼鏡の奥の鋭い目はそれらの視線を一切排除してい
る。
(ガキでも、女は色気づくものだな)
何時もなら全くといっていい程接点の無いこの場所に、煩わしい視線を受けながら江坂が立っているのは意味があっ
た。
それは・・・・・。
「・・・・・」
見覚えのあるほっそりとしたシルエットが視界に入った江坂の表情は、まるでそれまでの無機質な機械に見事に感情
が注ぎ込まれたように鮮やかに変わり、その美貌に見惚れていた者達がざわめいた。
その上、
「江坂さん?」
自分達と同じ学校の門から出てきた、こちらも目を見張るほどに整った容姿の青年が、驚いたように声を上げて男の傍
に駈け寄っていく。
「どうしたんですか?」
「あなたを迎えに来たんですよ、静さん」
「俺を?」
「今日は3月の14日でしょう?先月のバレンタインのお礼をしようと思って」
江坂凌二(えさか りょうじ)は、日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の理事の1人だ。
まだ36歳の若さにしては異例の出世スピードなのだが、江坂自身にとっては全て予定の範囲内のことだった。
そんな、全てを計画通りに歩んできた江坂にとって、不意に出会った小早川静(こばやかわ しずか) の存在はかなりイ
レギュラーだったが、それは江坂のモノクロな人生に鮮やかに色を付けてくれた。
自分の地位を利用し、何年も掛けてやっと手にした静は、今や江坂にとっては絶対に手放せない大切な存在だ。
可愛くて可愛くて、本当ならば鎖を付けてずっと部屋の中に閉じ込めておきたいくらいだが、現実はそうもいかない。
その代わりに、江坂は常に静にボディーガードをつけており、それは大学の中でも例外は無く、教師と生徒に数名、常
に静の事を報告するように手筈を整えていた。
今までならば何の興味も無かったホワイトデーというイベントも、今回からは特別な意味を持つようになった。
先月のバレンタインに静から嬉しいプレゼントを貰った江坂は、今回静が喜びそうな食事に連れて行き、そのままホテル
に部屋を取って、ゆっくりと時間を過ごすつもりだった。
「このまま出掛けましょうか」
「あ・・・・・」
「・・・・・」
一瞬、静の目に途惑いの色が浮かんだのを、江坂は見逃さなかった。
(何か・・・・・)
「さあ、静さん」
その途惑いにはわざと気付かないフリで更に言葉を続けると、そのまま少し強引に静の背を押そうとする。
すると、
「小早川!」
大きな声が静の名を呼び、静は直ぐに振り返った。
「村野さん」
「・・・・・」
(ムラノ・・・・・村野亜由美か)
静と同じゼミに通っているその女の素性は既に調べ済みだった。
どちらかといえば男っぽくさっぱりとした性格の主で、高校時代から付き合っている相手もいるらしい。
そのせいか、江坂の警戒外の存在となっていたが・・・・・。
(どんな付き合いだ?)
