綾辻&倉橋の場合








 午後9時。
もう少し資料をまとめる時間が掛かりそうだと、倉橋克己(くらはし かつみ)はパソコンの画面から目を離して眼鏡を外
した。
 「・・・・・コーヒーでも入れるか」
1人に慣れているつもりでも、どうしても誰かに話しかけるような独り言を言ってしまう自分には気付かないまま、倉橋は
部屋を出た。
 自分のいる階にも小さな給湯室はあるものの、足は自然とエレベーターに乗って1階へと向かう。
この時間にはある程度の社員は帰っていて(ここには組員と一般人半々の比率でいる)、下にいるのは当番の組員くら
いだろう。
 「えっ?お前貰ったのかっ?」
 「?」
 エレベーターを下りた倉橋の耳に飛び込んできたのは、驚きに満ちた若い組員の声だった。
 「シマの見まわりに行ったらさ、飲み屋の子がくれたんだぜ」
 「くっそ〜!どーせ、義理だよ義理!」
 「そんなの分かってるって!綾辻幹部にチョコ渡すお駄賃って言われたからな〜」
 「なんだ、やっぱりそうか。俺だって、会長宛にってかなり押し付けられてさあ。会長にはマコさんって相手がいることは
奴らも知ってるはずなのに、今時の女は諦めるって言葉を知らないよな〜」



(・・・・・やっぱり、貰っているのか)
 組員達の話を聞いた倉橋は、そのまま1階のキッチン(ここでは簡単な料理も作れる設備がある)には寄らず、今下
りたばかりのエレベーターに再び乗り込んだ。

 綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)・・・・・自分と同じ幹部である彼が、もてるだろうということはもちろん知っていた。
あまり行くことはない飲み屋に付き合いで行った時も、豊富な話題だけでなく、その容姿も十分女の目を惹くもので、
倉橋は過去何度か彼が女と消えたということを経験した。
 しかし、それも考えれば数年前までで、今では綾辻は品行方正と言われるほどに女の噂がない。
特別な相手が出来たのかという組員達の噂話を聞くたびに、倉橋は思わず口元が引き攣りそうになるのを抑えなけれ
ばならなかった。

 自惚れているわけではないが、綾辻が自分を愛していることは、今では嫌というほど知っている。
口下手で、感情表現の下手な自分とは違い、綾辻は何時も言葉で態度で愛情を示してくれる。
そんな綾辻の愛情に甘えるわけではないのだが、いまだに自分から行動出来ない倉橋は、彼に好意を向けてくる相手
に文句を言う資格など無いと思っているし、言うことも出来なかった。



(何だか疲れてしまったな・・・・・)
 綾辻も、今日は夕方にはどこかに出掛けたまま、まだ帰ってくる気配は無い。
緊急の用件など無いので携帯に連絡することも出来ず、倉橋はこのままもう自分も帰ろうかと思って部屋のドアを開け
た。
 「!」
 「やだ、どこに行ってたの?克己」
部屋の中には、綾辻が笑いながら立っている。
(何時の間に・・・・・)
 通常、この階に上がるのに使うエレベーターは自分が使っていたので、それ以前にもうこの階にいたか、それとも階段を
上がってきたかのどちらかでしかない。
見れば、綾辻は少しも呼吸を荒げている様子は無いので、きっとどこかの部屋か、給湯室にいた・・・・・いや、隠れて、
いたのだろう。
 「・・・・・どうしたんですか?」
 「ん〜?克己、今日は何の日か知ってる?」
 「・・・・・」
(私に言わせたいのか、この人は・・・・・)
 優しいくせに意地悪なこの男は、自分が口篭るか誤魔化すことを予想しているのかもしれないが、いい加減倉橋も
勉強しているのだ。
 「バレンタインデーでしょう」
 「あら、知ってた?」
 「随分、贈られたそうですが・・・・・」
受け取ったのかと聞くのは怖かった。
もちろんと言われれば傷付くだろうし、いいやと言えば不誠実な男だと責めてしまうかもしれない。
相反する自分の気持ちを認めるのが嫌だった倉橋は、ふと応接のテーブルの上を見て息をのんだ。
 「あれは・・・・・」
 この事務所の中では見たことが無いような綺麗なカップに。
皿の上に美しく盛り付けられているケーキ。
それが2人分、とてもこの無機質な部屋の中には似つかわしくなく存在していた。



