江坂&静の場合








 大学の門を出る時、静(しずか)の頬は珍しく綻んでいた。
 「ふふ」
何があっても表情に出ない静には珍しいことだが、ようやく念願が叶ったということでホッと安堵したと同時に嬉しくてたま
らなくて、どうしても笑みが浮かんでしまうのだ。
(でも、これを夕方まで隠しておかないと・・・・・)
勘の良い彼のことを考え、静は気を引き締めるように頷いた。




 大学生の小早川静(こばやかわ しずか)には恋人がいる。人には言えない秘密の恋人は自分と同じ男で、ずっと
年上で、本来ならば近付くこともないような生業の人だった。

 日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の理事である江坂凌二(えさか りょうじ)。
外見は知的な弁護士かエリートサラリーマンにしか見えない端整な容貌の彼は、この世界ではとても有能で、やり手だ
と評判らしい。
 それでも、静の前ではヤクザらしい顔を見せず、常に紳士的で優しかった。
父の会社の経営危機を助けてくれる代わりに、静が彼のもとへ行くという変則的な取引だったが、江坂は静に少しも
不自由も感じさせないように丁寧に扱ってくれ、そんな江坂の誠実さや優しさに惹かれ、何時しか静も想いを寄せるよ
うになった。

 恋人という関係になっても、江坂の優しさは変わらず、静は居心地の良い腕の中に包まれている。
学生である自分が江坂に返せるものはほとんど無くて、心苦しいと感じることもあったが・・・・・年に数回、そんな自分
の感謝の気持ちを江坂に伝えるためのイベントが再びやってきた。

 2月14日、バレンタインデー。
女の子が男にチョコを渡すというのが通例らしいが、最近は女の子同士でもやり取りや、一部では男から女の子へと渡
すこともあるらしい。
 甘いものを好きな相手が喜ぶ方が納得出来ると思ったが、静は最近の流行を利用しようと考えた。
去年は、駄菓子のようなチョコしか渡せなかったが、今年は手作りで。しかし、不審な外出では江坂が疑ってしまうだろ
うと思うので、大学の同級生で、菓子作りが上手らしい女生徒に教わることにした。

 普段浮世離れしている(ように見えるらしい)静がチョコ作りを教えて欲しいと言った時、随分と驚かれたが、反対に面
白がってもくれたようで直ぐにOKしてくれた。
 彼女の家に行くことは出来ないので、構内のキッチンを借りて、数日前から静はずっとチョコ作りを教わっていた。
今回、14日は日曜日なので、昨日と今日は大学の研究室に用があると嘘をついて、当日の今日、やっと完成したの
だ。

 「上手く行けばいいわね、コバちゃん」

 どうやら静が誰か(もちろん女の子)に告白するのだと思っているらしく、すっかり親しくなった彼女にそう言われ、静は
笑いながら頷いた。
一瞬目を見開いた彼女に、その顔は反則と言われたが・・・・・意味が分からない。

 とりあえず、ここ一週間の努力の結果をようやく江坂に渡すことが出来そうだと、静は足取りも軽く門を出たが、間も
なくその隣にすっと車が停まった。
(え?)
 迎えの車が待っているのはもう少し先だと思っていた静は不思議そうに視線を向け、下りた窓ガラスの向こうにある顔
を見て驚いた。
 「江坂さんっ?」
 「乗りなさい」
 「え?で、でも」
 「乗りなさい」
何だか固い口調の江坂に、静は戸惑ってしまった。




 ここ数日、静の様子がおかしいのには気付いていた。
大学に何時も以上に遅くまで居残っているし、帰ってきたその身体からは甘い匂いがした。
 大学内で付けている護衛の話を聞けば、なにやら特定の女生徒と教室の一室に閉じこもっているらしい。
何をしているのか、さすがに中に入ってまでは見ることが出来ないと伝えられた時、江坂の眉根には皺が寄った。

 江坂はゲイではない。元々セックスは女相手ばかりだったし、静以外の男を抱こうとは思わない。
しかし、そんな自分と同じように、静も元々男が好きだというわけではなく、江坂の強引な愛情に引きずられるようにし
て付き合うようになっただけだろう。
 そんな静が、自分と同世代の女に好意を抱く可能性も全くゼロではないだろうが、もちろん、それを江坂が許すはず
は無かった。
数年を掛け、ようやく手に入れた愛しい相手だ。小娘の1人や2人、どうとでもなる。
江坂は多少の好意も、全て綺麗に打ち消してやるつもりだった。

