伊崎&楓の場合








 「若頭、坊ちゃんが呼ばれていましたが」
 「楓(かえで)さんが?何時頃だ?」
 「30分ほど前でしょうか」
 組員の言葉に、関東でも古く、大きな暴力団『日向組』の若頭、伊崎恭祐(いさき きょうすけ)は端正な眉を寄せ
た。
(今夜行くと伝えてあったんだが・・・・・)
 日曜日の今日は昼まで会合があり、その帰りにシマの飲み屋を幾つか回ってから戻る予定になっていた。
こういう生業では、日曜日でも休みで無いことは当然で、日向組の次男である楓も十二分にそれを知っていて、口で
は文句を言うものの我が儘らしいことは言わない。
 夜は絶対に時間を空けろと言っていた楓の目的も分かっていた伊崎は、全ての所要を夕方まで済ませて戻ってき
たのだが、わざわざ楓が自分を捜しているということは何らかのアクシデントがあったのだろうか。
(一体・・・・・)
 伊崎は急に心配になり、直ぐに母屋へと向かおうとしたが、

 バタンッ

大きな音がして、母屋から続くドアが開かれたかと思うと、そこには楓が立っていた。
 「楓さんっ」
 伊崎は直ぐに数歩歩み寄る。
ざっと全身に視線をやったが、見た限りでは変わった様子は無い。
ただ、その表情は、幼いころから楓を知っている伊崎にはよく分かるほどに静かな怒りを湛えていて、
(楓さん?)
その怒りの理由が全く分からない伊崎は、じっとその顔を見つめた。




 日向組の次男であり、伊崎の愛しい恋人である日向楓(ひゅうが かえで)は、伊崎がこの世界に飛び込む切っ掛
けになった相手だ。
 まだ幼いといえる歳の楓に惹かれ、目の前に敷かれていたレールを蹴って、このヤクザ稼業へと飛び込んだ。
今更、後悔などしない。
見守るだけで十分だと思っていた楓とは、身も心も通い合った恋人同士になれたし、ヤクザとはいえ今はこの世界も
経済的に自立するのが主流になっているのでやり甲斐がある。

 愛らしかった楓は、どんどん美しくなっていた。
絶世の美女にも劣らない、完璧な美貌の主。それでいて、きちんと常識も踏まえ、庶民的な感覚もあって、自分には
過ぎた恋人だと思っている。

 そんな恋人がどうしてこんな表情をするのか、伊崎は出来るだけ穏やかに訊ねた。
 「私を捜していらしたとか」
 「・・・・・」
 「一体何の用なんですか?」
 「・・・・・」
 「楓さ・・・・・っ」
伊崎の質問には一切答えず、楓はいきなり伊崎のスーツのポケットに手を入れた。
 「何を?」
それだけではない、手に持っていたコートも取り上げてポケットを探り、そのまま顔を上げて言ってきた。
 「どこに隠した?」
 「え?」
 「チョコレート、貰ってただろうっ、女に!いったいどこに隠したんだよっ?もしかしてもう食べたのかっ?」
 「・・・・・」
(まさか・・・・・あれを見たのか?)

 今日がバレンタインだということは伊崎も当然知っていた。組の若い連中はシマの女達から貰えないかとそわそわし
ていたし、古参の組員の家族から、伊崎も微笑ましい手造りのチョコを貰った。
 楓が今日絶対に会いに来いと言ったのは、チョコレートをくれるためなのだろうと、恋人同士のイベントに、伊崎も表面
上は冷静を装いながらも楽しみにしていたのだが・・・・・。

 シマを回った時、何人かの女達からチョコレートを差し出された。
何時も世話になっている礼だと言ったが、義理にしてはかなり高額そうなそれに相手の本気度が分かって、伊崎はその
たびに辞退した。
 元々、自分と係わり合いを持つような相手からのチョコは貰わないと決めていたのだが、無理矢理押し付けられたの
も何個かあった。
それは、自分に付いてきてくれた組員へと譲り渡したのだが・・・・・。

(いったい、何時だ?)
 楓がどのタイミングでそれを見たのかは分からないが、伊崎がつき返したのではなく、強引に手渡された場面を見たの
に違いは無い。
 いくら今、自分の手にないとはいえ、受け取ったことは事実なので、伊崎は直ぐにすみませんと謝罪した。
 「・・・・・謝ったってことは、食べたのか?」
 「いいえ、下の者に譲りました」
 「・・・・・受け取ったんだな?」
 「それは確かに・・・・・すみません」