(驚いてる)
 切れ長の目を丸くする倉橋を横目で見た綾辻は、自分の行動が十分インパクトがあったのだと内心満足した。
 「綾辻さん・・・・・」
 「私の手作り」
 「え?あなたが・・・・・作ったんですか?」
とても信じられないというように呟く倉橋に、綾辻は失礼ねと声を出して笑った。
 「お菓子作りも得意なのよ」
 「はあ・・・・・」
 「いいお婿さんになれそうでしょ?」
 「はあ・・・・・え?」
 「ほら、座って」
 綾辻は倉橋の手を引いてソファに座らせた。
先程倉橋が部屋を出て行って直ぐに入れた紅茶はまだ熱いし、自信作のチョコレートケーキも店に出しても恥ずかしく
ないほどの出来だと思う。
本当はワインでも用意したかったが、今日は酔った倉橋というよりも、子供のように驚いている顔が見たかったので、綾
辻は行儀良く自分も倉橋の向かいに腰を下ろした。
 「少しだけブランディーを使ったけど、酔うほどは入ってないと思うわ」
 「・・・・・」
 「食べてみて」
 「・・・・・これ、もしかして・・・・・バレンタインの・・・・・」
 「そ。克己はあまりチョコが好きじゃないでしょう?でも、ケーキは割りと食べるし、これなら受け取ってもらえるかなあっ
て思って」
 「・・・・・」
 「私も一緒に食べるから。付き合って、克己」



(どうして・・・・・こんなに私を甘やかすんだろう・・・・・)
 とても扱いやすい恋人とは・・・・・いや、恋人ともいえない存在の自分を、こんなにも蕩かすように甘えさせる綾辻の望
みは何なのだろう。
彼がけして身体だけを求めているとは思っていないし、心を・・・・・と、いうことでもないような気がする。
多分綾辻は、倉橋克己という存在自体を全て自分のものにするつもりだ。
(・・・・・喰われるようだ・・・・・)
 「克己」
 「・・・・・」
 「心配なら、私の皿と交換する?」
 「・・・・・いえ、これを頂きます」
 綾辻が今更自分を騙すようなことはしないと確信している倉橋は、いただきますと丁寧に両手を合わせてからケーキ
にフォークを入れた。
(本当に売り物のケーキみたいだな)
 「・・・・・美味しい」
 「ホント?お世辞じゃない?」
 「本当に、美味しいです」
見た目も味も申し分ないそれをゆっくり口に運んでいると、目の前に座っている綾辻も豪快に半分を口に入れる。
大雑把だが、どこか優美に見えてしまうその様子を見つめていた倉橋は、ゆっくりとフォークを置いて立ち上がった。
 「克己?」
不思議そうな声が背中に掛けられたが、足を止めなかった。



(ちょっと・・・・・強引だったか)
 チョコを渡すよりは簡単に受け入れてくれるのではないかと思ったのだが、やはりこれも倉橋にはハードルが高過ぎたの
だろうか。
どうやって宥めようかと残りのケーキを口にした綾辻がひっそりと眉を顰めた時、
 「どうぞ」
 いきなり、目の前に小さな箱が置かれた。
 「・・・・・克己」
 「何でしょうか」
再びソファに座って残りのケーキを食べ始めた倉橋は、それについての説明を一切しなかった。
それでも、どう見ても、どう考えても、これはそうとしか思えない。
 「この箱・・・・・チョコ?」
 「そうだと思いますよ」
 「そうだとって、ちょっと、克己っ」
 「あなたの好みを私は知らないので、店の方に聞いて酒好きの男性が好みそうな物を選んでもらいました。もちろん、
私は味見をしていませんので」
 「だから、克己!」
 「さすがにプレゼント仕様をお願いすることは出来なかったので、自宅用と言いました。リボンが付いていないからといっ
て文句は言わないでくださいね」
 何時もより少し早い口調で、綾辻の言葉を挟ませない倉橋に始めはただただ驚いていた綾辻もじわじわと喜びを実
感し始めた。色々と言い訳を言っているが、結局倉橋が自分にチョコを買ってくれた・・・・・それが全てだ。
 「克己」
 「・・・・・」
 「愛してる」
 「・・・・・っ」
 驚かせて、驚いて、それでも結局自分が優位に立ちたくて、また驚かせた。
真っ直ぐな愛の言葉に倉橋が弱いことは良く知っている。現に今も、俯き加減でカップを口にしている倉橋の耳元は赤
くなっていた。
 「可愛いな、お前は」
(本当に、可愛い)
これまで会ったどんな人間にも、そして、これから会うだろう人間よりも、誰よりもこの倉橋が可愛いのは真実だ。
 「・・・・・」
 今日はもう、この部屋に他の人間が来ることはない。
綾辻は心行くまで倉橋の姿を見つめていようと思った。





 「え?チョコは確かに貰ったけど、半分以上は克己に渡してくれって頼まれたのよ?」
 「私に、ですか?」
 「組員も結構預かってるって。女だけじゃなくって、ホストとかマネージャーも・・・・・全く、克己は売約済みだって宣言
しようかしら」
 「・・・・・それだけは止めてください」
 「チョコどうする?私は克己に食べて欲しくないし、克己だって私に食べて欲しくないでしょう?」
 「・・・・・ええ」
 「足長オジサンにでもなる?子供は喜ぶと思うわよ?」
 「・・・・・お願いします」





                                                                end





綾辻&倉橋です。
これでも2人にとっては十分甘いと思うんですけど、どうでしょうか。