伊崎&楓の場合
「全く、タロは役に立たない!」
日向楓(ひゅうが かえで)は、綺麗に整っている眉を顰めながら歩いている。
高校3年生である楓は既に自主登校となっていて、今日13日も本来は家にいるはずだった。
それが、なぜかこんな街中を歩いている・・・・・もちろん、目的が無くて歩いているわけではなかった。
どんな表情をしていても彼の容貌が損なわれることは無いが、纏っている雰囲気が剣呑なものとなると、さすがに視線
を向けてくる者がいても慌てて逸らしてしまうくらいだ。
「あ〜っ、もう!」
思わず叫ぶと、楓は突然足を止めた。
「楓さん?」
少し後ろを付いてきていた守役の津山が声を掛けてくる。
「・・・・・用が出来た」
「どちらに行かれますか?車を・・・・・」
「そんなに遠くじゃないから」
どこに行くのかわざわざ言わなくても、津山は後を付いてくる。傍から見れば傲慢にも見える楓の態度だが、それは2人
の間では了解済みの関係だった。
「ごめん!母ちゃん忙しくってさっ、時間取れないんだって!」
2日前、友人である苑江太朗(そのえ たろう)から掛かってきた電話。
今年も去年のように太朗の家でチョコレート作りが出来ると思っていた楓の計画はそれで全て崩れてしまった。
人一倍勝気な性格や、人に自慢出来る容貌からして、楓は誰の視線も気にしないが、さすがにあの集団の中に入っ
ていくのは勇気がいる。
「くそっ、恭祐の奴〜」
相手が悪いわけではないということは分かっている。
それでも、楓は口から漏れる文句を止めることは出来なかった。
楓の実家は、代々ヤクザの組という、世間一般の普通とは少し違った家庭環境だった。
それでも、今は引退した父も、そして兄も、組員達も、世間で嫌われているほどに悪い人間ではないと知っている楓は
自分の境遇を卑下しない。
そして、その中でも、幼い頃に守役として自分に付いてくれていて、今は若頭という立場になっている伊崎恭祐(いさ
き きょうすけ)という男は特別な存在だった。
心も、身体も、自分の思いの全てを真っ直ぐに向ける相手。どうしてもどうしても欲しくて、ようやく手に入れた愛しい
恋人。
楓の兄が組長だということもあり、日頃は欠片も甘さを見せない伊崎をじれったくも思うが、自分が愛されているだろ
うということには自信があった。
ヤクザという立場では誰からもチョコを貰えないだろうと、毎年、バレンタインには父と兄、そして組員にもチョコレートを
あげているが、男の楓からでも皆はとても喜んでくれる。
楓も、皆に配るようなチョコを買うのは全く構わないのだが、ようやく恋人同士になった伊崎に渡すチョコは皆とはやはり
差をつけたかった。
去年は太朗の母も協力してくれ、手作りのチョコを作ることが出来たが、きちんと伊崎の目を見て甘いムードで渡すと
いうことは叶わなかった。
去年のような醜態は絶対にさらさない。今年こそ・・・・・楓がそう力を入れるのも無理は無いだろう。
それなのに、それがキャンセルになってしまえば、13日のこんなに差し迫ってしまった日に、チョコを買わなければならな
い。本命チョコをコンビニやスーパーで買うことは出来ない。
こんな風に自分を追い詰める伊崎という存在が憎くて、それ以上に愛おしかった。
バスで駅前まで出た楓は、デパートの地下にエスカレーターで降りた瞬間足を止めてしまった。
(・・・・・動物園)
もう明日はバレンタイン当日だということで、地下のどの店も若い客で行列が出来ている。平日の夕方だというのに、学
生だけではなく主婦やOLといった姿も・・・・・。
「・・・・・」
「・・・・・楓さん、どうされますか」
楓以上に居心地が悪いだろう津山は、それでも一切表情には出さないで楓に声を掛けてくる。
楓はぎゅっと拳を握り締め、憤然と顔を上げた。
「ここまで来て引き下がれるかっ」
ザワザワザワ
それまで、楽しそうにはしゃいでいた声が、驚きのざわめきに変化していく。
この売り場に少年が来たという驚きよりも、その少年があまりにも美人だったからだ。
もちろん、化粧などしておらず、身長もそれなりにあるのだが、どこをどう見ても欠点など見当たらないほどに完璧な美
貌のその少年は、きちんと顔を上げてチョコを物色していたし、その直ぐ後ろをまるで守るように付いている男は、目付き
は鋭いが大人のいい男だった。