(馬鹿!どうしてそこで馬鹿正直に言うんだよ!)
 今日、それを見たのは本当に偶然だった。
伊崎に渡すためのチョコレートと、兄、そして今自分の守役として付いていてくれる津山に対しての分と、組員達へ渡す
義理チョコは買っていたものの、父に渡す分を買うのを忘れていたので、慌てて買いに出たのだ。
 「あ」
(恭祐?)
 組のシマなので、伊崎がいるのはおかしくは無い。
彼が女にモテる容姿だというのも分かっているので、歩くたびに女達がまとわりついているということも知っている。
 「・・・・・」
(チョコだ)
 そして、今日がバレンタインで、女が伊崎にチョコを渡そうとするのももちろん想像が付いていたが、楓に誠実な伊崎は
きっと断るだろうと思った。
 それなのに・・・・・。
 「楓さん」
 「・・・・・」
 「若頭も、仕方なく受け取っていらっしゃるんですよ」
津山がそう言うものの、楓はそれ以上その光景を見るのが嫌で目を逸らし、そのまま家に帰ってきた。
津山が言っていた通り、あれは組の若頭として仕方なく受けとったのかもしれないと頭の中では分かる。分かるものの、
それを理解したいとは思わなかった。

 どうせ夜に会う約束をしているので、その時に聞いてもいいと思ったが、どうしても我慢出来ずに伊崎を捜しに事務所
に行くと、まだ戻ってきていないということを聞いてさらに苛立った。
 そして・・・・・車が止まる音を聞いて直ぐに駆けつけた楓は、伊崎が貰ったであろうチョコをちゃんと間近で確認するた
めにポケットを探ったが、それは無く・・・・・。
自分に隠したのだと思うと、何だか怒りが増してしまった。




 素直に頭を下げる伊崎が妙に大人に感じ、楓は自分の中のやり場のない怒りをどうしていいのか分からない。
 「ああいうものを受け取らないというのが本当なのに、お見苦しい所を見せてしまいました」
 「・・・・・」
 「楓さんが不快な思いを抱くのも・・・・・」
 「馬鹿!」
(そんな風に謝るな!)
自分の方が理不尽なことを言っているのはよく分かっているのに、こんな風に子供に対するように言われると居たたまれ
ない気持ちになるのだ。
 「楓さん」
 「俺が変なこと言ってるの!」
 「いいえ、不誠実な態度をとった私が悪いんです」
 「・・・・・」
 「すみません」
重ねて謝る伊崎を、楓は唇を噛みしめて見つめた。




 どんなふうに謝罪すれば楓は許してくれるだろうか。
付き合っている相手がいるというのに、他の人間からのあからさまな好意の証を受け取ってしまった自分。
男女の恋人ではないだけに、そのあたりはもっと用心深く行動しなければならないはずだった。相手に見られていないか
らといって事なかれに行動した自分が一番悪い。
(反対の立場だったら、俺も・・・・・)
 楓が誰かからチョコを貰う場面を見たとしたら、伊崎は表面上では何でもないように笑っていただろうが、その心の中は
複雑になったに違いない。要は、それと同じなのだ。
 「楓さん」
 事務所の中、他の組員がいても関係ない。伊崎は頭を下げた。
 「本当に、申し訳・・・・・」
 「・・・・・来いっ」
いきなり、楓は伊崎のネクタイを掴んで引っ張ると、母屋に続くドアを開ける。
そして、
 「・・・・・っ」
 そのまま、ぶつかるように伊崎にキスをした。
 「・・・・・楓さん・・・・・」
 「部屋に行くぞ」
 「ですが・・・・・」
 「俺からのチョコッ、いらないのかっ」
それが、意地っ張りな楓からの、許しの言葉だと分かった伊崎は、自分のネクタイを掴んでいる楓の手に自分の手を
重ねた。
 「私にくださるんですか?」
 「本命はお前しかいないだろっ」
 とても、甘いとは言えない口調。
それでも伊崎は、今の言葉が世界で一番熱い愛の囁きのように聞こえた。




                                                               end






伊崎&楓編。
楓はカルシウムが足りないのかもしれません(苦笑)。