 「あの」
 「・・・・・」
 「仕事で、こっちの方に来たんですか?」
 静は江坂が内心で何を考えているのか全く分からないようで、不思議そうに訊ねてくる。その表情に後ろめたさは全く
感じられなかった。
(それとも、私相手に罪悪感など感じることもないと?)
 江坂の感情はますます下降線を辿る。
 「でも、ちょうど良かった。あの」
 「静さん」
 「え?」
 「私はあなたを籠の鳥にするつもりはありませんが、あまり自由に飛び回っていると、その足に鎖を付けるか、羽を引き
裂いてしまうかもしれません」
 「・・・・・江坂さん?」
静の口調が疑問を含んだものになったが、江坂は構わずに言葉を続けた。
 「女が欲しいなら私に言いなさい。後腐れのない、セックスの上手い相手を見繕ってあげます。もちろん、セックス以
外の係わり合いは持たせませんが」
 「ちょ、ちょっと待ってください」
慌てたように静は江坂の言葉を止めた。




(セ、セックスの相手とかって、どうして?)
 付き合っている恋人相手に女性を宛がうと言うなど、静にはとても信じられない話だ。
いや、それと同時に、江坂にはそういう知り合いがいるのかと思うと、何だか面白くない気がしてしまう。
(江坂さん、モテるし、経験だって豊富なのは分かるけど・・・・・)
 それを感じさせるのはマナー違反だと思った静は、大切に膝に抱えていた紙袋の中からラッピングした袋を取り出し、
バサッと封を開けてしまった。
 「・・・・・それは?」
 「・・・・・」
 「静さん」
 「見て分かりませんか?チョコクッキーです」
 「・・・・・見れば分かりますよ。それ・・・・・誰かから貰ったんですか」
 「俺が作ったんですよ。だから、形も歪でしょ」
 何時もは甘く響く江坂の声が、低く地を這うように聞こえてくる。しかし、静もあまり面白くないと思っているので、無意
識のうちに突き放した言い方になってしまった。
 しかし、江坂は静が自分で作ったという言葉が引っ掛かったらしく、怪訝そうに訊ねてきた。
 「作ったというのは、どういうことです?」
 「・・・・・」
 「静さん」
 「江坂さんに渡そうと思って。甘い物、あまり好きじゃないから、クッキーならいいかもしれないって、菓子作りの上手な
女の子に教えてもらいながら作ったんです。でも、こんなものいらないでしょう?」
自分で言っていて何だか惨めな気になってしまい、静は何も話さなくてもいいようにクッキーを口に頬張った。




(私に・・・・・?)
 もちろん、江坂も今日が何の日か知っているし、事務所には、それこそ数え切れないほどの数の物が重ねられている
が、江坂はそれを見ることも無かった。
 付き合い上、大事な相手には部下が礼状を書くが、本来、江坂はこういったイベントには全く興味がなかったが、静
と付き合うようになってからは1年の様々なイベントが気になるようになっていた。
 だからこそ、今回のことも妙に勘ぐってしまったのだが・・・・・。
(全て、私の勘違いだったのか)
大学で特定の女生徒といたのも、土日に大学に行ったのも、全て江坂のためにしてくれたことだったのだ。
江坂は車を端に寄せて止めた。
 「静さん」
 「・・・・・」
 静は真っ直ぐに前を向いたまま、黙ってクッキーを口に含んでいる。江坂はその手を掴み、食べ掛けのクッキーを自分
の口元に持っていった。
 「美味しい」
 「・・・・・嘘」
 「本当に。静さんの愛情がこもっているから」
 「・・・・・」
 「すみません。最近あなたの様子がおかしくて、いらない嫉妬をしてしまった。気分を害したでしょうけど・・・・・許しても
らえませんか」
 簡単に頭を下げることなどない江坂も、静に対しては違う。静に対しては頭を下げることも、膝を折ることも厭わない
江坂は、今誤解を解いておかなければと静に言い募った。
 「静さん」
 「・・・・・」
 「静さん、許してくれませんか」
 静の視線が、少しだけ江坂に向けられる。
そして・・・・・握っていた手を上げると、先ほど江坂が食べたクッキーの残りを自分も口にした。
 「・・・・・今までで、一番いい出来」
そう言うと、包みを江坂の膝の上に置き、苦笑混じりの笑みを向けてくれた。
 「喧嘩するほど、仲がいい・・・・・ですよね?」
 「・・・・・ええ」
 もちろんという言葉はキスになり、そのまま静の唇に重なる。
思い掛けない手作りのプレゼントを受け取った江坂は、この詫びとお返しは今夜たっぷり静の身体に返そうと、今はた 
だ自分のものだと確信した唇を味わうことに専念した。




                                                                end






江坂&静編。
妬きもち焼きの理事を書くのは楽しいです。