「忘れ物よっ。せっかく全部メモして来たのに、これないと分かんないでしょ?」
「あ、ご、ごめんっ」
女が差し出したメモ用紙のようなものを、静は顔を真っ赤にしながら慌てて受け取っている。
そんな風に表情を露わにする静の姿というものは滅多に見れるものではなく、江坂のまとう空気はたちまち氷のように冷
たくなっていった。
「あ、話中にごめんなさい」
女は静の傍に立つ江坂に頭を下げるが、そんな気遣いさえうっとおしく感じるだけだ。
しかし、すぐ傍に静がいるので、江坂は表面上は穏やかに笑んで(目は笑っていないが)言った。
「いいえ。静さんのご友人ですか?」
「村野亜由美です。小早川・・・・・君とは、同じゼミで」
知っている報告通りの答えに、江坂はゆっくりと頷いた。
「それは、彼が何時もお世話になっています。私は江坂・・・・・彼の後見人といったところです」
「ええ、小早川君から聞いてます。でも、ホント話通り」
「・・・・・私のことを、何と?」
「むっ、村野さん!」
少し興味があって訊ねると、静が慌てたように止めようとする。
そんな静を笑いながら見た村野は、楽しそうに言葉にした。
「すっごくカッコよくて、すっごく優しい人だって。私も、想像以上にカッコイイ人でびっくりです」
「・・・・・っ」
「それは・・・・・光栄ですね」
静が第三者に自分の事をそんな風に言っているとは思っていなかった江坂の顔には、先ほどまでの愛想笑いとはまる
で違う本当の笑みが浮かんでいる。
静はどうしようかと視線を忙しなく動かしていた。
「呼び止めてごめんね。じゃあ、結果はまた教えて!」
来た時と同じようにあっという間に立ち去った村野を見送ると、江坂はそっと静の肩を抱きながら言った。
「ここは学校の前ですから、車に乗って話しましょうか」
走り出した車の中、江坂は静が握り締めているメモに目をやった。
「それは、何が書いてあるんですか?」
簡単に言わないのならば、どんな手を使ってでも聞き出そうと思っていた江坂の思惑とは裏腹に、見られてしまった諦め
があるのか静は素直に口を開いた。
「村野さんの家、ケーキ屋なんです」
「・・・・・」
「それで、あの・・・・・」
「・・・・・」
「あの・・・・・美味しいクッキーの作り方、教えてもらって・・・・・」
「クッキーの?」
さすがに予想外の言葉に、江坂は思わず聞き返してしまった。
「先月の、バレンタイン・・・・・江坂さんに食事に連れて行ってもらって・・・・・その後、洋服も買って貰ったでしょう?」
「ええ」
確かに、あの数日後、静を行きつけのテーラーに連れて行ってスーツを何着か作ってやった。
「俺、学生で、あまりお金も無いし、江坂さんに似合うようなものはとても手が届かなくて、だから、少しでもお礼の気
持ちを伝えたいというか・・・・・」
「私に・・・・・手作りのクッキーを作ってくださるんですか?」
「は、初めてだし、作り方を聞いただけだから、あの、上手く出来るかは分からないけど・・・・・」
「・・・・・」
江坂は言葉に詰まった。
それ程の驚きを感じていたのだ。
バレンタインにチョコを貰って、今月は自分が何かを返すのだと、それだけを考えていた江坂だが、静は更に嬉しいサプラ
イズを仕掛けてくれようとしていたのだ。
上手だとか下手だとかは関係ない。
そうしてくれようとする思いが嬉しい。
(こんなに嬉しい想定外なことは初めてだな)
全てが自分の予想通りに、仕掛けた通りに動いていくのは楽しい。
しかし、それ以上にこんな風に愛しい人からのサプライズは嬉しくてたまらなかった。
「このまま、マンションに帰りましょう」
「で、でも、江坂さん、予約とか・・・・・」
「構いませんよ。ただ、私も一緒に作ってもいいですか?あなたが私に贈ってくれようと思っているように、私もあなたに
何かを贈りたいんです。2人で作れば一石二鳥でしょう?」
「あ・・・・・はいっ」
「では、材料を買いに行かないといけませんね」
「メモにいるものも書いてるんです。・・・・・と」
一生懸命にメモに目を落とす静の横顔に視線を向けながら、江坂の頬にはずっと消えない笑みが浮かんでいる。
(食事なんかよりも楽しそうだ)
成功しても、たとえ失敗したとしても、静と一緒にいる時間は楽しいだろう。
思い掛けないホワイトデーの時間に、江坂は自分でも苦笑を零してしまいそうなほどに気分を高揚させていた。
end
江坂&静編です。
静ちゃんの思い掛けない行動に、江坂はますます溺愛度を上げてしまいそうですね。
でも、この後また「あのお礼」と言いながら貢ぎそうな江坂。結構恋愛バカです。