まるで、何かの関係を連想させるような組み合わせに、周りの視線は興味津々で付いて行く。
その時、
「ちょっと、いい?」
じっと少年の動きを見惚れたように見ていた大学生くらいの女の前に立った少年は、ちょうどその影になって見えないショ
ーケースを指差した。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて飛びのく女の様子に少年は少しだけ目を見張ったが、やがて口元ににっこりと笑みを浮かべて、少し高めの心地
良い声で言う。
「ありがとう、お姉さん」
「・・・・・っ」
そのセリフと笑顔に悩殺されてしまったのは、言われた女だけではなかったようだった。
「案外、楽に買えたな。視線が鬱陶しかったけど」
楓は思った以上に買い物がスムーズに終わり、上機嫌で笑った。
まさか、楓に笑顔を向けられたくて、女達が率先して譲ってくれたとは気付いていないだろう。
「今年は父さんと兄さんにも奮発したんだ。お返しも楽しみだし」
そう言いながら笑う楓は、綺麗というよりも可愛らしい。
津山は少しだけ目を細めたが、その時いきなり立ち止まった楓は、振り返ると同時に津山の目の前に包みを差し出し
た。
「・・・・・これは?」
ずっと楓の買い物に付いていた津山は、それが楓が買ったチョコだというのも分かっている。だが、それを自分の目の前
に差し出される理由が分からなかった。
「お前に」
「・・・・・」
「あ、言っとくけど本命チョコじゃないぞ?・・・・・でも、結構俺の思いがこもってる」
「・・・・・ありがとうございます」
自分が今どんな風に思っているのか、楓は想像が付かないだろう。
もちろん、気付かせるつもりも無い津山は両手で大切に受け取ると、楓に向かって深く頭を下げた。
廊下のギシギシ軋む音がする。
楓は時計を見上げた。
(やっぱり、日付が変わったか)
金曜日は必ず遅くまで仕事をする伊崎が、自分の部屋を訪ねてくる時間は必ず日付を跨いでしまうだろう。
そう想像した楓は、じっとドアを見つめる。自然とその頬には笑みが浮かんでいたが、自分では全く気付かなかった。
トントン
軽くノックをして、ドアを開けると、何時もは、
「遅いぞ、恭祐」
と、可愛らしい文句を言ってくる口は、今日はなぜかにこやかな笑みの形になっていた。
「・・・・・起きてらしたんですか」
内心少し驚いたものの、伊崎はそのまま楓が座っているベッドの側まで歩み寄ると、じっと自分を見上げてくる楓の唇
に軽くキスをする。
大人しくそれを受けた楓は、再びくすっと笑った。
「楓さん?」
「恭祐」
「はい」
「俺はお前の恋人のつもりだから」
いきなり何を言うのかと、伊崎はじっと楓の顔を見つめた。
しかし、機嫌が悪いようには見えなかったし、むしろなにか悪戯を考えているように楽しそうだ。
(今日の朝までは機嫌が悪そうだったが・・・・・)
「恭祐は?どう思ってる?」
「もちろん、楓さんは私の恋人ですよ」
「そうだよな。じゃあ、これ」
笑いながらシーツを剥ぐ楓の手の動きを見ていた伊崎は、そこにある物を見て思わず目を見開いた。
「これは・・・・・」
「言っただろ?毎年グレードアップさせるって」
「楓さん・・・・・」
「ごめん、恭祐、来年はちゃんとした物贈るからな?絶対、毎年グレードアップさせるから!」
確かに、去年のバレンタインに楓はそう言っていた。しかし、伊崎は楓 がその言葉を覚えているとは思わなかったし、その
言葉通り、こんな風に綺麗にラッピングしたチョコをくれるとは思わなかった。
「どうだ?」
驚いただろうと笑う楓に、伊崎は頷いた。
そして、自分もスーツのポケットに手を入れて、大切に持っていた物を差し出す。
「あ!」
楓の機嫌が悪ければ、渡すつもりは無かった物。しかし、今は渡す時だと思った。
「恭祐っ?」
「世間では、男から恋人に渡す事もあるそうです」
「男から?・・・・・そっか。うん、俺達気が合うな」
「恋人同士ですから」
そう言うと、楓も嬉しそうに笑う。
「ありがと、恭祐」
「ありがとうございます、楓さん」
言い合って、笑い合う。今年のバレンタインは特別な日になったなと、伊崎はもう一度楓の唇を奪いながら笑みを浮か
べた。
end
伊崎&楓編です。
伊崎はあまり出てきませんでしたが、まあ、これでも伊崎は幸せでしょう。